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怪奇探偵司馬衛司  作者: 有井静亮
ケースⅠ:『マンションの赤ずきん』
1/5

マンションの赤ずきん

 初めまして。

 喜界島酒太朗です。

 つたない物語ですが、よろしくお願いします。




 Sにとって、その少女は不愉快極まりない存在だった。

 分厚い雲が空全体を覆い尽くし、パラパラと小雨が降っていたその日。

 Sはまたもや少女と出くわした。

 彼は、大学進学の都合で故郷を離れた。そして、この見慣れぬ都会に引っ越してきたのだが――。

 青い折り畳み傘を持ったまま、彼は苦々しく顔をしかめた。

 ――まるで赤ずきんだ。

 それがSの評価だった。

 その少女はどんな日であれ、必ず赤いフード付きのジャンパーを羽織っていた。陽光が燦々と降り注ぐ快晴の日も、土砂降りの雨が降りしきる曇天の日も、そのフードを上げることはない。

 三月下旬、まだ肌寒い日が続いているとはいえ、Sにはその姿がどこか異様に見えた。目深に被っている赤いフードは、絶えず少女の顔を覆い隠している。Sがこのマンションに引っ越してきて、早くも一ヶ月近くになる。それでもなお、少女の顔を見たことがない。

 ――気味が悪いな。

 Sは内心そう思いながらも、マンションの中へと入っていく。すると、少女が一台しかないエレベーターの前に立っていた。手にはなにやらいろいろ入ったコンビニ袋が二つあった。

 ――またか。

 Sにとって、その姿は馴染みのものとなりつつあった。少女の親は、あまり良識的な人間ではないらしい。Sはそう判断している。

 Sの記憶に間違いがなければ、少女は毎日コンビニ袋を持っている。Sは一度、その中身を覗き見る機会があった。中にはコンビニ弁当が二つ。そして、酒のつまみらしいものが数種類あった。

 ――片親が飲んだくれか何かなんだろう。

 Sはそう結論づけていた。

 彼と少女の関係は、常に平行線だった。

 いや、ほんのわずかではあるが、その関係は交わっているとは言えないだろうか。

 Sは普段通りエレベーターに向かう。設置されている住民達のポストは確認済みだ。故郷の親からの手紙が一通入っている程度。他に変化は何もない。

 エレベーターの前にいた少女の隣に並ぶ。Sはそのまま何も言わず、一階のボタンを押した。機械音がし、エレベーターが降りてくる。

 少女は身長が極端に低かった。Sは日本人の平均よりも遙かに小柄な人物だ。そんな彼の腰に頭が届くか届かないか。その程度でしかない。

 さらに、少女は病的なまでに痩せていた。常に目深に羽織ったフードとジャンパーのせいでわかりづらいが、現代の日本人としてはいささか不安を覚えるほどの線の細さだ。手足には余分な肉は全くなく、骨張っていて、皮膚がたるんでいる。

 そんな少女は――何故かは不明だが――肩より上に手を上げることはなかった。

 彼女は毎日エレベーターの前に立っている。手にはコンビニ袋を二つ持っているが、必ず片手は空いていた。

 ――その片手でエレベーターのボタンを押せばいいのに。

 当初、Sはそう思っていた。

 Sと少女は同じ階に住んでいる。しかも、二人は隣同士だ。Sが住んでいる十階には、Sと少女、そして少女の家族しかいない。他の部屋はすべてがら空きだ。

 Sはそれが嫌だった。

 再び機械音がし、エレベーターのドアが開く。Sはさっさとその中へと入っていく。その後を少女はゆっくりとついていった。ドアを閉め、Sは十階のボタンを押した。機械音と共に、エレベーターはゆっくりと上昇していく。

 エレベーターは特段変わったところのない、いたって平凡な普通のエレベーターだった。唯一通常のエレベーターと違うのは、鏡がついていることだろうか。体全身が映る大きな鏡。それがエレベーターの後方と左右に備えられている。

