弐
彼と再会したあの日から私はもう祖母の言いつけを破ることはなかった。
当然仲良くなったあの子は離れていったし、ババコンと言われてからかわれ、友達もできなかったけれど、それでもあの日の恐怖から言いつけを破る気など少しも湧いてはこなかった。
四年生の時だった。
クラスで数人で班を作り、グループになって、それぞれ地域の歴史を調べて発表するという授業が行われた。
余り物の私はクラスの子の情けと数合わせである班に入れてもらえることとなった。
班で何をするか話し合っていた時一人の子が言った。
「俺昔ここで生け贄が捧げられてたって話じいちゃんから聞いたことあるぜ」
幼い子供というのは総じて残酷な話が好きだ。皆はその話に色めきだって、それについて調べることとなった。
まず最初に私達は自分の家族にその話を聞いてみるということとなった。
私は学校の帰り道に祖母にその話をしてみた。すると、祖母が凍りついたような表情をした。
どうかしたのか、と祖母に問いかける。祖母は少し悩んだ後に言った。
「……あなたももう十歳だものね」
そう言うと祖母はしばらく目を閉じて……決心したように瞼を上げた。
「私よりももっと詳しい話を知っている人がいるわ。だから、今度話をつけておいてあげるから、その人の家に話を聞きに行ってみなさい」
話を聞いているとその詳しい人とは神主さんのようだった。
嫌な予感がした。しかし、これは聞かねばいけないことなのだと私はどこかで気づいていた。だから私はわかったと首を縦に振ったのだ。
数日後また班での話し合いがあった。
皆それぞれ家族から聞いた成果を語り始めた。
少し違ったところがあったり、両親共にここの出身でない者は知らなかったりしたが、話を聞いた皆はまとめると、昔ここで雨が降って洪水が起きそれを防ぐために神様に生け贄を捧げたのだという話を聞いたと言っていた。
そうして私の成果を話す番となった。
「まだ聞いてないの。お祖母ちゃんが神主さんの方が詳しいから明日話を聞きにいくことになっていて」
そう言うと班の皆は自分も聞きたいと言い始めた。怖い話を神社で。そんな状況に引かれたのだろう。
私は断りきれず、帰りに迎えに着た祖母を班の皆で待ち合わせして、事情を話せば祖母は少し迷ったあと大丈夫だと思うと頷いた。
そうして私達は次の日学校が終わった後神社に行くこととなったのだ。
道中引率の先生のように祖母が共に居た。それを班の皆がにやにやと笑って、からかうように私を見たから、私は下を向きながら皆と離れて神社へと向かった。
神社では神主さんが私達を迎えてくれた。畳の部屋ではお茶とお菓子が用意されてて皆楽しそうに過ごしていた。
そうして話を聞く時になった。神主さんはそれまで優しそうな笑みを浮かべていたのにその顔に笑みはなく、真剣で、誰もがその空気に静まり返った。
神主さんは皆を静かな眼差しで見渡して……皆とほんの少し離れたところに座っていた私に視線をを不自然にならないくらいの時間止めると、ゆっくりと話始めた。
それは時代のことだったという。
今でも農業に従事している者が多いこの地域だが、その時代ではここで生きる者皆田畑を耕していた。
そんな時、雨が異様に降る時期があった。雨は作物を流し、土を流し、川は氾濫した。人々は流され、多くの命が失われた。それでも雨は止まなかった。
人々はこれは水神様が怒っているのだと考えた。その怒り沈めるためには生け贄か必要だと誰かが言い、何人かがそれに賛同した。
しかし、反対意見も多くあった。だが、雨が降り続けるうちに、多くの人が賛成に流れていった。
生け贄は誰にしようかという話になった。
美しい者が良い。そう誰かが言った。子供の方が喜ばれる。そう誰かが言った。
そうして美しい子供を捧げることとなった。
では、誰を捧げるか。お前の娘か、息子か。それともお前のかか。押し付け合いが始まる。結局白羽の矢が立ったのは、両親が無くなり祖父母に育てられていた一人の少年だった。
少年は抵抗した。祖父母も離すまいとした。しかし、子供と老人の力で逃げ切ることなどできなかった。
少年は白い衣を纏わされた。少年は足に重しを付けられた。そうして、人々は泣き叫ぶ少年を川に投げ入れた。少年が浮き上がることは一度もなかった。
少年が沈んで次の日。雨は上がった。空は雲一つない快晴。人々は歓喜し、少年に感謝した。ありがとう。ありがとう。彼の犠牲による奇跡を語り継ごう。そう言って人々は一人の命の犠牲を罪ではなく、美談で彩った。そうすることで罪悪感は雨雲同様に流されていった。
それから数ヶ月後のことだった。
