第2話 泥棒猫
市場ってのは、町の中で、俺が一番好きな場所だ。いつもいろんな人や物が集まり、活気に満ちてるから、何も買わなくても、あれこれ見てるだけで楽しい。気分がうきうきする。
右手に立ち並ぶのは、新鮮な野菜や果物があふれ、生きのいい魚が飛び跳ねる食料の店。色とりどりの香辛料や、清涼な香りの香草、怪しげな臭いの薬草を扱う店もある。左手にゃ、艶やかな絹が山積みされた絹織物店、柔らかな羊毛や綿でつくられた絨毯の店。
左右どちらからも、威勢よくお客を呼び込む商人のかけ声、どうにか値切ろうと懸命な客の声が、ひっきりなしに聞こえてくる。
「そこの兄さん、うちの果物はどれも新鮮だよ! お勧めはこのみずみずしい甘橙。こっちの葡萄も今が食べ頃だ。ほら、試しに一つ――お代はいらない、食べてみな!」
「さぁさぁ東方渡りの香辛料だ! 胡椒に丁字、肉荳蒄、肉桂、小荳蒄! どうだい、なんとかぐわしいこの香り! 買うなら今だよ、買わなきゃ損。さぁらっしゃいらっしゃい!」
「この絹が一反一万リーレムだって? 高いねえ、こっちは常連なんだよ。もうちょっとまけられないのかい?」
「冗談じゃない。ほら奥さん、よく見てください。この艶、手触り、細やかな刺繍。こんなに質のいい絹なら、これくらいの値はしますって!」
……こんな光景が見られるのも、一月前に隣のサンドレオ帝国と休戦することになったからなんだろう。
「やっぱり、平和ってのはいいもんだよな……」
と、思わずほっぺたを緩めちまう俺。
おっと! じっくり眺めていきてえところだが、のんびりしてちゃ船に乗りそびれちまう。これ以上俺の我がままで二人に迷惑かけるわけにゃいかねえし、ここは早足、急ぎ足だ。
そんなことを考えながら足早に進んでた、そのとき。
「どわっ?」
突然、ひき割り烏麦のお粥の屋台の陰から飛び出してきた人影に体当たりされて、俺はよろめいた。そのまま、あお向けにひっくり返り――ごっつん!
「いってえええええええッ!」
石畳に頭をぶつけて、目から火花が飛び散る。打ちどころが悪けりゃ、そのまま冥界に――死者の神ヴァハルが支配する灰色の世界に、命を落っことしてたかもしれねえ。
「ちょ、ちょっとメリック、大丈夫?」
頭を右へ左へ揺らしつつ、頭上で星の輪をくるくる回す俺を見て、サーラが慌てて助け起こしてくれる。
「ほら、しっかりしなさいよ!」
「いっててて……すまねえ、サーラ」
「怪我はない? どこか痛むところは?」
「うー、頭がずきずきする……ああ、心配いらねえ。治まってきたぜ」
俺がそう答えるのを聞いて安心したのか、サーラのちょいと子供っぽい――けど充分きれいな顔に、明るい笑みが浮かんだ。
「……そう、よかった」
「それより、あっちは……?」
「あいたたた……ねえ、ちょいとあんた! どこ見て歩いてるのさ!」
どうやら、俺にぶつかってきた相手も後ろへ吹っ飛び、道端に尻餅つく羽目になったらしい。立ち上がって、尻についた砂埃をパンパン叩き落としながら、どことなく芝居がかったせりふを投げつけてきた。
「か弱い淑女にぶつかっておいて『すみません』の一言もなし? ちゃんと謝りなよ、ほら!」
「な……!」
喧嘩腰にわびを求められて、思わず反論しかけたが、歯の垣根を越える寸前で、ぐっと言葉を呑み込んだ。
なぜって、相手が、その……俺やサーラと同い年くらいの、きれいな女の子だったからだ。