 ――落ち着かないな。

 Sはこのエレベーターを嫌っていた。というのも、半ば鏡張りのこのエレベーターに乗ると、まるで誰かに見られているような感覚に陥るからだ。左右の鏡に映る自分。後ろの自分には背中が映っている。

 ――鏡の中の自分が自分を見つめている。

そんな錯覚を覚えたことは一度や二度ではない。ホラー映画の見過ぎのように思えなくもないが、それにしてもやはり不吉なものだ。

 そう思いつつ、Sは少女を見る。

 この少女は一度としてエレベーターのボタンを押したことがない。いや、正確にはSの眼前でボタンを押したことがないのだ。もしかしたら、ボタンを押したことがあるかもしれない。そう思いながらも、やはりSは少女があまりにも非日常的な存在に見えるのだ。

 少女の年齢をSは知らない。その顔を見たこともない。名前さえ知らない。

 自分の家の隣に住むこの少女。一度だけ、引っ越してきたその日の挨拶回りをしにいったとき、表札を見て名字を知った気がする。たしか、■■とかいう名だったか……。

 チャイムを鳴らし、自分は少女の母親に会った。髪を背中の中ほどまで伸ばした女性だった。黒い髪には白髪が交じり、その顔には皺が多い。歳は恐らく三十代半ばだろうが、疲れ果てたその様子から四十代のようにも見える。

 ――お隣に引っ越ししたSという者です。これからよろしくお願いします。

 そうSは名乗った。元来、Sは陽気な性格ではない。どちらかといえば厭世的で、自宅に引き籠もりがちな性分であった。とはいえ、慣れない地で無愛想な振る舞いを初日からするのは得策とは言えない。ご近所付き合いもある程度はしないといけないだろう。ならば、上辺だけでも取り繕うべきだ。

 そう計算し、Sは一見すると爽やかな笑みを浮かべた。

 しかし、Sの予想とは裏腹に、母親の態度は険しいものだった。彼女はどこか不穏な目でSを見据えた。Sは悪寒を感じ、一歩後退りする。その姿を見て、母親はガタンと勢いよく扉を閉めた。結局、彼女は一言もしゃべらなかった。

 ――何だったのだろうか、あの態度は。

 思い出すたびに、Sは怒りを覚えるのだが、その感情を抑えつける。

 やがて、エレベーターは目的の階に辿り着いた。ドアが開き、少女が外へと歩み出る。Sへの礼などない。

 少女は、Sの前で言葉を発したことなどない。Sが引っ越して一ヶ月弱が過ぎようとしているが、Sの記憶の中の少女は、全く口をきかず、フードで顔を隠すと同時に言葉さえも閉じこめていた。

 ――現実感がなさ過ぎる。

 少女の存在はあまりにも希薄だった。言葉を発さず、顔を隠し、病的に痩せ細ったその姿は、見る者に不快感を抱かせる。少なからず、Sは少女に対し怒りに似た感情を抱いている。

 大学の入学式を控え、忙しない毎日を送るSにとって、どこか淀んだ空気を持つ少女は不愉快な存在だった。不吉な気配を発しているように見えるのだ。沈黙を保ち、己を覆い隠しているその有り様は、まるで枯れる寸前の桜の木や、死期を悟った猫のようである。

 退廃的……そう表現すべきだろうか。少女の父親をSは知らないが、少女とその母親を知るため、自信を持って断言できる。

 ――歪だ……この家族は酷く歪だ。

 Sは少女に続くようにエレベーターを出た。

 そのとき、パシンという音が木霊する。

 Sは目を見開く。

 少女が地べたに倒れていた。彼女の正面には、長い黒髪を垂らしている女が一人。ボサボサに乱れた長髪が、女の顔を覆い隠している。右手を力なく垂らし、荒い息を吐いていた。細い肩を激しく上下させつつも、女はゆっくりと右手を上げる。

