1・板橋区
板橋区ってば東京のなかでもすっごく地味。地方住みの人は、名前すら知らないんじゃないかなぁ。お隣の豊島区はめちゃ有名なんだけど。なんせ、あっちにはサンシャイン60があるもんなぁ。
わたしの住んでいるところときたら、ランドマークといえば大谷口にあるドーム型の給水塔くらいなもの。それだって昭和の初めに建造された後、10年くらい前に建て直されたばかり。ほかに自慢できるものなんて、なんにもない。
紹介が遅くなっちゃったけど、わたしの名前は柴田薫。一緒にいるのは大沢久美子、大谷美詩衣、黒田三千代。大山女子校2年のクラスメートだ。
今日は水曜日でクラブ活動もなく、みんなして下校の途中。仲がいいだけでなく、駅までの帰り道も同じ。といっても、わたしだけは駅の向こう側に住んでいる。ほかの3人は東武東上線・大山駅からそれぞれ別の区へと乗り継いで帰るのだ。
「例によって、寄っていきますか」わたしが声をかけると、
「うん、いいよ」
「行こう、行こうっ」
「週一の恒例会だものね」
と、にぎやかな返事が返ってきた。駅に続く大山アーケードの中にあるファストフード「モック」で、ハンバーガーを食べようという話だ。
通称「大山アーケード」は正式には「大山ハッピーロード商店街」というらしいけど、誰もそんな呼び方などしない。都会でも珍しいアーケード街であり、天井があるので雨が降ってもノープレブレム。
暑い季節には商店から漏れる冷房のおかげでけっこう涼しいし、春先のいまであっても、熱がこもるからかそれほど寒くはなかった。
夜間と早朝以外は車両の通行もないので、気兼ねなく路の真ん中を歩けるのも精神衛生上らくちんだ。
モックは大山駅から目と鼻の先にあった。いつも通っているので、店頭に立つバイトのお姉さんとも顔なじみである。美大でピアノをやっていて、細いけれど機敏そうな白い指と左目の下のほくろが特徴だ。
わたし達が店に入るとバイトのお姉さんがめざとく気づく。
「いらっしゃい。ああ、そういえば今日は水曜日よね」
「こんにちはー」久美子がペコッと会釈した。ほかの3人もそれに続く。
この時間は客も少なかった。わたしは率先してレジに並ぶと、
「みんな、いつものでいい?」と聞いた。
「うん、わたしはダブチー・セット、チョコ・シェイクとポテト」美詩衣が答える。
「あたしもいつも通り、てりやきセットとコーラね」こちらは久美子。
いっぽう三千代は、
「うーん、わたし今日はホットコーヒーだけにする。これ以上、背が伸びたら困るから」
「なーにいってんのさ、ミッチ」わたしは三千代の脇を軽くつついた。「日本人の平均身長は伸びてるんだよ。これからは高身長のほうがモテるんだってば」
「そうだぞ、ミッチ。あたしなんて、よく中学生に間違えられちゃってさあ。あんたがうらやましいよ、まったく」そんな美詩衣は、クラスでも席が前のほうだ。内心、三千代の背をちょっとだけ削って美詩衣に付け足してあげられたらなぁと思う。
結局、三千代はホットコーヒーだけという選択を譲らなかった。わたしは全員のオーダーを再確認したのち、バイトのお姉さんに注文をする。
「はいはい、かしこまりました。じゃ、メニューを繰り返すわね」お姉さんは注文の復唱をはじめた。ふと、いつものいたずら心が出てきて、
「あ、あとスマイル4人前ね」と加える。
一瞬、何かが変わった。これといって具体的には指摘できないが、明らかに空気が違うのだ。
はてな、気のせいだろうかと思いお姉さんの顔を見て違和感に気がつく。確か、目の下のほくろは左だったはず。それがいまは右側になっていた。それとも、初めからこうだったっけ?
「スマイル4人前ですね。追加で400円、ちょうだいいたします」お姉さんは真顔でそう言い、注文通りに4度ニコッとしてみせる。
「え、あの……」まじまじと見返すその顔は、感情を伴わない営業的な表情に戻っていた。まるで、わたしと会うのは今日が初めて、とでもいうかのように。
3人の待っているテーブルに戻ってきたわたしは、怪訝そうにもらす。
「今日のお姉さん、なんか変なんだよね。『スマイル4人前』っていったら、お金取られちゃった」
「うそーっ」久美子が素っ頓狂な声を出した。
「薫がいつも冗談ばかりいうから、怒っちゃったんじゃないの?」と美詩衣。
「ねえ、みんな。気がつかなかった? いまさっき、店の中の雰囲気が急に変わったってことに」三千代はおっとりとした性格をしているけれど、人一倍感覚が鋭い。やはり、さっきのアレはわたしの勘違いではなかったのか。
「そう? わたしは何も感じないけど……」久美子はそう言いつつも、念のためか周囲を見回す。
ダブチーの包装を広げ一口かじったあと、美詩衣がちょっと首をかしげた。「そういえば今日のダブチー、いつもと味が違うような。まずいわけじゃないけど、おいしくなったというんでもないんだ。ただ、なんとなく違う」
微妙な雰囲気のなか、わたし達は黙々と食べ続けた。
「そろそろ出よっか」久美子の言葉で緊張が解ける。
「うん、外の空気が恋しくなってたところ」美詩衣はトレーの上で可燃ゴミとプラスチックゴミの分別を始めた。面倒見のいい久美子が、それらを1つにまとめる。
「ゴミ、捨てておくから、みんな先に出てて」
「ありがとっ」わたしは席を立った。
