ケースⅠ:『マンションの赤ずきん』――第二話――
三日前 六月十七日 午後一時ごろ――
所長は天城マンションを眺めている。全十階のそのマンションは、三雲市民の関心を集めている。もっとも、悪い意味で、だが――。
天城マンション連続不審死事件――
それはちょうど一ヶ月前、五月十七日に始まった。十階に住んでいた住人が、包丁でのどを突いて自殺したのだ。当初、その死は単なる自殺だと判断された。しかし、その推理は瞬く間に覆されることとなる。
最初の死から一週間後、五月二十四日のことだ。二人目の犠牲者が出た。のどを包丁で刺したことによる出血死。これもまた自殺と判断されたが――
「一週間おきに同じ死に方をする自殺者が、同じマンションから出たら、それはニュースになりますよ」
所長に話しながら、店員は皮肉げに笑った。二十代後半ぐらいの若い男だが、かなり有能なのだろう。天城マンションの管理会社から、連続不審死事件の処理を任されているのだから、たいしたものである。
「たしか、被害者は今……」
「五人です。さすがに警察も本腰を入れまして。昨日まで警察がひっきりなしにやってきて、もう大変でしたよ」
「いいのですか。まるで他人事のようにおっしゃっていますが……」
「他人事ですよ。はっきり言って、自分じゃどうにもできません。ちょっと能力があるからって押しつけられたんですから。はっきり言っていい迷惑ですよ」
店員の言葉は冷めていた。所長は内心不愉快に思っていたが、感情を顔には出さない。
「ああ、これが部屋の鍵です。お気をつけて」
店員から鍵を受け取り、所長はうっすらと笑みを浮かべた。そして、店員に質問しようとしたのだが――
「佐々木さん、ちょっと」
店の奥から女性店員の声がした。店員は返事をし、所長と向き合う。
「すみません。私も忙しいもので。のちほどよろしいですか?」
「……では、また後で来ます」
所長はやむなく引っ込むことにした。
エレベーターに入った瞬間、所長はぞっとした。一瞬で体全身に鳥肌が立つ。所長は息を呑み、周囲を見回した。顔に焦りを浮かべ、警戒心を露わにする。
エレベーターは特段変わったところのない、いたって平凡な普通のエレベーターだった。唯一通常のエレベーターと違うのは、鏡がついていることだろうか。体全身が映る大きな鏡。それがエレベーターの後方と左右に備えられている。
「まさか……いや、ありえるか」
鏡を見て、所長はじっと考え込む。怪訝な顔だ。鏡には曇り一つない。きらびやかに光を反射している。鏡は異様なまでに澄んでいた。
エレベーターを出て、現場となった部屋に近づくにつれ、所長はますます悪寒を感じるようになった。扉や通路に禍々しい邪気を感じる。憎悪に満ちた毒々しい気配だ。
「いやなものだ」
所長はまず現場となった部屋――赤ずきんが住んでいた部屋――に入る。五月十七日以降、この部屋に居住した者は、精神に異常をきたし、ほぼ一週間で自らを殺めるようになった。その原因がこの部屋のどこかにある。
所長は慎重に室内を探索する。トイレや風呂を見てみるが、特に変わった点は見られない。キッチンやダイニングも異常なしだ。ニュースによれば、五人全員リビングで死んでいたらしい。異常があるならリビングか。
リビングに足を踏み入れ、所長は後悔した。間違いなかった。リビングは異界と化していた。五人もの血と生命を吸い尽くしたリビングには、憎しみと悲しみ、そして喜びが混在していた。
「残留思念か? にしては存在濃度が濃すぎる……」
独白しながら、所長は床を見た。何度も拭われたはずなのに、いまだに色濃く血痕が残っている。わずかだが、血の臭いもする。所長は顔をしかめた。
「間違いないな。悪霊がいる」
そう呟いた瞬間、背後に「なにか」が現れた。それは風切り音とともに、所長に襲いかかる。迫り来る殺意に気付き、所長は恐怖した。とっさに身を床へと投げる。頭の少し上を刃がかすめた。
「やはりな!」
視界の隅に「赤ずきん」が映る。所長はそのまま床を転がる。体勢を立て直し、玄関に突進した。そのまま部屋を飛び出す。後ろを振り返ることはなかった。
三日前 六月十七日 午後五時ごろ――
「なるほどな。やっぱりそういうことだったのか」
衛司は納得したようだ。所長が渡した資料を読み終え、丁寧に封筒に直している。
「しかし、ありえるのか?」
「ああ、ありえる。合わせ鏡だ」
そう言い、所長は笑った。衛司は窓を見る。
夕日が血のように赤く見えた。