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怪奇探偵司馬衛司  作者: 有井静亮
ケースⅠ:『マンションの赤ずきん』
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ケースⅠ:『マンションの赤ずきん』――第四話――



 二日前 六月十八日 午前十時ごろ――



 三雲市中央病院に彼女が入院して、もう十年が経つ。当時、あの子はまだ六歳だった。今ではもう、十六歳。時の流れはあまりに速い。残酷なまでに。

 あの頃、自分はなんと愚かな日々を送っていたことか。そして、今なお愚かな日々を送っている。変えられるなら変えたい。止められるなら止めたい。だが、自分にそんな資格はないし、力もない。

 結局、自分は流されているだけだ。あのとき、自分は怖じ気づかないで、あの子を助けるべきだった。たとえ、どんな被害をこうむったとしても。なぜなら、この胸を締め付ける罪悪感と比べれば、肉体の被害など、あまりに軽く、安い代償なのだから。



 病院の中をSは歩いている。その手には花束があった。色とりどりの花々が綺麗にまとめられている。Sは沈痛な面持ちで赤ずきんのもとに向かう。幾星霜を経て、Sは大学を卒業し、今では立派な社会人になった。だが、その裏には置き去りにされたものがある。

 それを拾わなければならない。そうすれば、自分は救われる。無論、彼女も。

 そう思い、Sは自らの手を血で染める決意をした。いや、結局のところ、まだだれも自分の手で殺していない。自分は殺させたのだ、彼女に。

 Sは歩みを止めた。目的の病室に辿り着いたのだ。ネームプレートを見る。この病室には一人しかいない。



 ――――伊藤彩香――――



 Sは顔を歪めた。なにが赤ずきんだ。彼女は人間だ。ちゃんと名前がつけられた、一人の人間だった。なのに、自分は彼女を理解しようとせず、挙げ句破滅に追いやった。

 今さら後悔しても遅い。なら、今できることをすべきだ。そう思い、Sはドアを開けた。

「やはり、あなたでしたか」

 Sは愕然とした。なぜ、と思う。頭が混乱する。どうして、ここに――。

 Sの眼前には、黒いジャケットを羽織った男がいる。三十代半ばの長身の男。自分の仕事場に来て、マンションの鍵を借りた男。事件の真相をあれこれと探っていた男――。

「あ、あなたは……」

 男は赤ずきんの真横にいた。ベッドで眠り続けている彼女の顔を眺めている。銀縁眼鏡の手入れをしていた。彼はSに気付き、頭を上げる。うっすらと微笑を浮かべていた。

「日良野。日良野良光。日良野怪奇事件探偵事務所の所長ですよ、佐々木さん」

 佐々木は息を呑んだ。



 二人はベンチに腰を下ろした。季節はもう梅雨なのに、今日に限ってやけに天気がいい。佐々木の心中とは真逆だ。暖かな陽光が灼熱の熱線に見える。

「なぜ、彼女のところに?」

「無論、事件の真相を暴くために」

 日良野のその言葉を聞き、佐々木は自らの敗北を悟った。多くの人間を振り回したのだ。罰は甘んじて受けよう。だが、やはり聞かずにはいられない。

「真相……ですか」

「『マンションの赤ずきん』、『天城マンション一家無理心中事件』、そして『天城マンション連続不審死事件』。この三つには深い繋がりがある」

 日良野は淡々と語り出した。

「十年前に起きた『天城マンション一家無理心中事件』で、伊藤彩香さんは両親を亡くし、自らも植物状態に陥った。しかし、母親は悪霊となって事件現場に留まり続け、彩香さん自身も生き霊となってしまった」

「えっ?」

 初耳だった。佐々木は目を見開く。その顔を見て、日良野は納得したように頷いた。

「やはり知らなかったんですね。教えてくれませんか、あなたが知っていることを」

 日良野は佐々木を見据える。佐々木は震える声で話し始めた。

「『マンションの赤ずきん』はあの事件を基にして生まれました。ただ、赤ずきん……彩香さんは死んでいませんでした。彼女は……瀕死の状態で部屋を出て、私に助けを求めたのです。肩より上に手が上がらないはずなのに、彼女は無理矢理手を上げて、ベルを鳴らし続けたんだと思います。でも、私はその場にいなかった……!」

「近くのホテルに泊まっていたんでしたね」

「翌朝帰ってきて、私は愕然としました。家の前にあの子が倒れていたんです。血まみれでした。かろうじて息があって、私は救急車と警察を呼びました」

「そして、事件が発覚し、彼女は意識不明の植物状態になってしまった」

「その晩のことです。彩香さんが私の家にやってきました。生き霊ってやつなのでしょう。私は恐れおののき、命乞いをしました。でも、彼女は家の中に入ってきました。フードを上げて、こう言ったんです」