 瞬間、女は手を振り下ろす。

 固く拳を握りしめ、女は少女を殴りつける。右手を数回上下させる運動が続く。少女は叫ばなかった。拳は何ら躊躇なく振るわれ、少女の体に苦痛を与える。だが、その身から声は発せられない。

 女は容赦なく暴力を振るう。少女の胸倉を掴み、その体を無理矢理起き上がらせた。女の髪が揺れ動き、その顔が露わになる。

 女は、少女の母親だった。

 黒髪が激しく乱れ、その間から女の目が垣間見える。

 女の目は鋭かった。人間的な「何か」が欠けている。そうSは感じた。まるで幽鬼のような表情を浮かべる母親は、怒りを露わに、暴力を振るう。醜悪に顔を歪め、歯を剥き出しにするその様は、さながら怒りに駆られた鬼子母神のようだ。

 しかし鬼子母神と違い、暴力の対象は他者の子ではなく、我が子である。

 Sはその光景をただ黙って見ていた。目を見開いたまま、非現実的な光景を前に、為す術なく立ち尽くしている。母親が実の子に牙を剥く。あっていい光景ではないと思いつつも、Sは行動に移せない。

 不意に、母親の手が止まる。彼女はゆっくりと顔を上げた。幽鬼めいた黒い目がSを捉える。その瞳の奥に渦巻くものを見て、Sは息を呑む。背筋に冷や汗が流れる。暗い感情を垣間見た。女の中の狂気を感じ取り、Sは少しずつ後退った。

 そのとき、少女が勢いよく振り向いた。弾みで赤いフードが流れ落ちる。

 Sは少女の顔を見た。

 少女の顔は、痣だらけだった。

 右目は赤黒く腫れ上がり、唇は切れて血が流れている。鼻は折られたのだろう。歪に曲がっていた。肌の血色も良くない。死人のように青白く、所々鬱血している。母親の暴力の証明が、そこにはくっきりと浮かんでいた。

 突然、母親が動いた。

 少女の手を掴み、引っ張り立てる。Sの家の隣、自らの家へと向かっていた。少女の抵抗を意に介さず、ぐいぐいと引っ張っていく。女性らしからぬ腕力であった。時折立ち止まっては、少女を激しく殴打している。

 ――止めなくては。

 そう思いながらも、Sは動けなかった。

 Sは直感していた。今ここで止めなければ、大事になる。あの母親はあきらかに狂っている。もはや、我が子を我が子と見ていない。あれはオモチャか何かを見るかのような目だった――。

 しかし、手足は動かない。いや、微かに動いている。Sの全身はガタガタと震えていた。冷や汗が滝のように流れ、視界がぼやけていく。

 少女が振り向いた。Sは少女と目が合う。

 ――助けて。

 音のない叫びだった。目から涙を流しながら、助けを請う少女。

 Sは一歩前へと踏み出す。

 ――助けなければならない。

 ガチャッと音がし、扉が開いた。

 母親がSを睨む。烈火のごとき鋭い視線だった。暗い想念が渦巻いている。

 Sは思わず顔を背けた。悔しげに歯を食い縛るも、その体からゆっくりと力が抜けていく。Sはゆっくりと背を向ける。背後からバタバタと音が聞こえてくる。それに母親の唸り声と、殴る音が入り交じった。

 Sはエレベーターのボタンを押す。ドアが開いた。それに乗り込む。

 ガチャッと扉が閉まる音がした。少女と母親の気配が途絶える。

 そして、ゆっくりとドアが閉まった。




 Sは少女を助けることなくその場から消え去った。その足で、彼は近場のホテルへと向かう。家の壁は決して薄くはない。事実、母親が起こしていた酷い仕打ちに、Sは微塵も気付いていなかったのだから。

 だが、隣家の惨状を知ったSは、厚顔無恥な人格の持ち主ではなかった。現実から逃避するために我が家に逃げ帰ったとしても、罪悪感からは逃れられないだろう。ならば、極力離れた場所に行った方が良い。そう、赤ずきんの家から遠く離れた場所へ。

 そして、Sは震えながら、マンション近くのホテルに泊まった。荷物を放り出し、ベッドへと潜り込む。固く目を閉じ、現実から遠く離れた夢の世界へ駆け込んでいく。

 意識が遠のいていく中、その脳裏に少女の顔が浮かび上がる。



 ――助けて!



