アナタ
彼は慄いていた。
彼は「恐怖」に憑りつかれていた。「恐怖」はじわじわと背中を這い上がり、彼の耳に何度も何度も
「アナタ」
と囁き続けた。彼は何もできない。指一本動かせない。目線でさえも固定されているのに、彼には「恐怖」が蛇のような実体をもって、彼の首に巻き付いていることが分かった。
「アナタ」
「アナタ」
「アナタアナタアナタアナタアナタ」
不意に「恐怖」が巨大な口を開け、彼の右目を抉り取った。
「ああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ‼‼」
~~~~~
ガバッ
彼は目を覚まし、フローリングの床から跳ね上がった。額を汗が伝っている。元から青白い顔は更に青ざめ、その両手は握りしめられてブルブルと震えていた。
彼はここ最近、「恐怖」に襲われる夢ばかり見ていた。今回の「恐怖」は蛇のような形態だったが、毎回「恐怖」はその姿を毎回変えて現れる。昨日は大きな蜂だった。そのまた昨日は蛭だったし、一度は何とも形容しがたい、見たこともないような生物だったこともある。ともかく共通しているのは、彼にとってそいつらが「恐怖」という存在感を与えてくること。そして、彼にとって本物の原始的な恐怖を与えてくるところ。さらに「恐怖」が彼の眼を抉るまで、ずっと「アナタ」と言い続けることだった。
彼にはこの「恐怖」の正体がつかめていなかった。一体何者なのだろうか。見当は付くが、つかない。彼にとってそいつは存在こそ本物なれど、正体がつかめないのだ。
この夢がいつから続いているのか、定かではない。つい一週間前からだと言われればそんな気もするし、ひょっとしたら十年は続いているかもしれない。ともかく重要なのは、それが彼の感覚では、長い間続いているということだった。
彼は大きく息をつく動作をした。この夢で覚醒した後は、必ずと言っていいほど睡眠状態に戻れない。なぜならまた寝た場合、最悪の場合はまたあの夢を見る可能性もあるので、こうして起きていたほうがまだマシだからだ。そもそも彼は睡眠時間をさほど気にしていなかった。その気になれば眠らずに日常を送れる。
彼は窓の外を見た。窓から見上げた夜空は、満月が空高く昇っているはずなのに、隈なく雨雲で塗りつぶされていた。遠くから運ばれてきた低い雨音は、もうすぐこの裏野ハイツにも雨が降ることを示していた。
彼は心の中で、「今日も外出するわけにはいかないな」と考えていた。彼がこの部屋から外に出ることは、一部の例外を除いて一切ない。彼はあるひとつの感情をもってして、何とか存在している。彼が外出しない理由は、外出するときに他人に不快な思いをさせるためだ。言うなれば、体臭にコンプレックスを持つ人が閉じこもっているようなものだ。彼は誰よりも自分の特性を、見た目を気にしていた。
今の彼にとって、最優先事項はあの「恐怖」の夢を見ないようにすることだ。もう夢は見たくない。しかし、当然医者に診せるわけにもいかない。彼に残された手段は、元から一つしか無かった。
「俺だよ」
「ああ、タカシ。お前、また見つけたよ」
「そうか、また見つかったか」
会話が続く。
…………
「あのさ、これで終わりかな」
「さあねぇ。でも、これで終わりだといいねぇ」
「そうだね」
「終わりだといいね」
~~~~~
それから約一か月後の、満月の日。
彼は息をひそめていた。電柱の陰で、ある一人の女性を眺めていた。
その女性は携帯をいじりながら、一人でバスを待っている。月明かりがその顔を照らし出す。
彼はその顔をしっかり見た。舐めるようにその額を、口を、頬を、鼻を、耳を観察した。しかし、彼にとっての大きな確証は得られない。
彼はもどかしい思いと凶悪で、残忍な復讐心を持ってその場を動いた。するりと冷たい空気を突き抜け、手を伸ばし、女性の脳内に入り込む――。
~~~~~