「助けて……生きたい……」



「私は後悔しました! なんて愚かなことをしてしまったのか! 我が身かわいさゆえに、目の前で苦しんでいる少女を見捨てた! 彼女は泣いていました! 生きたいと言いながら、こんな私に助けを求めたんです!」

「でも、あなたはできなかった……」

「そうです。結局私はなにもできず、罪悪感に耐えきれなくなってマンションを出ました。私は二回も彼女を見捨てたんです」

「その後あなたは大学を卒業し、今の仕事場に就職した。まじめに働き、それ相応の仕事を任されるようになった。そして、ある日、あなたは彩香さんと再会した」

 佐々木はむせび泣く。その顔には深々と苦悩が刻まれていた。

「上司から天城マンションの担当を任されたとき、唖然としました。同時に、あの事件が都市伝説の基になっていることも聞かされました。ショックでした。私はマンションの十階に行きました。かつて私が住んでいた家を見て、愕然としましたよ。彼女はまだ生き霊のままさまよっていたんです!」

 佐々木はほとんど絶叫していた。その目には狂気的な光が宿っている。

「そして、あなたはどうにかして彼女を助けようとした」

 佐々木は頷く。涙が頬を伝い、地面に落ちて跡をつけた。

「彼女がいる病院に行きました。彼女は成長していました。十六歳の可憐な少女になっていました。でも、彼女の心は六歳で止まったままです。目覚める可能性は低く、人工呼吸器がなければ生きることさえできない。だから……私は……」

「殺そうとしたんですね」

 佐々木は唸り声を上げた。獣めいている。限界まで心を追い詰められた者だけが出せる、心底からの悲鳴だった。

「人工呼吸器を外しました。でも、彼女は死にませんでした。人工呼吸器を外したショックで、自律的に呼吸ができるようになったんです。しかし、意識は戻らなかった」

「時を同じくして、あの連続不審死が始まった」

 日良野の言葉に、佐々木は何度も頷く。

「私は思いました。彼女が生き霊から悪霊に変わったのだと。部屋に住む者を手当たり次第に殺すようになったのだと。そして、わかったんです。人が一人死ぬたびに、彼女の容態が少しずつ良くなっていくことに!」

「それであなたは、危険な悪霊が取り憑いているかもしれない部屋に、次々と人を住まわせ続けた」

 日良野は鋭い目で佐々木を睨む。だが、佐々木はひるまない。歯をむき出して怒鳴る。

「あなたになにがわかる! 私はこの十年間ずっと苦しみ続けたんだ。毎晩毎晩、夢の中にあの子が出るんだ。赤いフードを被って、血まみれでね!

 私はつらかったんだ! 私は孤独が好きだったが、孤独がどういうものか理解できていなかった! 少女を生き地獄に叩き落としてしまったという罪悪感を抱え、私はどうすればいいのかわからなくなった。だれかと苦しみを共有することはできない。自らの中に、だれにも打ち明けられない秘密と苦しみを抱える。その孤独感を私はまったく理解できていなかったんだ! そして……だれにも関心を持たれず、虐待を受け続けなければならないという孤独な境遇も……」

「……あなたは彩香さんに生け贄を捧げることにした。彩香さんが人を殺し、その命を吸って目を覚ますのだと、そう推測した」

「ええ、そうですよ……」

 佐々木は燃え尽きていた。その顔からはなんの感情も窺い知れない。どこか朽ち果てた草木を連想させる。だが、日良野は追及の手を緩めない。佐々木を厳しく弾劾する。

「あなたは勘違いしている。第一に、入居者を殺していたのは彩香さんじゃない。彼女の母親です。母親は悪霊になっていて、入居者に取り憑くことで生き返ろうとしていました。まあ、結局失敗し、私の部下に始末されましたが。

 第二に、彩香さんは入居者の命を吸っていない。彩香さんの容態が次第に良くなっていってると、あなたはおっしゃいましたが、それはあなたの思いこみです。彼女は決して目覚めない。魂があのマンションに縛られている限りは」

