せんば橋にはいきなり団子-5
「ご主人、入らないんですか?」
「ちょっと待て。浸ってるから」
古ぼけた店の看板を見上げていると、話に聞いていた土地へ本当に来たんだなという旅行気分を味わえる。ちょっとした新体験だ。
「それはいいんですがご主人」
「どうした」
「突っ立ってるとおまわりさんに怪しまれますよ?」
「立ってるだけで事案になるわけないんだが」
……ないよな?
「メイドの海原奏と女子高生の海原奏、どっちの意見が聞きたいですか?」
「違うのか。じゃあメイドで」
「紳士の鑑のようなご主人が、まさか不審者と思われるわけありませんよ! 万一怪しまれたとしても、それは不審者という名の紳士です!」
「ちなみに女子高生だと?」
「…………」
「黙ってスッと距離をとるんじゃありません」
「いろんなことがある時代ですからねぇ」
そんなポイズンな世の中じゃないと信じたいが、ボケっと立っていても寒いだけなのは事実。特に体の小さい奏には辛いだろう。
のれんをくぐってガラス戸を引くと、中から熱気といっしょに濃厚な豚骨の香りがあふれ出した。
「いらっしゃい」
「二人で」
「テーブルどうぞ」
そこはいかにも田舎のラーメン屋。お世辞にも綺麗とは言えない無骨な内装に、無愛想な店主。そして好況も不況も客に愛されて生き残ってきたことを示す、使い込まれたテーブルと椅子が三組並んでいた。奥には七人がけのカウンターも見える。
「ほれ、コート貸せ」
「え、いいですよ」
「なんだ、そんくらい遠慮すんな」
「ご主人が脱げっていうなら脱ぎますけど」
「言い方」
「よいせっと」
ボタンを外してコートを脱ぐとその下は。
「……着ろ着ろ着ろ着てろ」
「脱げって言ったのに」
「なんでメイド服で来てんだ」
奏のコートの下はメイド服そのままだった。そういえば、出かける時に着替えるタイミングとか無かったような。
「お仕事着を恥ずかしがることはない、っておとんがよく言ってるので!」
「さっきから警察とか気にしてたのはそのせいか!」
「私はいいですけど、ご主人が社会的にアレかなって」
「……分かった。今さら言っても仕方ないからそのまま食ってくれ」
「かしこまり!」
なんだろう、奏といると行動ひとつごとに何かしら起こっている気がする。
そんな俺たちがテーブル席についたところで、お冷をお盆に載せたお婆さんが近づいてきた。厨房で黙々と作業するお爺さんと二人で経営しているのだろう。
「初めましてのお客さんねぇ。ご注文はお決まり?」
「俺は……。ラーメンに味玉ふたつで」
「はいはい」
「ご主人ご主人」
「なんだ?」
人前でご主人と呼ばれるのに若干の気恥ずかしさはあるが、お婆さんは気にしている様子はない。ふざけていると思われているのかもしれない。
「その、怒らないで聞いて欲しいんですけど……」
「どうした急に」
真剣な顔で、奏は『ラーメン』の三つ隣に掛けられたメニュー札を指差した。
「チャーシューメン、食べたい!」
「チャーシューメン?」
「おじさんが切ってる焼豚がおいしそうで……!!」
ラーメン 六百円。
チャーシューメン 八百七十円。
侍従として一番安いものを頼むべきところ、ちょっといいやつを頼んでいいか確認しているらしい。
「二百七十円の差はでかいよな」
「二百七十円っていえば一家の一食分ですよ!? それがラーメン一杯に乗っかると思うと背中が……!」
「海原家の食費事情は分かったが、ひとつだけ気になるとすれば」
「はい?」
「奏が俺からかっさらおうとした金額、いくらだっけ?」
十二億である。結婚で共有と考えても六億円である。六億円を狙った女が二百七十円に戦々恐々としているのを、いったいどんな顔で受け止めろというのだろう。
「……おばちゃん、私、ごはんを水道水で薄めたやつでいいです……」
「あらあら」
「いいから。別にいいから。好きなの頼んどけ」
「おっしゃー! おばちゃん、チャーシューメンにチャーハン!」
「はいはい」
こいつしれっとチャーハンつけやがった。伝票を書き終えたおばあさんが立ち去ったのを見計らって、奏はまた壁のメニューを指差す。
「だって見てくださいよご主人!」
「んー?」
「チャーハンが五百円で、半チャーハンが三百円です!」
「……つまり?」
「半チャーハンより、チャーハンをはんぶんこした方がお得!」
「それはな、奏」
「はい!」
「服屋でシャツを買ったらジャケットも買わされる人の考え方だぞ」
「…………!」
黙り込んだ、この顔は。
「さては覚えがあるな?」
「必死にためたお小遣いが速攻で溶けました……」
「普段の貧困具合を聞いているだけに重みがすごい」
たぶんだけど奏、普段は肉とか大して食べてない。カレーは魚肉のソーセージが基本だったりしそうだ。