一人の子供が鈴の音が聞こえると言った。その音は誰にも聞こえず、どんな鈴の音だと聞けば、あの日少年を送った時に奏でた音に似てるという。
人々は不気味に思ったが、子供の勘違いということでその話を流した。
子供は鈴の音を聞き続けた。そうしてある日言った。
「あの子に会った」
あの子とは水神に捧げられた子供のことだった。最初大人を怖がらせるための冗談かと思ったが、大人達は子供達に生け贄の話をしていなかった。
だから、子供はあの子がもうとうにこの世に居ないことなど知らなかった。それなのに子供はあの子に会ったと言う。
人々は震えた。しかし、どうにかしようにも鈴の音は子供にしか聞こえず、どう対処して良いかもわからない。人々は途方に暮れて寺に駆け込んだ。その寺は最後まで生け贄に反対していた寺だった。
「彼は水神に捧げられた。その身はもう人ではなく、しかし神でもない。霊ではないので穢れてはいないが、純粋でもない。そんなものに彼はなってしまった。何者でもない彼に太刀打ちすることなど私にはできない」
お守りを渡しはしたが、気休めのようなものだと思え。彼がまだ何を恐れるのか、それとも何も恐れないのかわからないから対処のしようもない。しかし、一人の時以外は聞こえないのならばその子供を一人にするな。
そう言われ人々はその子供を守るように監視をつけた。しかし、どうしても一人になる時はある。隙をつかれ、そして子供は消えてしまった。
それからそう言ったことは続いた。数ヶ月に渡って消えることもあれば、何十年か経ってまた消えることもあった。
そのうち人々は気づく。彼が子供を狙い、大人には近づかないこと。大人になれば子供は標的から外れることを。
もしかしたら、彼は寂しいのかもしれない。冷たい川底で一人で居ることが。だから友達が怖くて、しかし、自分をこんな目に合わせた大人は怖くて、だからこそ一人の子供を大人が居ない時に狙うのかもしれない。
だから、子供から目を離してはいけない。そうしなくては、連れていかれてしまうから。
それがこの地域に伝わるお話。
神主さんが話終える。ずっと黙っていた子供達はわっ!と騒ぎ始めた。
怖かった!びっくりした!そう言いながらもどこか楽しそうだ。きっとこの話が娯楽的な怖い話だとしか思っていないのだろう。
私はとても周りの子と同じ気分になどなれなかった。声を出すこともできない。
だって、私は知っている。鈴の音も。彼のことも。
シャンシャンと鳴る鈴の音。氷のように冷たい彼の体。大人を恐れ、私をどこかに連れていこうとする。
全てが繋がっていた。全てが彼へと結びついていた。
「お話はこれでおしまい。さあ、もう夕暮れだ。早く帰らなければ。……そうしないと彼が君らを連れていってしまうかもしれないよ?」
冗談めかして神主さんが言う。皆はこわーい!と言いながらも帰り仕度を始めた。
「美穂ちゃんは残って。お祖母ちゃんとお話があるからね」
その言葉に私は静かに頷くしかなかった。
皆が帰った後、私と祖母と神主さんだけがそこに残る。外から五時のチャイムが鳴る音が響いた。
この音が一日で一番安心する音だった。
「……というお話なんだよ。美穂ちゃん」
私はこくりと頷いた。声は出ない。出すこともできない。
「この話をおとぎ話だと思っている人は多くなってしまった。移り住んで来た人には知らない人も居る。でも事実だということを美穂ちゃんは知っているよね?」
また私は頷いた。
「一人になってはいけないよ。彼に連れて行かれてしまう。大人になれば逃げられる。それまで耐えるしかない。……連れて行かれた先がどんなに恐ろしい場所なのかわからないのだから」
鈴の音は今は聞こえない。だってここには大人が居るから。
今日はまだ大丈夫。五時のチャイムは鳴った。彼は約束は破らない。
それなのに、頭の中で鈴の音が響く。彼の怯えた顔が浮かぶ。
怖い怖い。そう彼は泣いていた。すがり付くように抱き締められた。それは迷子の幼い子供となんら変わらない。
「……あの子は寂しいんだね」
川の底とはどんなに恐ろしくて冷たくて寂しいところなのだろうか。
そんなところに一人で居る彼。
「駄目だよ。美穂ちゃん」
その言葉に私は顔を上げる。
「同情してはいけない。哀れんでもいけない。確かに彼は可愛そうだ。被害者だ。でも、彼を気遣って連れてかれたら君が彼と同じ辛い思いをすることになる。そうしたら君のことを大事に思っている人も皆悲しむ」
「そうよ。美穂」
お祖母ちゃんが私の頭を撫でる。その手は暖かい。ここは、暖かく優しい世界だった。
この時はこの世界が私をまだ繋ぎ止めていた。