「う、うう……」

 佐々木は両手で頭を抱えた。その指と指の間から嗚咽が漏れ聞こえる。

「あなたのしたことは偽善です。あなたは結局、彼女を救えていない」

 その言葉を聞き、佐々木は声を上げて泣き出した。滝のように涙を流しながら、空を見上げて泣き叫ぶ。絶望が滲み出ていた。

 日良野はそれを見ると、なにも言わず、黙ってその場を立ち去った。



 一日前 六月十九日 深夜二時ごろ――



 ――やけに空気がひんやりしている。

 十年前とまったく一緒だ。部屋は隅から隅まで整理が行き届いている。あたりまえだ。家具なんて一つもない。この部屋は十年間、ずっと空き家のままだ。凍てついた空気が部屋の中を支配している。この部屋だけ、時の流れに置き去りにされていた。骨の髄まで凍りつくような錯覚を味わい、佐々木は苦笑する。

「なにを恐れているんだ……最初からこうしておけば良かったじゃないか……」

 手にした包丁を見つめ、佐々木は自嘲する。今も昔も、自分はまったく変わっていない。臆病者で卑怯者。そして、紛うことなき罪人だ。そんな自分は生きていない方がいい。責任をとって、自ら命を絶つべきだったのだ。

 最初からそうするべきだったのだ。魔が差したのだ。こんな偽善者が人を助けようと思うこと自体大きな過ちだったのだ。人助けなど、考えるべきではなかった。考えなければ、今頃幸せに生きていたはずだ。人を死に追いやることもなく、ここで包丁を握っていることもない。

「はあ、はあ、はあ……」

 呼吸が自然と乱れていく。まだ死ぬのが怖いのか。馬鹿なことだ。あの子はもっと怖かったはずだ。実の母親に殺されかけるという恐怖。自分には想像すらできない。その恐怖に比べれば、この程度、恐れるに足りない。

 そう、これ以外に方法はない。もう、自分には贖罪の手段が残されていない。彼女の魂を呼び戻し、新たな人生を与えることができれば、自らの過ちは払拭される。なんと楽天的な希望か。馬鹿馬鹿しい。夢のまた夢だ。結局、自分はなにもできない。彼女を助けることはできない。

 ならば、せめて、この愚かな人生に終止符を打とう。一銭の価値もないだろう命だが、それでも無為に生きるよりは、あの子に捧げた方がいい。自分に残された償いは、もうこれだけだ。

 手に力を入れる。包丁の切っ先をのど元に向けた。あとは勢いよく突くだけ。一瞬で死ねる。カウントをしよう。高ぶる心を無理矢理押さえ込む。

「一……二……三……」

 瞬間、部屋の電気が途絶えた。室内に暗闇が生まれ、瞬く間に拡散する。佐々木は包丁を下ろした。なにが起きたというのだ。疑問に思う佐々木の脳裏をなにかがよぎる。月明かりも差さない曇天の深夜ゆえに、部屋の中にはなに一つ明かりなどない。

「な、なんだ?」

 戸惑いながら、佐々木は床から立ち上がった。おぼつかない様子で室内を歩き回る。ゆっくりと慎重な足取りだ。

 不意に、佐々木は「なにか」を感じた。なにかはわからない。だが、明らかになにかが起きている。違和感がある。いったいなにが――



 ピンポーン



 その瞬間、佐々木は思い出した。十年前とまったく一緒だった。突然の暗闇。鳴り響くベル。ドアの向こうの赤ずきん――

「そういうことか……」

 因果応報だ。だが、望むところだ。都市伝説では、最後、Sは赤ずきんに呪い殺される。虚構がそうならば、現実もそうあるべきだ。

 ドアベルが鳴っている。何回か間を開けながら、ベルの小さな音が聞こえてくる。頼りない音だ。だが、恐怖は感じない。覚悟はもう十分できていた。

 一分近くかけて、佐々木はようやくドアに辿り着く。その身をドアに寄り添わせ、ゆっくりとドアスコープを覗き込んだ。

 ――ドアの向こうに「赤ずきん」がいた。

 記憶の中の姿とまったく変わらない。赤いフード付きのジャンパーが見える。その顔はまったく見えない。十年前と同じだ。痩せ細った手を伸ばし、ベルを鳴らしている。



 ピンポーン



「ああ、待っててくれ……」

 ためらいはなかった。佐々木はゆっくりとドアを開ける。赤ずきんの姿が見えた。

「……こんばんは」

 か細い声だった。どこかびくびくしていて、弱々しい声音だ。赤ずきん――いや、彩香はフードを上げる。佐々木は目を見開いた。

 彼女は笑っていた。十年前、その顔は酷く傷ついていた。痣だらけで、右目は赤黒く腫れ上がり、唇は切れて血が流れていた。少し思い出すだけで、いたたまれなくなる。鼻は折られて歪に曲がり、血色も良くなかった。死人のように青白い肌を、自分はいまだによく覚えている。たしか、ところどころ鬱血していた。