とりあえず、うん。
「チャーシュー、美味いといいな」
「絶対おいしいですってアレ!」
ラーメンが早いのは全国共通なのだろうか。待つこと五分ちょっとで、お盆を持ったお婆さんが厨房から現れた。
「はい、おまちどおさん」
「おー、これが熊本ラーメン」
その特徴を見た目でいうなら、『白黒』だ。
豚骨ベースの白いスープに、ニンニクとネギを焦がした黒い油が浮くコントラストはここでしか見られない。それを太めの麺ときくらげに絡めて食べるのが熊本のラーメンだ。
「トーマさんとかがたまに連れて行ってくれるラーメン屋さんがあるんですけど」
「愛されてんな、社長令嬢」
「ふへへ」
「で、その店が?」
「そこはニンニクを揚げてチップにしたやつを載せるんですよねー」
「焦がしニンニクにもいろいろあるんだな」
「で、どうですご主人」
「どうって?」
「おじいさんの代わりに食べに来た感想は」
「……ああ、美味いよ。奏は?」
「おいしいです! 溶けます!」
とろりと白いスープは見た目よりさっぱりとしていて、そこにニンニクの旨味がパンチを加えてくる。その強さに負けない太めの麺がよく合っている。濃いめのラーメンに、シンプルでやや薄味のチャーハンがありがたい。
ひと通り食べ終わった辺りで、ピッチャーを手にしたお婆さんがやってきた。
「お冷いりますか?」
「ああ、ありがとうございます」
「私もください!」
「はいはい。なんでしょう、おふたりを見てるとずっと前に会ったご夫婦を思い出すのよね」
「えっ、奥さんにメイド服を着せてたんですか!?」
「めいどふく?」
「彼女の言うことは一切を気にしないでください。で、どんなご夫婦で?」
「あらあら」
水をコップに注ぎながら、お婆さんはなつかしむように話している。
「東京のほうから旅行に来なさったご夫婦なんですけどね、ちょうどほら、新玉名駅が開通する前の日だったのよ。道に迷ってらしたのを案内してあげたの」
「人助け!」
「……それで?」
「うちも開通の催しで出店を出すことになっててね。そしたらご夫婦が『食べに行きます』って言ってくれて。特にご主人の方は味玉が好きだからいっぱい頼むって子供みたいにはしゃいでらしたんだけど……」
「来なかったんですか?」
違う。
「……イベントはなくなったんだ」
「そうなの。地震でね」
九州新幹線の開通は平成二十三年三月十二日。
その前日に、平成最大ともいえる災害が発生した。
「東日本大震災の関係でな、そういうイベントごとは自粛になったんだよ」
「あー……」
「しかたのないことですけどねぇ。ご夫婦には申し訳ないことをしちゃったかしらって」
「それは」
「あら、これだとあなたたちがお年寄りみたいね。なんとなく雰囲気が似てる気がしたものだから、ごめんなさいね」
一致している。じいちゃんの話とすべて同じだ。
まず、偶然ではない。
「……祖父も後悔していました。店の名前は聞いたんだから、そっちに行けばよかったって」
「あら?」
「結局、そのあとすぐに祖母が死んで旅行にも行かなくなってしまって。旅先の心残りのひとつだと言っていました」
「あらあら」
「味玉、美味かったです。きっと祖父も気に入っていたと思います」
「あらあらあら! お、おじいさん、ほら、あの時のご夫婦の……!」
ピッチャーも置きっぱなしで厨房へ駆け込んだお婆さんの背中を見送りながら、奏が小さな声で言う。
「ご主人」
「なんだ」
「もしかして、こういうのって他にもあります?」
「……まあ、少しな」
じいちゃんには、よく旅先の話を聞かせてもらった。楽しかったこと、やり残したこと、どちらも日本中に散らばっている。
「そのうち行く感じですか」
「なんだ、いっしょに来る気か?」
「旅費が出るなら!」
「……奏のそういうとこは割と好きだよ」
「褒めてます?」
「奏が褒められたと思ったなら褒めてる」
「ふへへ」
このあと、店主のお爺さんにも挨拶して。お土産に味玉とチャーシューを少しもらって。
電車で暑いと言い出した奏がコートを脱がないよう警戒しながら、ふたりで家へと帰った。
大学の春休み、熊本へバイク旅行したときに新玉名駅の近くを通りました。ガラス張りの駅舎の前にはステージが組まれ、町の偉い人が「明日から開通なんですよー!」といろんな催しが書かれたチラシをくれたのを覚えています。
それは2011年3月11日の朝。東日本大震災の四時間前。予定されたイベントは全て自粛になったと聞いています。一方私も天候の関係で帰りは熊本に寄ることができず、それっきり熊本の地を踏めていません。
いずれ、また行きます。
ちなみに水道水かけご飯には 塩>塩昆布>ふりかけ の順でマシです
次回からは旅立ちに向けて話が動き出します