彼女は携帯をいじっていた。彼女はいつもこの夜道を家まで帰っている。暗く、人気のないこの道は同僚舘からすっかり敬遠されていた。しかし彼女にとって、夜道は恐怖を抱かせるものではない。彼女は自分が襲われない可能性を全く思考に取り入れていなかった。これはある意味正しい判断と言える。この辺りは警官が循環するため、不審者の類は一切出なかったのだ。しかし、人外の存在ならばどうなるのだろうか。
不意に彼女は寒気を感じた。”こんな暑い夜に、何で寒気なんか”
「ア゛ァ」
彼女の思考はそこで途切れた。
「ア゛、ァァア゛」
彼女は思考を停止させたまま、その顔を振り向かせて、
動けなくなった。
「あ…ああ…あ…」
彼女はもう、何も考える余地を持てなかった。彼女の思考は、目の前の男性らしきグロテスクな顔に、すべてを奪われていた。
「あ…」
『お前か』
男が直接、頭の中に声を響かせた。彼女は首を振った。それ以外に何もできなかった。
早くこの場から逃げたいが、彼女には体が制御できなかった。
まるで、目の前の男が逃さまいとしているように。
『お前か』
男が再び呟く。
『お前か』
『お前か』
彼女は不意に頭痛を感じた。
男の恐ろしさが一段と増した。彼女には分かった。それが理解できた
記憶を無理やり引き出そうとしているのだ。
『お前か』
『お前か』
頭痛が徐々に激しくなっていく。今や硬い爪で、頭皮を抉られているようだ。
「ヤメテェェェェェェェェェェェェェェェェ!」
しかし頭痛は、そして恐怖は終わらない。
『お前か』
『お前か』
『お前かお前かお前かオマエカ』
『オマエナノカ』
『オレヲコロシタノハオマエナノカ』
男の右目が顔に迫る。
「ああああああぁぁぁぁぁぁぁーーー‼‼‼‼」
その恐怖と痛みには、何人たりとも耐えられないだろう。
彼女は全ての記憶を根こそぎ奪われ、意識を失い、倒れた。
目覚めた彼女には記憶が全てなく、後には限界を超えた恐怖心しか残っていなかった。
「違ったよ、ばあちゃん」
「あらそうかい、残念だねえ」
「俺はまだ、成仏できない」
「そうねぇ、いやだねえ」
「私が何とかするからね、タカシ」
老婆がボロボロの写真に、死者と語り合うための唯一の道具に話しかける。そこに写っているのは、三年前の孫の姿にして彼のまだ生きている頃のスーツ姿だった。
彼は幽霊だ。彼は誰にでも見えるが、見せまいと思った人物にはその姿が見えない。そもそも、俗にいう「霊感」なるものは元から存在しない。死者には根本的に、生者の世界で目立つことを嫌う心が刻まれている。その彼は、老婆のすぐ後ろに立っていた。老婆に姿を見せないのは、死者の事情とは別に老婆にショックを与えないため。202号室を紹介してくれた、唯一の理解者であり情報提供者であり肉親である祖母を死なせないためだ。
彼がこの世に存在する理由はただ一つ、復讐だ。彼はある人物に、家族と自分を殺されていた。殺人を犯したのは誰か、親密だったのに思いだせない。彼は「恐怖」の根源であるその人物の顔を、無意識に記憶から削除していた。
しかし、復讐は果たさなければならない。
例え無関係の人間の記憶を消し、恐怖のどん底に叩き込んでも。
彼は頭をもたげた。
その右目は顔も忘れてしまった元恋人に、彼にとっての「恐怖」に抉られていて腐っていた。
如何でしたか?
なにぶんホラーなんてめったに書かないので、今頃は「ふざけんじゃねー!」とか言われているかもしれません(汗)。
それでも作者が一応気合を入れて書いた作品ですので、何かしらの感想や意見など、ありましたら書いてくださると助かります。今後の執筆活動に大変役立ちます。あと、「怖かったー」とか言ってくれると嬉しいです。初めて書いたので(笑)。
また、ほかの作品も「つまらないものですが」読んでくださると少しうれしいです。
では、評価を待っています!(*^ ^)v




