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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

【現在大幅加筆修正中】私はわたしで、わたしは私 一本当のワタシは一

初投稿の見切り発車ですが、試行錯誤して書いていきたいと思いますので宜しくお願い致します。

短編としての投稿ですが、長編での投稿前提としております。最初の内容から内容にかなり変更あります。

 

始まりは意識的に、だった…と思う。

始まりよりもっと前。まだ怖くて震え、痛くて苦しくて泣いて。怒り抵抗や反撃、奇襲もしただろうか。そのどれもが何倍にもなって返ってきて。なのにまだどこかで期待をして、きっと何かを頑張り、耐え続け私の悪いところを直しわたしを見て欲しくて認めて、褒めて貰いたくて。諦められず、幼いながらに顔色や表情を伺って、機嫌を確かめ過不足なく仕上げ、時に空気になり時に空気を読み。

それでも全てがムダな事だった、と気付いた時には笑うことも怖くて悲しくて泣くことも、痛がることさえ止めて、期待する事を、信じることを諦めた。


そして、現実から逃げるように目を背け、自分自身で作り上げた殻に篭って、自分自身の事とは思わず…いや、思いたくなく他人事と思い込み、自分自身に言い聞かせ。

どこかの誰かの人生を、物語を見るかのように眺めているうちに全てを客観的に見るようになり、

喜怒哀楽を表せない表情を歪ながらも作る方法を知り、

成長と共にその表情を作る事と共に、何も考えず何も思わずにいながら、面倒事を避ける為に相手によって態度や表情をその人のまんぞくする物に変え、空気を読み上辺だけは取り繕いつつ。


 物心つく頃には少し歪ではあったけど、まだ一般的な"家庭"というものだったと思う。狭いながらも家族五人で、幸せに暮らしていた、らしい。わたしは覚えていないけど、姉に聞いた話と生まれてから幼稚園入学後位までだろうか?母の一言付きでキッチリとアルバムに収められていた写真を見たら無邪気な笑顔で笑っている私がいた。


 専業主婦でご近所付き合いも家庭の事もおろそかにせず毎日家事をしてくれていた母、家庭の事を家族の幸せを考えてくれて必死に毎日働いていてくれた父。8歳の長女と7歳の次女たぶんお転婆盛りな年頃だろうか。そんな一般的な裕福でも貧しくもない普通の家庭に私は産まれた。


 産まれた直後にチアノーゼとくも膜下出血で長くはもたないだろう、と言われていたと聞いた。その時、母は『2歳位になったらもう心配してたのがアホらしくなるくらいにうるさい喋る子になってね、あぁこの子は無駄に元気に長生きするんだろうって思ったよ』と笑って話していた母の言葉と表情が今でも何故か思い出せる。

 父は『周りの人に恵まれて、お前は助かったんだ。だから名前が恵になったんだよ』と言っていた父の言葉は思い出せるが表情は何故か覚えていない。


 想像でしか無いが、生まれて初めて送られるプレゼントの名前。心配して悲しんで何もできない無力感など沢山の負の感情を、名前の、お返しに、私からの初めてのプレゼントとして与えてしまった気がしてならない。それと同時に私が産まれた事で"普通の幸せな一般的な家庭"というものに歪のかけらが生まれたのかもしれない。と今でも時々思う。



 私が小学生入学前に父が出世して転勤が決まり引越しも決まった。

 沢山の思い出がつまっていたと思う今までの2DKだかなんだかとは全く違う、新築で7LDKの広い庭付きの広い広い一戸建て。床暖房付きのオール電化で食洗機付きの広いキッチン。乾燥機もでかい洗濯機もある広い洗面所と脱衣所。足を伸ばしても足りないでかいお風呂場。1階と2階それぞれにあるトイレ。

 ゴミ捨て場なんていう物も無く、ゴミ捨て専用の機械が置いてあった事も覚えている。鍵を回して斜め開きの鉄のドアを引くとゴミ袋が2つほど入るサイズで、ガコンと押して引くとゴミ袋が無くなっている不思議なドアつきのゴミ捨て機械。今にして思うとだいぶ近代的な設備だったように思う。父がそれだけ出世して給料が良くなったのだろう。

 ただ、今にして思えばこれも歪な壊れるきっかけを作る事になった、と思う。多分父はまだ家族の幸せを考えていてくれたのだとも思っている。けれど、父と母の幸せという価値観と思い描く事が違ったちょっとしたすれ違い。ボタンの、かけ違い。


 地獄の始まりだった。


 父は家庭の為家族のため、という目的で忙しく働いて過ごす。徐々に、少しずつ、家に帰ってくる事が少なくなってきた。当時は単純にずっと仕事で出張で、と思っていたけど、今考えるとその頃から愛人がいて、所謂不倫という物をしていたはずだ。

 月に帰ってくる日が10日、8日、5日と段々と減っていくと共に父から発せられる大声での暴言。少しでも言い返したり、何かを言うと殴る蹴るの暴力。今で言う家庭内暴力、DVというやつだ。まだその時の私は幼稚園卒園前か小学校入学後位で、大声の怒鳴り声を怖がる程度だったと思う。それに、母も姉二人も居たので暴力は分散されていたと思う。