 十年前、確かに彩香の顔には、母親の暴力の証明が刻まれていた。だが、今はどうだ。彼女の顔は綺麗なものだ。本来の愛らしい顔がそこにある。整った目鼻立ち。少し紅潮した頬。雪のように真っ白だが、健康さも保っている肌。彼女の顔から、あの痛ましい傷跡は消え去っている。

「きょうはね、あやまりにきたの」

「謝り?」

 彩香の言葉を聞き、佐々木は困惑する。なにを言っているのだ。きみが謝ることはない。謝るべきは自分だ。そう思い、佐々木は口を開く。だが、彩香は彼を押し留めた。

「ごめんね、おじさん。ずっとつらかったんでしょ。わたしのこと、かんがえてくれていたんだよね。わたし、つらかった。おかあさんにいじめられるの。でも、いちばんつらいのは、おじさんがくるしむことなの」

 思わぬ言葉だった。と同時に、嬉しく思う。なぜかはわからない。彩香が、この子が自分のことをどう思っていたのか、初めて知った。佐々木は思わず尋ねる。

「わ、わたしのことを憎んでいないのか?」

 彩香は少し黙り込んだ。だが、すぐに口を開く。つたないが、彼女はゆっくりと、真心を込めて語る。

「わたし、おじさんのこと、きらいじゃないよ。おじさんもつらかったんだよね。たいへんだったよね。わたしは、ちゃんと、わかってるよ。だから、もうじぶんをおこらないで」

 その瞬間、佐々木の目から涙がこぼれた。顔を押さえる。立っていられなかった。そのまま地面に座り込む。頭を地面に押しつけた。涙が次々と溢れてくる。

 嬉しかった。ただひたすら嬉しかった。自分は間違えた。彼女を見捨てた。だから、自分は憎まれていると、そう思っていた。

 違った。単なる思いこみだった。彼女は自分を許している。そのうえ、自分の苦しみをわかってくれている。それが嬉しい。自分は愚かな罪人だった。罪悪感に突き動かされ、多くの人を死に追いやった。責められ、断罪される責任がある。だが、だが――

「ありがとう、ありがとう……!」

「わたしこそありがとう、おじさん。おじさんだけだったよ。いつまでも、わたしのこと、おぼえてくれていたの」

 そう言い、彩香は佐々木に背を向ける。そのままエレベーターに向かった。ボタンを押す。ドアが開いた。佐々木は顔を上げ、彩香を見つめる。

「ど、どこに行くんだ?」

「かえるの。わたし、かえらないといけないの。いきたいの」

 そう言い残し、彼女はエレベーターに乗り込んだ。ドアが閉まり、エレベーターが下がっていく。佐々木はその様子をずっと眺めていた。

 一分ほど経ったとき、佐々木の携帯電話がメロディーを奏でた。佐々木は驚くが、電話を取り出す。三雲市中央病院の医師からだ。彩香の担当医である。

「もしもし?」

「佐々木さん、奇跡です! 奇跡ですよ!」

「え?」

 佐々木は聞き返す。医師は興奮冷めやらないのか、要領を得ないことばかりしゃべっている。佐々木は尋ねた。

「すみません、なにが起きたんです?」

「起きたんですよ、彩香ちゃんが! たった今、彩香ちゃんが目覚めたんです! 意識もしっかりしています。もう大丈夫です。助かったんです! 彩香ちゃんが起きたんです!」

 佐々木は号泣していた。顔を歪め、滝のように涙を流す。鼻水も溢れ出ていた。みっともない有り様だろう。だが、どうでもよかった。

 奇跡だった。本当に奇跡だ。こんなことが起こりえるのか。

 佐々木は跪いた。両目から涙が流れ落ちるが、それを拭い去りもしない。流れた涙が頬を伝って地面に落ちた。激しく震える両手を、佐々木は一心に擦り合わせる。

 まるで、神に祈るように。



 三日前 六月十七日 午後四時ごろ――



「なるほど……とりあえず、不審死の犯人が赤ずきんの母親だってことや、Sの正体が佐々木って男だってこと、その他諸々わかったよ。だが、一つだけわからないな」

「ほう、それはなんだ?」

「なんで、赤ずきんは生き霊になった? というより、なんで魂があのマンションに縛られている?」

 衛司は鋭い目で日良野を見据える。日良野はにやりと笑い、真実を話し出した。

「おまえが考えていることはわかる。生き霊は地縛霊にはなりにくい。生き霊は魂と肉体の結びつきが弱まってこそいるが、決して途絶えているわけではないからな。だが、ある可能性がある」