「薫ってば、そんなに急いで歩くと、また転ぶわよう」三千代が笑いながら忠告する。
「だいじょうぶだって――」モックを出た途端、わたしは言葉を失った。
「どうした、薫?」後ろから美詩衣が聞いてくる。
「ねえねえ、見てよ」とわたし。「商店街が変わっちゃってるよ!」
「ばかなこといわないで」その美詩衣も、外の光景を見て口をぽかんと開けた。
「2人とも、なんなの?」三千代がわたしの頭1つ分上から商店街を見る。「まあ、なんてことかしら。どうなってるのこれ?」
ゴミを捨て終わった久美子がやっとわたし達に並ぶ。同様に目を丸くし、
「ここって、わたし達の大山アーケードじゃないよね」
念のため、みんなして商店街中を歩き回る。確かにアーケードだけど、見覚えのある店舗は1つもなかった。たまに行く美容室ミックのあるはずの場所には、年季のいった八百屋があるし、みずほ銀行大山支店はパチンコ店になっている。
「やっぱり、知らない商店街だわ」久美子は額に手を当てた。やや太めの彼女は、グループの中で一番、頭の回転が速い。このポーズは、思考回路をフル活動させるときのクセだ。
「でも、通路の感じはだいたい同じだよね。さっき案内板を見たけど、板橋って書いてあったよ。店だけが入れ替わっちゃったってこと?」わたしは誰にともなく聞く。
「そんなわけないじゃん」すかさず美詩衣が反論した。「あたしらがモックに入って出るまで、30分くらいなんだよ。魔法じゃあるまいし」
「困ったわあ。駅前の靴屋で頼んでおいたローファー、今日取りに行く予定だったのよ。店ごとなくなっちゃったのかしら。わたしのサイズだと、ここしか取り扱っていないのよう」三千代は相変わらずのんびり屋だ。緊急事態だというのに、靴の心配などしている。
だんまりだった久美子が頭をあげた。
「そうね、考えられることは1つかも」
「なんかわかったの?」美詩衣が期待を込めてたずねる。
「ここはたぶん異世界よ。わたし達、何かの拍子に別の板橋区へ転送されてしまったんだわ」
「別の板橋って……」三千代は怪訝そうに久美子を見返した。
「いくら『異世界転生』がはやってるからって、そんなばかなこと」美詩衣もあきれたように言う。
わたしはといえば、あのとき感じた違和感の正体はこれだったか、と納得していた。
「とりあえず学校に戻ってみない? アーケードだけが変わったのか、それともあたしらが異世界に飛ばされたのかハッキリするじゃんか」
美詩衣の提案に全員がうなずく。
アーケードを出た。川越街道は相変わらず交通量が激しかったし、町並みもよく似てはいる。
だが遠くに見えるはずの大谷口給水塔はそこになかった。あるのは白亜の城、それも日本の城ではなくヨーロッパ風の建物である。
「あれって給水塔……じゃないよね」とわたし。
「そうね、薫。あんたと同じものが見えるのだとしたら、あれはお城よ」久美子は冷徹にもそう言い放つ。「学校へ急ぎましょ。知り合いがいるか確かめなきゃ」
川越街道沿いを池袋方面に向かって歩き出した。この歩調なら、10分で着く。
角を曲がったところが大山女子校だ。わたし達はごくりとつばを飲み、せーので道を曲がる。
「まあ、たいへんだわ」三千代がまず声に出した。
「なんてことだい」美詩衣もいまいましそうに吐き出す。
「ああ、やっぱり……」わたしはがっくりと膝を折った。
「これではっきりしたわね」大山私立幼稚園と書かれた門をじっと見つめながら、久美子が言葉を継ぐ。「わたし達、異世界にいるんだわ!」
「久美、どうしよう?」半べそをかきながらわたしはすがった。
「すべての始まりは大山アーケードよね。これ以上歩き回っても迷うばかりだし、あそこへ戻りましょ」さすがに冷静な判断力だ。美詩衣も三千代うんうんと首を振る。
大山駅前までやって来て、美詩衣がこう言いだした。
「薫以外は板橋区以外に住んでるよな。あたしら3人は、自分ちがあるのか確認しとかないか?」
わたしは不安になる。このまま見知らぬ場所に置いてけぼりを食うのではないかと思ったのだ。
「大丈夫、心配しないで薫」わたしの心を見透かしたかのように、久美子が肩に手を置く。「確かめたら、すぐここに戻るからね。だからモックで待ってて」
「うん、わかった」わたしはうなずいた。
3人が駅に入っていくのを見届けると、わたしはきびすを返してモックへ向かって歩き出す。
ところが、ものの30秒と経たないうちに、後ろから三千代に呼び止められた。
「おおーい、薫ーっ」
振り返ると、3人がハアハアと息を切らせながら走ってくる。
「みんな、どうしたの?」不思議そうにたずねると、
「それがさ、あたしらが改札を通ろうとしたら、駅員に止められちまって」腹立たしさを隠そうともせず、美詩衣が言った。
「あのね、板橋区を出るにはパスポートが必要なんだって。こっちの東京じゃ、区はそれぞれ独立した国らしいのよ」
「えーっ?!」
「わたし達、板橋区から出られないんですって」三千代は悲しそうに声を絞り出す。
「まったく、この世界はどうなってるってんだい」と美詩衣。
「もう日が暮れるわ。今日はどこか泊まるところを探そうよ。今後のことも話し合わなくちゃいけないし、わたし達、心も体もくたくだでしょ?」
久美子の意見に、誰1人として反対する者はなかった。