山猫を思わせる生意気そうな目、その真ん中で輝く琥珀の瞳。髪は流れる漆のように黒く、頭の左右――こめかめよりちょいと高い位置でまとめて、肩に垂らしてる。酒場で吟遊詩人が爪弾く竪琴の調べに合わせて、舞踏を披露する踊り子だろうか。豹のようにしなやかな肢体、浅黒い肌。身につけてるのは豊かな胸をかろうじて隠す薄衣と、ひらひらして太腿が見え隠れする腰布。あの艶やかな布地は、多分どちらも絹だろう。手首には黄金の腕輪をはめ、足には軽くて歩きやすそうな革の短靴を履いてる。
「ちょいとあんた、何ぼーっとこっち見てんのさ? さっさと謝りなよ!」
ずいっと俺に詰め寄り、重ねてわびを要求してくる踊り子風のお嬢さん。
「あ……悪い、すまねえ」
もちろん俺にだって言い分はあるんだが、船に乗り遅れちゃいけねえって急いでて、まわりをよく見てなかったのは事実だからな。確かに、こっちにも非はあるだろう。
それならまずは一言、謝るのが礼儀ってもんか。
そう考えて軽く頭を下げると、踊り子さんは不機嫌そうにまなじりをつり上げたまま、
「ふん、気をつけな!」
そう言い放つなり、俺をどんっと乱暴に押しのけ、走り去っちまう。
「あ、おい――ちょっと!」
俺が引き止めようと声をかけ、手を伸ばしても、踊り子さんは振り返ることなく人ごみの中へ消えた。
「…………ちぇっ」
むなしく空をつかんだ自分の掌を見つめ、それからまた人ごみの方を見て、思わず舌打ちを一つ。
俺は一応、わびたんだからさ。あっちも「いきなり飛び出してきて悪かったよ」って、それくらい言ってくれてもよさそうな気がするんだが。
そう思ったのは、どうやら俺だけじゃねえようで、
「もう! なんなのよあの娘、頭にくるわね!」
駆け去る踊り子さんの後ろ姿を見送りながら、サーラがぷうっとふくれっ面になった。
「自分からぶつかってきておいて、この子に謝らせるなんて……!」
「そのうえ自分は、謝罪の一言もなく走り去る、か。育ちの悪い女だ。もっとも、胸の発育はなかなかのものだったが」
と、デュラムも眉をひそめて、遠ざかる少女の背中に不快感のこもった視線を送る。
なんだかこの二人、ぶつかられた俺自身よりご立腹のような気がするんだが。
「メリック、あなたもあなたよ! いくら礼儀に自分なりのこだわり持ってるからって、ぶつかってきた相手に頭下げることないじゃない」
と、なぜだかいきなり、サーラに怒りの矛先を向けられて、たじろぐ俺。
「え? いや、そう言われてもな……」
口ごもってうまく答えられなかったが、実は俺……子供の頃、礼儀にうるさい親父にその手のことをみっちり教え込まれてさ。おかげで今でも、礼儀にゃついこだわっちまうんだよな。
「ま、まあそう怒るなって、サーラ」
相手はもう行っちまったんだし、ここであれこれ言っても始まらねえ。少しでも場の雰囲気を和ませようと、俺はできるだけ明るい声を出した。
「旅の途中でたまたまぶつかっちまっただけの相手なんだからさ。腹立てても仕方ねえって」
そうだ、嫌なことはさっさと忘れちまうのが一番! あの踊り子さんとは、この先また会うことなんざねえだろうし。
……俺たち地上の種族の運命を定める神々が、妙な気まぐれを起こしたりしねえ限りはさ。
「気を取り直して、港へ急ごうぜ。船に乗ったら、飯だ飯!」
俺が二人にそう促した、そのとき。
どうやら神々が、気まぐれを起こしやがったみてえだ。
「……! メリック、あれを見て」
「ん?」
サーラが声を上げて指差した先にゃ――なんだ? あの踊り子さんが、行き交う旅人や商人たちの中で立ち止まって、じっとこっちを見てやがる。右手に一つ、小さな革袋を握り締めて。
口許に、かすかな笑みが浮かんでるように見えるのは、気のせいだろうか?