「なに?」

「楔だ」

 衛司は顔をしかめた。日良野はうっすらと笑みを浮かべ、コーヒーをすする。

「あのマンションのエレベーター、左右と後方に鏡がついていた。後方のは特に問題ない。だが、左右のは大問題だ。合わせ鏡になっている」

「……まさか」

 衛司は目を見開いた。日良野がにやりと笑う。

「勘が良いな。そう、霊道が生じていたんだよ」

 ――霊道。怨霊や悪霊、幽霊などの通り道。衛司はそれを思い出し、日良野に話を続けるよう促す。

「おそらく、彩香さんはあの鏡を気味悪がっていたんだろうな。都市伝説では、Sもあの鏡を不気味に思っていたが、彼女もそう思っていたんだよ」

 日良野はコーヒーをすすりながら話し続ける。

「神秘学において、鏡はかなり怪奇的な代物だ。元来、鏡はそのまま放置していると、いろいろな思念を取り込んでしまう」

「思念は霊的な力を持つ……」

「そうだ。特に合わせ鏡は酷い。二つ並べて向き合わせたその間に、霊道が生じてしまう。知っての通り、霊道は霊魂の通り道だ。だが、それは肉体を失った霊魂に限っての話。生き霊が霊道に入り込むと、まるで楔のようにその魂を縛りつけてしまう」

「幽体離脱は瀕死の状態だと、起こる確率が倍増するんだったな」

「彩香さんは瀕死の状態で隣のSの部屋まで行った。その時、エレベーターを見て、鏡を思い出してしまったんだろう。鏡がその意識に反応したんだ。彩香さんやSの思念を浴びていたあの鏡は、まるで磁石のような機能を発揮した。意識朦朧としていた彼女の魂を霊道に引きずり込んだんだろうよ」

 ちなみに、と前置きし、日良野はコーヒーを飲み干す。

「走馬燈も幽体離脱の一種だよ」

「なるほどな。やっぱりそういうことだったのか」

 衛司は納得したようだ。所長が渡した資料を読み終え、丁寧に封筒に直している。

「しかし、ありえるのか?」

「ああ、ありえる。合わせ鏡だ」

 そう言い、所長は笑った。衛司は窓を見る。

 夕日が血のように赤く見えた。

「じゃあ、あの子の魂を肉体に戻すにはどうすればいい?」

「ん? 簡単だぞ。まず鏡を割れ。できれば両方ともな。それで霊道がなくなる。すると楔がなくなるから、ある程度彩香さんの魂は自由になるだろう。あとは彩香さんの魂を破片に移植する。そして、それを病院まで持って行け。私が心霊医術で修復してやるよ」

「そうか、ありがとう」

 衛司は素直に礼を述べる。日良野は穏やかに笑った。

 夕日が沈み、宵闇が迫っていた。



 六月二十日 午前九時ごろ――



「なあ、京香。おまえは偽善者をどう思う?」

 不意に、司馬くんが尋ねてきた。偽善者、か。う~ん、難しいな。私は司馬くんの顔を見た。いつになく神妙な顔つきだ。きっと、なにか考えることがあったんだろう。私は笑うことにした。彼のためだ。一肌脱ぐとしよう。

「私は、偽善って悪いことじゃないと思うな」

「……それはどうしてだ?」

 司馬くんがまっすぐ私を見つめる。ああ、相変わらず澄んでいて綺麗な瞳。私は必死で顔が赤くなるのを抑える。そうだな、なんて言えばいいのかな。

「だって、偽善って、『人の為に善いことをする』って書くでしょ。たとえ、その根本にあるのが良心とかじゃなくても、結果的に人の為になるんだったら善いんじゃないかな」

「ほう、面白い意見だな」

 コーヒーを飲みながら、所長が言った。でも、司馬くんはまだ納得してないみたいだ。私はもう少し話してみた。

「それにさ、『やらない善よりやる偽善』だと思うの。目の前で苦しんでたり、困ってたりしてる人を助けるのって、結構勇気いるけど、できたらとても素敵だと思うの。司馬くんはそう思わない?」

「……そうだな、おまえらしい答えだ」

 司馬くんはうっすらと微笑んだ。穏やかな笑顔。うわ、まぶしい。心臓の鼓動が速くなった気がする。

「おや、京香くん、顔が赤いようですが。なにか、興奮するようなことがあったのかな?」

「な! 所長!」

 所長がからかう。私の頭に血が上る。頬が熱い。見ると、司馬くんもげらげら笑っていた。

「もう、笑わないでよ!」

 私は司馬くんをはたいた。所長がますます愉快そうに笑う。司馬くんも笑ったままだ。

 部屋中に、笑い声が満ちていた。



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