君と僕の3ヶ月 ( 1 )
ここから"僕"と彼女の3ヶ月間が始まります、!
6月26日 土曜日 午後11時55分
僕はまた前と同じ海に来ていた。
この1週間ここに来るか何度も迷った。
そしてここに来る間も僕の足は何度も海とは反対の方向に向いた。
しかしその度に何かと理由をつけ、ここまで辿り着いたのだった。
そもそも僕は彼女の提案に頷いてもいないのだからここに来る義務はないはずなのに結局僕はここに来ていたのだ。
前回ここに来たのは0時位だったと思う。
早めに出てきたし、日付も変わる前だから彼女が来ていないのは当たり前だ。
僕はここで座って少し待つことにした。
しかし、15分程時間が経っても彼女は現れなかった。
おそらく彼女にとって、僕に言ったあの言葉はきっと些細なことで、すぐ忘れるに値することだったのだ、と思った。
それとももしかしたら、本当に死んでしまっているのかもしれない。
そう思った時、僕は自分から血の気が引いていることに気がついた。
考えるのはやめてもう帰ろう、そう思って立ち上がった時、後ろから僕を呼ぶ声が聞こえた。
『っ君!ごめん遅くなって』
そこには彼女がいた。
彼女の息は乱れていて、ここまで急いできたことが分かった。
彼女が生きていたことに僕はなぜかものすごく安堵した。
「忘れてるか、死んでしまったのかと思った」
『忘れるわけないよ。だって私が来なかったら君は私が死んだって思うでしょ?私は勝手に殺されたくないからね』
微笑しながら彼女はその場に座った。
僕も少し離れた所に腰を下ろした。
『ねえ、そう言えば君、名前なんていうの?』
唐突に彼女に聞かれた。
正直、僕は答えたくない。
自分の名前が好きではないからだ。
『……ごめん、言いたくなかった?』
僕が答えられずにいると彼女は何かを悟ったのか申し訳なさそうな顔をして僕に聞いた。
「僕は自分の名前が嫌いなんだ」
少しの間、重たい空気が流れた。
『……ゆう』
その沈黙を断つように、突然彼女が独り言のように呟いた。
「え?」
僕が聞き返すと、彼女は何かいいことを思いついた子供のようなきらきらとした顔でこちらを向いた。
『君はこれから私といる時は“ゆう”。優しいって字で、優!どう?』
言っている意味が理解出来ない。
「どうって、どういうこと?」
『自分の名前が嫌いなら無理に言わなくていいよってこと。でもずっと“君”って呼ぶのもな〜って思って。だから君のこと“優”って呼んでもいい?』
その彼女の突拍子のない提案に僕は呆気に取られ、しばらくの間呆然としていた。
ふっと我に返り慌てて口を開く。
「いいよ。……でも僕は優しくない」
そしたら彼女は不思議な表情でこちらを見た。
『君は優しいよ。少なくとも私にはそう映ってる。だって、心がない人は初めて会った人に〈自殺しないか心配だから送ってく〉とか言わないでしょ?それに今日、ここに来てくれた』
そう言って彼女は微笑んだ。
『……そうだ!私にも付けてよ、名前!』
驚いた。
彼女も自分の名前が嫌いなのかと思った。
しかし、僕を見る純粋そうな瞳はとても自分の名前を嫌っているとは思えなかった。
「君も、自分の名前が好きじゃないの?」
『うーん、私は自分の名前嫌いではないけど……。でも君に名前付けたら私も新しいの欲しくなっちゃった』
そう言って笑う彼女。
なんだその理由、と思った。
でも、僕は本名を言っていないのに彼女にだけ本名を聞くのは、なんだかフェアじゃないと思った。
5分くらい考えていたと思う。
僕の頭にある言葉が浮かんだ。
とてもしっくり来た。
「れい。……麗しいって書いて“麗”」
すると彼女はなぜか一瞬とても驚いた表情を見せ、その後すぐに嬉しそうな笑みを浮かべた。
『麗。とっても気に入った。ありがとう。
なんで麗にしたの?』
「……君はとても綺麗だから。それに、君といるとなぜかとても心が温まる、から」
言ってからとても気恥ずかしくなって僕は顔を伏せた。
『ふふっ。そんな風に思ってくれてたんだ。なんか嬉しいかも。ありがとう、優』
そう言った麗の声は、何故か少し震えていた。
それから、しばらくの間お互いに口を開かなかった。
普通沈黙が続くと、気まずい空気が流れるものだが、僕にとってこの時間はとても静かで、それでいてとても心地が良かった。
麗はまた仰向けで横になって夜空を見上げている。
僕も麗のしているように仰向けで横になってみた。
そして目に飛び込んできたものは、一面の星空だった。
この世にこれほどまでに綺麗な景色があったのか、と圧巻されるほどとても綺麗だった。
「綺麗だね」
気づいたら呟いていた。
『そうだね』
そうしてまた暫く沈黙が続いた後、麗が口を開いた。
そして、淡々と話し出した。
『私ね、ある事がきっかけでずっと生きる理由を探していたの。優、私の生きる理由になってくれない?』
またも麗の突拍子もない提案に僕は言葉を失う。
僕が生きる理由になれ?
よく分からない。
それに生きる理由を探してたということは、生きる理由が今まで無かったといういことだ。
やはり麗はあの日、死のうとしてたのか?
頭の中がうまく整理できない。
『ああ、今、私があの日ここに死にに来てたのか?って思ったでしょ!あの時は本当に死にに来たんじゃないんだよ?』
僕は自分の心が読まれていたことに驚いた。
『生きる理由になってって言ってもそんな小難しい事じゃなくてね、来週からもここに来て欲しいんだ。あ、でも時間遅いし無理にとは言わないけど』
「なんで、僕なの?」
『うーん、なんでだろう。私もよく分からないや。でも、あの日優に会って、生きる理由はこの人がいいって漠然と思ったの。これ、理由になってる?』
少し困ったような表情で僕を見つめてくる。
僕はしばらくの間考えた。
僕が生きる理由になんて、なれるはずないじゃないか。
……でももし、僕が断ったら麗はどうなってしまうのだろう。
生きる理由を探していた麗にとって、また機会を失い、生きる理由が無くなってしまう。
そうしたら、今度は本当に死のうとするかもしれない。
僕のせいで“また”人が死んでしまう。
なんとも言えない恐怖が僕を襲う。
そう思ったら、僕の口は勝手に動き始めていた。
「ここに来るだけなら」
そう言うと彼女は目を輝かせてこちらを見る。
『ほんと!?ありがとう』
「でも、何も出来ないよ。ただ、ここに来るだけだから」
そう付け足した。
『それだけで十分だよ』
麗は満足そうに微笑んだ。