「あの革袋、どっかで見たことあるような……?」
そう言えば、さっきから妙に腰のあたりが軽いような気がするんだが。
嫌な予感がして、腰に手を伸ばしてみると――驚きの女神ラプサにかけて、なんてこった! 財布がねえ! ついさっきまで、腰帯につるしてたはずなのに。
「まさか、あの革袋――!」
「ふふん! やっと気づいたかい、鈍い奴!」
人ごみの向こうから、踊り子さんが声をかけてきた。右手に持った俺の革財布を、手の内でもてあそびながら。
「その格好、あんた冒険者様だろ? いつも魔物退治や宝探しでがっぽり稼いでるんだから、これくらいあたいに恵んでくれたって、全然困らないだろ?」
体当たりされたときか、その後押しのけられたときか。あの踊り子さん、いつの間にか俺の財布を盗ってやがったんだ。
「これはもらっておくから――じゃあね!」
軽やかに身を翻して、駆け出す踊り子さん……いや、財布泥棒さん。
「……! 相変わらず、鬼人並みに間抜けな奴め」
事態を察したデュラムが舌を打ち、石畳を蹴って、泥棒の後を追いかける。
一方、サーラはと言えば、
「もーう、メリックのばか、バカ、馬鹿! なーにあんな娘になめられて、おまけに財布まで盗まれちゃってるのよ!」
「あいててて! サーラわかった、わかったから杖で叩くなって、いぃてててッ!」
ポカン、カポン! 魔女っ子の杖を両手で防ぎつつ、俺もデュラムの後を追って走り出す。
路銀だけなら、まだいい。けど、あの財布の中にゃ、絶対他人に譲れねえもんが入ってる。
……デュラムとサーラへの、大事な贈り物だ。
「ったく……こんちくしょう!」
俺としたことが、また間抜けなことをしちまった。狙われやすい財布なんざに、大切な贈り物を入れておくなんて。
だが、神々ならともかく、俺たち地上の種族にゃ、こぼれた葡萄酒を杯に戻すなんざ無理な話。やっちまったことは取り返しがつかねえ。今はとにかく、あの踊り子さんを追わねえと。
「待ちやがれ、この泥棒猫!」
様々な種族でごった返す市場の真っただ中を、俺とデュラム、サーラの三人で突っ走った。半年前の冒険じゃ、牛頭人やら竜やら、強大な魔物に追い回されたもんだが、今度は立場が逆で、俺たち三人が追いかける側だ。
泥棒猫――俺の財布を盗んだ踊り子さんは、俺たちの大股十歩ほど前を、飛ぶように駆けていく。
「ああもう、足の速い女ね!」
と、サーラが悪態つくのも無理はねえ。あの踊り子さんの逃げ足ときたら、俊足の風神ヒューリオスもかくやと思える速さだ。
短靴に宙を翔ける翼でも生えてるかのような、あの軽やかな足取り。あまりにも速すぎて、足が石畳にまったく触れてねえように見えるぜ。
おまけにここは、人の往来が激しい市場だ。俺たちの行く手を阻むもんにゃ事欠かねえ。
露店の前で買い物かごを提げて、新鮮な山海の幸を品定めしてる人間の奥さん方や、屋台で買った無花果にむしゃぶりついてる小鬼。驢馬をつないだ荷車から、せっせと積み荷を降ろしてる小人の商人。
俺たちゃもちろん、そういった市井の人たちを押しのけ、突き飛ばして全力疾走――なんて無礼なことはできねえ。ぶつかったりしねえよう避けて通るわけで、そうなるとどうしたって駆け足が鈍る、速度が落ちる。おまけに時々、危険な障害と出くわすこともあるわけで……。
十字路に差しかかったところで、サーラが右手から疾走してきたでっかい荷馬車と鉢合わせして、危うく跳ね飛ばされそうになった。
「危ねえサーラ!」
とっさに魔女っ子の細腕をつかんで引き止め、後ろへぐいっ!