 いつからだろう

 怒らなくなったのは。



 まず最初に母が夜スナックで働くようになった。父からの暴力から逃げるように。その分の怒りをぶつけるように姉二人へと暴言暴力が酷くなり、その時の私は確か小学校1年、6.7歳だろうか、私へも暴言のみではなく、暴力も、追加された。

 その時の私は星を見るのが好きで宇宙に憧れていて、だからだろうか。宇宙服を着れば私は痛くないし怖くない、聞こえないし傷つかない。だからわたしは【うちゅうふく】を着て生活するようになった。

 多分その時に私からわたしが生まれて、わたしが私で私もわたしになり、それと同時にわたしは私じゃなくなり私もまたわたしではなくなった。



 いつからだろう

 悲しまなくなったのは。



 父のエスカレートする暴力に次に耐えられなくなったのは逃げ場のある1番上の姉だった。少しずつ帰らなくなり、そのうち父がいる時は必ず居ない時でも帰ってくることが無くなっていった。暴言と暴力がわたしと次女である真ん中の姉わたしたち2人に容赦なく降り注いだ。大丈夫、痛くないし、悲しくない。【うちゅうふく】があるから。だから、わたしは平気だから、姉にも早く逃げて欲しかった。その当時は逃げ場があるのに、逃げないのは何でなのかは分からなかったけど、多分なんとなく私がいるからだと思った。だから一生懸命説明して、逃げてもらった。これで、もう大丈夫。

 わたしは、なにもこわくない。




 いつからだろう、

 泣かなくなったのは。




 月に2.3回か多くても4.5回くらいを【うちゅうふく】を着たわたしを私が見てるだけ。



 いつからだろう

 何の期待もしなくなったのは




 その日起きた時家の中の空気が違った。私が小学2年くらいの頃。時期は覚えていないけど、冷房とは違う冷たい異様な空気だけは今でも鮮明に思い出せる。よく分からないけれど、何かが終わるんだって思った。とうとう壊れるんだって思った。多分とっくに壊れていたはずのモノが、決定的に。父が朝から家に居た。母も居た。1番上の姉も居た。真ん中の姉とわたしも、居た。

 リビングでソファにも座らずみんな正座して円になっていた。もし傍から見ている人がいたら怪しい何かを想像するだろう。もしかしたらわたしが見た幻かとも思ったけれど。

 そして話し合いという名の決定事項が告げられた。父と母の離婚の話だ。姉は高校があるから父とこのまんまこの家で、わたしと真ん中の姉は母とオジサンと母の実家へ。

 結局母も不倫して愛人がいた訳で、考えてもアホらしいとしか思えない。

 もっと早く壊してくれれば、わたしはここまで壊れなかったのに、という憎しみに似た感情は思ってすぐ消えた。感情を持つことがとても疲れる事になっていたから。

 耳障りの良い言葉で話されても、つらそうな顔を作って話されていても、わたしにはもう何も分からない。その時もう既に家族という名の、父も母も姉二人も、そういう名前のたまに会う人たち、という存在になっていて。私もわたしが、よくわからなくなっていた。




 いつからだろう、



 考える事を、辞めたのは。




 母の実家での生活は全くと言っていいほど覚えていない。ひたすらに田舎で学校までが途方もなく遠くて、方言も凄くて何も聞き取れない。

 確か半年ほど経った頃、父の元へと返る送られる事が決まった、らしい。多分裁判か離婚調停が終わったのだろう。唯一覚えているのは母の父、わたしの祖父が言った言葉。


『お前たちは、ここにはいらないから、返すんだよ』




 いつからだろう

 覚えておくことを、思い出すことを、やめたのは。




 父の元へかえった。そこからの記憶は余り無い。久しぶりに再開したはずの場面も普段の生活の場面もなにもかも、ほぼ全て覚えていない。

 わたしの、

 私の生活の中からみんなが消えた。お金はあった。多分置いていってるやつ。世間体を気にする人だったから。ゴハンは食べていた、と思う。たぶんインスタントラーメン。


 暴言も暴力もなんにも思わなくなっていた。

 たしかその頃姉に言われて気付いた。わたしは笑っているのに、鏡の中の私は無表情で。どんなに笑っても、笑っているつもり、にしかならなくなった。



 ある時父に連れられてよく分からない建物の中で絵を描かされた事を覚えてる。当時は意味が分からなかった。父と別の部屋で、木を描かされた。絵はどんなだったのか覚えていない。



 わたしが11になる頃父の再婚が決まった。世間体を気にして上面が良い人だから、特に何も思わなかった。また家族という名前の、母親って人が増えた。小学校最後の年になる頃に父の出世と転勤が決まった。義母がその地域の人で父が働いている会社の本社もそこだった。また歪な家族が始まった。しばらく経つと義母も父のDVに気付いたんだろう。わたしに父に対する愚痴を話す事が始まった。父は何も変わらない。暴言も、暴力も。むしろ酷くなっていた。


 中学入学後、わたしは笑顔を作れるようになった。逃げ出す場所もできた。でも義母から逃げられなかった。愚痴を聞いて、相槌も返事もした。義母が満足するように。たぶんここでわたしは壊れたまんまでも、壊れてない普通の人みたいに振る舞える様になった。


 "私はわたしで、わたしも私"



 そんな事は当たり前で、

 間違っているはずがないのに。


 きっと、考えるだけムダな事で、

 結局、何も、変わらない。







 いつからだろう?

 何もかもを偽って、全てを諦めたのは。






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