渓流釣りに朝メイド
「見ろよじいちゃん! 今度は三十センチのニジマスだ!」
「なにぃ!?」
これは夢だ。過去に実際にあったことで、でも夢だ。
じいちゃんが生きてる。だから、夢だ。
「こりゃ、俺の勝ちで決まりだな!」
「なんの、『渓流の魔術師』と呼ばれた男を舐めるでないわ!」
高い空の下、セミの声と渓流のせせらぎだけが耳を打つ。日本列島の真ん中らへん、長野県の山奥にあるここは子供の頃からじいちゃんと何度もやってきた秘密の釣りスポットだ。
そこで釣り対決をするのが、毎年の夏の楽しみだった。
たくさん釣った方が勝ち、同数なら大きいのを釣った方が勝ち。それだけの単純なルールで朝から晩まで夢中になった。
「俺が勝ったら小遣いをくれる約束、忘れてないよな? 今年こそいただいてやる!」
「ふん、勝負は九回ツーアウトからよ! ここからの巻き返しを見とれよ見とれよ」
じいちゃんは威勢よくそう言う。でも、勝てるはずがない。
河原のなかば、川から離れた安全な場所で椅子に座っているのだから。竿こそ握っていても川に届かせるので精一杯だろう。
釣り名人と呼ばれたじいちゃんのバケツの中身は、今では水だけだった。
「……じいちゃん、本当に体は大丈夫なのか?」
「何を言っとる。じいちゃんが病気に見えるか」
「病気だから入院してたんだろ」
つい二日前まで、じいちゃんは心臓の病気で入院していた。
一時帰宅したじいちゃんに頼まれてここまで連れてきたけれど。いつまた心臓が悪くならないとも限らない。昔のように日が暮れるまでいるわけにもいかないだろう。
「そりゃそうだ! こりゃ一本取られた!」
「一本取られたとか、実際に使う人を初めて見たぞ」
「む、死語というやつか。今だとなんと言うんだ?」
「え? えーと……」
言われて、考え込む。事象としてはよくあることなのに、うまく言い表す言葉が思い浮かばない。
「……マジレス乙、とか?」
「ふむ」
「いや、これはちょっと違うかも」
「『マジレス乙』は相手の勝ちを認めとらんからな。使う場面は似とっても意味合いが変わっとる」
「詳しいなじいちゃん」
上の世代にありがちな、聞きかじった若者言葉をそのまま使っているやつじゃない。ネットミームの意味をきちんとニュアンスまで理解している。
「入院中はとにかくヒマでな。ようつべを見とった」
「ようつべ」
Youtubeをローマ字読みで『ようつべ』と呼ぶネットスラングがある。あえてユーチューブとは呼ばない辺りがほどほどのこなれ感をかもし出している。
「おかげで今の流行りには敏くなったが、何しろ体がなまっていかん」
「運動不足の解消に山奥まで分け入る病人もなかなかいないぞ」
「体の動くうちに、な。床の上で半年寝て終わるくらいなら、竿を握ってこのまま自然に還りたいわ」
「……そんなこと言うなよ」
分かっていた。
心臓病の患者を、山に連れてくるのがどんなに危険なことか。それが分からないほど俺も子供じゃない。
それでもじいちゃんはもう一度ここを見たいと言った。俺ももう一度見せてやりたいと思った。
これで最悪の結果になったとしても後悔はない。後悔はないけれど、悲しくもないかとは別の話だ。
「むむ、おい明治!」
「なんだよじいちゃん」
「お前、こうやって時間を稼いで勝ち逃げしようとしとるな? その手には乗らんぞ!」
「……バレたなら仕方ない。勝負の続きだじいちゃん!」
「己の浅慮を恨むがよいわ! ふはは!」
だとしても。今日一日はそんなことは忘れよう。
昔のように二人で糸を垂らして、帰りに小淵沢で駅そばを食べて帰ろう。大きなかき揚げののったそばを食べながら、じいちゃんが全国を旅してた頃の話を聞かせてもらおう。
そう思って竿を振ったところで、俺の背後から蝉しぐれをかき消す甲高い声がした。
「お父さん、何してるんですか!!」
「朝子伯母さん……」
「なんだ朝子か。大きい声を出すな、魚が逃げるだろう」
そこにいたのは死んだ父さんの姉で、じいちゃんにとっては長女の朝子伯母さんだった。顔を真っ赤にしてズカズカと河原を歩く彼女の後ろには、汗を浮かべた医者の先生と看護師、それに荷運びの強力さんも見える。伯母さんが連れてきたのだろう。
「なんて所にいるんですか! もしものことがあったら……」
「黙って出たのは悪かったがな、言ったら止めるだろう。もう一度この景色を見るまでは死ねなんだ」
「死ぬだなんてそんな。私は一日、いえ一分一秒でもお父さんに長生きしてもらいたいんですよ。ひとりしかいない実のお父さんなんですから」
わざとらしく『実の』とつけた時、俺の方をちらっと見た気がした。
俺はじいちゃんの孫だが同時に子供でもある。父さんと母さんが死んだ後、じいちゃんのすすめで養子に入ったからだ。朝子伯母さんは法的には俺の姉ということになる。