「きゃっ……!」
弓形にのけぞり、二、三歩後ずさったサーラの目と鼻の先を、稲妻じみた蹄と車輪の響きも騒々しく、荷馬車が通り過ぎる。
引き止めるのがあと胸一拍分でも遅けりゃ、サーラの奴、本当に轢かれてただろう。
……よかったぜ、間に合ってさ。
前を通過した荷馬車を目で追うと、なんの偶然か、馬を操る御者と視線が合った。その瞬間――俺は思わず息を呑む。
「……っ!」
相手は灰色の顎鬚を蓄えた、禿頭の大男だった。低く垂れ込めた暗雲を思わせる太い眉と、その下で今にも稲光を放ちそうなでっかい眼! 眉間にしわ寄せてこっちをにらみすえると、いら立たしげに鞭を打ち鳴らし、疾走する馬車ともども遠ざかっていった。
「なんだ、ありゃ……?」
装いから察するに、行く先々で玉乗りや小刀投げを披露して回る旅芸人一座の荷馬車だろうか。幌で日陰がつくられた荷台にゃ、身を寄せ合って座る人影がいくつも見えた。
「……そう言えばあの御者、どっかで見たような気がするんだが……?」
なんとなく嫌な予感がして、走り去る荷馬車を見送ってると……なんだ? なぜだか困ったように眉根を寄せた魔女っ子が、ほっぺたをちょんちょん突いてくるじゃねえか。
「あの、メリック。そろそろ放してくれないかしら?」
「え? おっと、いけねえ!」
気がつけば、サーラの腕をつかんだままだった。こりゃ、淑女に無礼ってもんだぜ。
「へっ……危うく冥王の馬車にかっさらわれるところだったな」
漆黒の馬が引く二輪戦車を駆って、惚れた女をあの世へ連れ去るという冥界の王。その伝承から思いついた冗談を口にして、サーラに笑いかける。すると、いつもは白い魔女っ子のほっぺたに、ほんのり赤みが差した。
「……ありがと。あたしとしたことが、弟分のあなたに助けられちゃったわね」
「気にするなって。こっちはいつも、デュラムやお前の世話になってるんだから、たまには俺にも――」
「助けさせろよ」って続けようとしたところで、デュラムが間に割り込んできた。
「話の腰を折るようだが、このままでは貴様、あの盗人に逃げられるぞ」
「へ? そりゃどういうこと……って、えええええッ?」
しまった。おしゃべりしてる間に財布泥棒はもう、俺たちから大股三十歩くらい先を走ってやがる。さすがに走り疲れたのか、立ち止まって振り返り――遠くてよく見えなかったが、今一瞬こっちを見て、笑わなかったか?
――何やってるのさ? 早く追いついてきなよ、のろま!
そんな挑発の声が、聞こえたような気がするぜ。
それから踊り子さんは、くびれた腰をくいっとひねって右を向き、裏路地へと駆け込んだ。
「あっ、おい……待ちやがれって!」
その裏路地は、きらめく硝子の小瓶や杯を扱う店と、白地に青一色の絵柄が鮮やかな陶磁器を売る店の間にあった。
俺たちが入り口までたどり着いたときにゃ、踊り子さんの姿はすでになく、薄暗い細道と、その先に立ち込める黒々とした闇だけが見えた。
「この先は――行き止まりになってないとすればだけど、大通りでしょうね」
サーラがそう見当をつけると、デュラムがそれを聞いて一計を案じたようで、こんなことを言い出した。
「このままでは埒が明かん。貴様はサーラさんとこのまま、あの女を追いかけろ」
「お前はどうするんだよ?」
「私は大通りへ先回りして、奴の逃げ道をふさげないかやってみよう」
なるほど、二手に分かれて挟み撃ちってわけか。
「わかった。頼んだぜ、デュラム」
「ふん……頼まれてやろう。サーラさん、お気をつけて」
「ええ。デュラム君もね!」
そこで俺とサーラは、一旦デュラムと別れ、踊り子さんを追って裏路地に入った。
……なんだかこの道、嫌な感じがするんだが……俺の気のせいだよな?