 清々しい陽光を浴びながら、Sは目を覚ました。その清らかな光とは真逆に、Sの気分は暗く曇っていた。

 ――自分はなんて酷いことをしてしまったんだ。

 ベッドから起き上がり、Sは両の手で顔を覆う。男にしてはか細いその手は、左右に細かく震えている。

 少女の顔色は死人のように青白かったが、もはやSも負けず劣らずの容貌となっていた。少女ほどではないが、血色は悪く、青白い。病的なものを感じさせる顔色だ。うっすらと無精ひげが生えたその顔には生気が欠けていて、疲労感が滲み出ている。

 ――自分に何ができた? どうせ何もできなかったに決まっている。

 ――あの子には悪いが、これはしかたのないことだったんだ。

 ――そうだ……自分は悪くない……悪くないんだ。

 Sは自分に言い聞かせる。疲れ果てたその顔に、無理矢理笑顔を刻み込む。両の目からは涙がこぼれるが、それを拭うことはしなかった。頬を伝って、涙が床に滴り落ちる。微かに震え続ける手を、Sはひたすら擦り合わせた。

 まるで、神に祈るように。



 ホテルを出て、Sは我が家に向かう。彼の入学式まで、あと一週間を切っていた。嫌々ながらも、Sはマンションへと近づいていく。

 しなければならないことは多く、したいことはほとんどできない。そんな生活に嫌気が差していたから、あんなことをしてしまったのか。取り留めもない感情を抱きつつ、Sは歩き続ける。

 すると、彼の眼前にマンションが見えてきた。いつもと何ら変わらない、ごく平凡なマンションだ。ただし、一つだけ違う点がある。

 マンションの前に、警察官が集まっていた。

 Sはぞっとした。息を呑み、冷や汗が背筋を伝う。嫌な予感が当たったというのか。顔をよりいっそう白くさせ、Sは立ち止まって辺りをうかがう。鑑識や警察官がマンションの中を出入りしている。その忙しない動きが事態の重大さを語っていた。パトカーは何台も停まっている。赤いランプが回転を繰り返し、警察官が無線で連絡を取り合っていた。

 ――ま、まさか……!

 Sの顔がゆがむ。最悪の事態が起きたようだった。心の底に沈めたはずの罪悪感が、ゆっくりと浮かび上がっていく。後悔が静かに湧き上がるのを感じた。

 そんな彼の様子に気付いたのか、一人の警官がSへと近づいていく。歳は四十代半ばぐらいだろうか。白髪交じりの黒髪を伸ばし放題にした中年男性だ。猛禽類を思わせる鋭い目で、Sを見据えている。体格の良い大男で、ゆっくりと大地を踏み締めるように歩いている。くたびれた茶色のトレンチコートが風に靡いていた。

「失礼。■■さんのお隣に住んでいるSさんですか? 私は××署のYというものです。二、三お尋ねしたいことがあるのですがよろしいですか?」

 Yの言動は穏やかなものだったが、その目には有無を言わさない威圧感があった。Sは思わず頷く。それを見て、Sは早速話し出した。

「昨晩未明のことなのですが、■■さんの自宅で殺人事件があったようでして。今朝方、■■夫妻の遺体が発見されたのですよ。それで我々が捜査に出向いたのですが……昨晩はどこにいらっしゃいましたか?」