「分かった、帰るからそんなに叫ばんでくれ。耳にキンキンくる」
「強力を呼んでありますから、帰りは背負われて下りてください。少しでも体調が悪ければお医者様がいますからね」
「分かった分かった」
伯母さんはじいちゃんの手を引いて立ち上がらせると連れてきた人たちに引き渡した。それを見届けると、伯母さんは俺の方へとやってきた。
「明治くん、どういうつもり?」
「ごめん伯母さん、でも、じいちゃんにここを見せてやりたくて……」
「言い逃れなんて見苦しいわよ」
「言い逃れ?」
叱られるのなら分かる。危険なことをしたのは確かだから。でも、言い逃れって何のことだ。
そう尋ねようと口を開いた瞬間、視界がブレた。一瞬遅れて頬を痛みと熱が襲い、伯母さんに張り飛ばされたのだと分かった。
「早く遺産が欲しくてやったのは分かってるのよ! それとも誰かの入れ知恵かしら!?」
「……遺産?」
じいちゃんは裸一貫から事業を起こした金持ちだ。億単位の財産を持っているのも、それがいずれ遺産として俺たちに来るのも知っている。
でも、俺はそんなことは考えていない。遺産のために何かしたことなんて、ましてじいちゃんに死んで欲しいと思ったことなんて一度もない。
「言いなさい! 誰の命令!?」
「違う! 俺はそんな……」
「この期に及んでまだ言うの。私がこんなにお父さんを心配してるのに台無しにしようとして、恥を知りなさい!!」
目が血走っている。息が荒い。
まるで獣だ。お互い日本語を話しているはずなのに会話がまったく通じていない。
「明治」
「じいちゃん、俺は……!」
医者の問診を受けているじいちゃんは俺に背中を向けたまま、よく通る声で一言だけ言った。
「小遣いは、また今度な」
「じいちゃん……」
雲ひとつ無い空。背負われて木立の向こうに消えるじいちゃん。伯母さんの勝ち誇った顔。それだけが記憶に焼き付いている。
じいちゃんが死んだのは、それから三ヶ月後のことだった。
「では、遺言状を読み上げます」
これは夢だ。だから場面は簡単に飛ぶ。
これはじいちゃんの葬式の後。忘れもしない、弁護士の先生が遺言状を読み上げるところだ。俺の周りでは、伯母さんや他の親族たちが固唾を呑んで『遺言』と書かれた書状を見つめている。
「私の死にあたり……各方面への伝達は……葬儀は簡潔に……」
俺はといえば、ようやく実感の湧いてきたじいちゃんの死という事実に、ぼうっとふすまの柄を眺めるだけだったけれど。
「次に、私の財産の配分について」
周りの空気が一気に張り詰める。それに当てられて俺の意識もようやく遺言状に向いた。
「これは詳細を省くが、私には約二十億円の遺産があると試算された。この配分だが……」
ざわめきが起こり、すぐに静まる。
二十億円。ほんの一部もらえるだけでも大金だ。みんなが息もつかずに待つ中、弁護士はその箇所を読み上げた。
「遺留分を除き、全てを養子・明治へ相続する」
静寂の一瞬。誰にも理解できない一文。
それから起こる悲鳴と怒号。その中心に自分がいると俺が気づいたのは、伯母さんの台詞を聞いた時だった。
「ママって呼んでいいのよ???」
「おはようございます、ご主人さま!!」
元気な声と、差し込む朝日。夢の中にいた俺の意識はそれで一気に覚醒した。
「……んん?」
「もしかして寝不足ですか? ……もしかしなくても私のせいです?」
「いや、起こしてくれて助かった」
伯母さんの目つきに危険を感じた俺は、こうして遠く熊本までやってきて今に至る。ようやく新生活を始めようという時になんて夢を見てしまったのだろう。
「十二億円は小遣いっていわねぇよ、じいちゃん……」
あのまま夢を見続けていれば、伯母さんの持て余した母性を延々と振り返っていたに違いない。
メイドに起こされなければと思うとぞっとする。やはり雇うべきはメイドだ。
「…………メイド!?」
「お世話になってますご主人さま!」
「あ、海原さん? 服が違うから分からなかった」
カーテンを開け、クローゼットから俺の服を取り出そうとしているのは身長百四十センチ代の小柄な黒髪メイド。
芋ジャーからメイド服に衣装替えして見違えたが。たしかに昨夜、俺に夜這い未遂をはたらいた海原奏だった。
夜にも更新します。ブクマ、感想、評価ありがとうございます。
長野県の思い出といえば、南佐久郡南牧村にある野辺山。レタスや大根の畑が広がる向こうに、ヌッと顔を出す電波天文台のパラボラアンテナが忘れられない土地です。茂来山に登ったら普通の石に小さな水晶が散りばめられていて自然の神秘を感じました。
そんな野辺山に行く際、乗り換えで使った小淵沢駅の蕎麦がまたおいしかった。あのレトロな雰囲気の……って話をしようとしたら、二年前に駅舎が建て替わってすごいオシャレになったらしい。なんてこった。