「わ、私はそこのホテルに泊まっていました。わ、私は無関係ですよ! ■■さんたちとも、ほとんど交流はありませんでしたし……!」

「落ち着いてください。質問はあくまで形式的なものです。あなたを疑ってはいませんよ」

 Yの低い声になだめられ、Sは深呼吸を繰り返した。緩やかに平常心を取り戻していく。その姿を見つつ、Yは質問を続ける。

「それでなんですが……■■夫妻にはお子さんがいらっしゃいましたね。確かAちゃんというらしいのですが……どのような子だったかご存じありませんか?」

「はっ?」

 Sは首を傾げた。Yの発言の意図を掴めず、困惑した面持ちでYを見つめる。対するYも顔をしかめている。おもむろに口を開き、Yは事件の子細を語り始めた。

「これは内密にしてほしいのですが……どうも無理心中のようです。奥さんがご主人を包丁で刺して殺害。その後娘のAちゃんをも殺め、最後は自ら命を絶ったようなのです。現場の状況がそれを指し示していますし、物的証拠もあります。まず間違いないでしょう。しかし、一つ謎がありまして……」

「謎、というのは?」

 額に玉のような汗を浮かべながら、Sは慎重に尋ねた。背筋に続々と悪寒が走る。Yは険しい顔つきで答えた。

「Aちゃんの遺体が見つからないのですよ。現場に流れていた血液の量などから、Aちゃんも致命傷を負い、出血死しているだろうと思われるのですが、何故か遺体が見当たらないのですよ。どうやらその子は生まれつき障害があって、言葉を発することができなかったようで。しかも日常的に両親から虐待を受けていたらしく、肩より上に手が上がらなかったようです。これらのことはご主人の日記からわかった事実なのですが……Sさんは何かご存じありませんか?」

 Sは真っ青な顔で頭を振った。Yは残念そうに頷き、礼を述べて去っていく。その後ろ姿をSは眺めていた。

 その体は、細かく震えていた。



 ――やけに空気がひんやりしている。

 Sは椅子に座り、頭を抱えていた。整理の行き届いたその部屋は、凍てついた空気に支配されている。季節は間もなく春を迎えるというのに、まるでこの一室だけ時の流れに置き去りにされたかのようだ。骨の髄まで凍りつくような錯覚に陥り、Sは思わず息を呑む。

 ――違う……自分は悪くない。

 机に両肘をつけ、両の掌で顔を覆う。歪んだ表情を誰かから隠そうとしているのかのようだ。Sの痩身は微かに震えている。

「……俺は孤独が好きだったんだ」

 誰にともなく、Sは呟く。迫り来る罪悪感からの逃避のようだ。指の間からSの目が垣間見える。恐怖と後悔、そしてほんの僅かな怒りが覗き見えた。Sは唇を噛み締め、ただひたすら一心に壁を見つめている。その視線は鋭く、不穏な「何か」を宿していた。

「……俺は悪くない。おまえが助けを……もっと早く呼べばよかったんだよ」

 瞬間、部屋の電気が途絶える。室内に暗闇が生まれ、瞬く間に拡散した。停電でもしたのか、はたまたブレーカーが落ちたのか。暗闇が室内を満たし、Sの体が闇に呑まれる。月明かりも差さない曇天の深夜故に、部屋の中には何一つ明かりなどない。

「――! な、なんだ!?」

 突如起きた異変にSは戸惑い、声を荒げた。椅子から立ち上がり、おぼつかない様子で室内を歩き回る。時折机などの家具にぶつかるのか、ガタガタと騒がしい音が暗闇に響いた。ゆっくりと慎重な足取りで進んでいく。

 不意に、Sは「何か」を感じた。当初、Sはそれが何かはわからなかった。しばしの間、沈黙が闇に溶け込む。Sは五感を尖らせ――ようやくそれに気付いた。

 ドアベルが鳴っていた。何回か間をあけながら、ベルの小さな音が聞こえてくる。普段はより大きいはずのその音は、今に限っては酷く小さく、頼りないものに感じられた。Sは寒気を感じながらも、ゆっくりとドアに近付いていく。

 一分近くかけて、Sはようやくドアに辿り着いた。その身をドアに寄り添わせ、Sはゆっくりとドアスコープを覗き込む。

「ひっ!」

 Sは息を呑む。腰が抜けたのか、彼は尻餅をついた。ガタガタと震えながら、後退りしていく。その顔にはくっきりと恐怖が浮かんでいた。歯を激しくかち合わせるその様は、ドアの向こうの「何か」の恐怖を如実に物語っている。

「そ、そんな……何故……?」

 ――ドアの向こうに「赤ずきん」がいた。

 彼女はなんら普段と変わらなかった。赤いフード付きのジャンパーをいつも通り羽織っている。フードを目深に被り、その顔はまったく見えない。手にコンビニ袋こそ持っていなかったが、おおよそその姿は普段の彼女そのものといえた。痩せ細った手を伸ばし、ベルを鳴らしている。



 ピンポーン



「な、なんなんだよ、おまえ! いったい、どうしてここに……」

 下がりながら、Sは呟く。だが、赤ずきんは応えない。黙ってベルを鳴らし続ける。



 ピンポーン ピンポーン ピンポーン ピンポーン ピンポーン ピンポーン

 ピンポン ピンポン ピンポン ピンポン ピンポン ピンポン ピンポン

 ピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポン

 ピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポンピンポン

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「ひいいいい! や、やめてくれえええ!」

 けたたましく繰り返されるベルの音が、Sの心を蝕む。赤ずきんと出会ってから、Sの日常は次第に侵されていった。幽鬼のような母親。姿を見せない父親。そして、虐待を受ける赤ずきん――。

 Sの知る日常。それから乖離した出来事が繰り返された。Sの知る常人。それから逸脱した人間が存在した。ただそれだけで、Sの心は次第に疲弊していったのかもしれない。だからこそ、本来ならしないはずの愚行や過失を犯してしまった。

 だが――。

「わ、わかってるんだよ。俺が悪かったってことは。どんな理由であれ、俺はおまえを見捨てるべきじゃなかった。俺は、たとえどんな目に遭っても、おまえを助けるべきだったってことは、もうわかってるよ!

 でも、しかたないじゃないか! 俺みたいな弱い人間に何ができた? おまえ、自分の母親の顔を見たことあるか? あれは普通じゃなかった。どこか異常だった。怖かったんだよ。とてもじゃないが、関わりたくなかったんだ。酷い目に遭うのは目に見えていたじゃないか!

 頼む! もう俺に関わらないでくれ! そっとしておいてくれよ! 俺が悪かったから、謝るから! みんな、おまえを助けることなんてできなかったさ。あの時いたのが俺じゃなくて、他の誰かだったとしても、きっとできなかったさ。あんな状況に出くわして、助けてやれなかったのはしかたのないこと、不可抗力だったんだよ。だから……許してくれよ!」

 Sの叫びが暗闇に溶け込んでいく。彼は号泣していた。顔を歪めて、必死に懺悔している。両目から涙が流れ落ちているが、それを拭い去りもしない。流れた涙が頬を伝って床に落ちた。激しく震える両手を、Sは一心に擦り合わせる。

 まるで、神に祈るように。

 すると、ガチャッと音がした。緩やかにドアノブが回っていく。

 少しずつドアが開いていき、赤ずきんの姿が露わになっていく。フードのせいで顔は見えない。だが、Sにはすでに彼女の表情がわかっていた。

 ――暗い想念が渦巻く、幽鬼のような顔。

 ――母親同様、鬼子母神めいた表情。

 ついに、完全にドアが開いた。赤ずきんは緩やかに歩く。部屋に入り、Sに近付いていく。Sは喘いだ。

 開け放たれたドアが、次第に閉まっていく。歪な金属音が響いた。

 Sは目を見開き、絶句する。赤ずきんは顔を上げて、口を開いた。

 そして、ゆっくりとドアが閉まった。



 読んでいただき、ありがとうございます。

 つたない物語でございましょうが、今後とも励んでいきますので、よろしくお願いします。



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