月は天頂に座し、獅子は闇に眠る
夜更けの市街地を揺らめく炎がぼんやりと照らす。人々が行き交っていた日中の活気は消え失せ、不気味な程静寂に支配されている。街に人がいない事がこれだけ不気味だとは思いもしなかったが、そんな事に気を取られている場合ではない。マントの襟元を口元に手繰り寄せ、先程頭に叩き込んだ場所までの道をひたすら歩く。
帝都は大きく三つの地区に区分されている。東地区は交易船が行き交う港になっており、そこから南地区にかけては大規模な商業都市の様相を呈している。この一体を総称して商業区としている。北地区には先程までセリューノがいた皇帝の城、さらには貴族や閣僚、官僚などが住まう住居が集中している。そして今セリューノが歩を進めているこの場所が、庶民の基本的な生活の場となる西地区である。
人がどうにか通れるような狭い道に足を踏み入れ、建物の隙間を縫うように歩いて行く。不意に黒猫が目の前に躍り出て、警戒の眼差しをセリューノに向けた。その口には得体のしれない肉片が咥えられている。セリューノは先刻目にした、腐臭を撒き散らす亡骸の事を思い出し、いらぬ想像をしてしまった。松明を軽く振り黒猫を追い払ってまた歩き出す。
暫く狭い道を行くと、目的の場所に到着した。番地も確認するが、間違いないようだ。当然、家の中から光は漏れていない。もう皆寝静まっている頃だろう。セリューノは戸を叩く。返答は無い。気にする事なく再度戸を叩く。
室内から物音が聞こえたかと思うと、汚れた窓にぼんやりと光が浮かび上がり、その光は次第に大きくなる。そして戸が開く小さい音と共に壮年の男性が姿を現した。
「こんな夜更けに、どちら様かな?」
燭台を手に持ち、虚ろな目でセリューノの全身を見回す。セリューノは被っていたフードを脱ぎ、男性に視線を合わせる。彼の虚ろだった焦点が合っていくのが分かった。
「夜分遅くに申し訳ない、テーゾ伯爵」
「セリューノ様! どうしてこんな所に?」
驚きを隠せないテーゾ伯爵に仕草で静かにするように促す。辺りを見回し、どうやら表立った行為では無い事を読み取ったらしく、テーゾ伯爵は戸を大きく開きセリューノを招く。
「いったいどうしたんです、こんな夜中に、護衛も付けず」
静かに戸を閉めて鍵をかけながらテーゾ伯爵が尋ねる。セリューノは羽織ったマントを脱いだところだった。
「なに、久々に恩師の元を訪ねただけ……などと言うのは少し無理があるかな?」
自身の発した言葉を否定しながら微笑む。やれやれ、といった表情でテーゾ伯爵はため息をつく。
「いいですかセリューノ様、ここを訪れる事は咎めませんが、しかし護衛くらいつけたらどうです? 城内と違って安全とは限りませんし、第一…」
「ああ、分かった。気を付ける。相変わらず説教が好きなようで何よりだ」
彼は説教から逃れるように奥へと進み、薄暗い室内を見渡す。飾り気の無い、質素な家具ばかりが並んでおり、難しそうな本ばかりが目に付く。
「それはいいとして伯爵、聞きたい事がある」
向き直りセリューノが言う。テーゾ伯爵は机に燭台を置き、椅子に腰掛けている。それに歩み寄りながらさらに続ける。
「あなたは父上からの命で帝国史を編纂なされた、間違いないか?」
彼と対面するような形でセリューノは机を挟み反対側の椅子に腰掛ける。少し頬の痩けているテーゾ伯爵は背筋を伸ばしたまま頷いた。
「ええ、間違いないですが……。それがどうかしましたか?」
テーゾ伯爵の返答に納得したようになるほど、と言って彼は上着に手を突っ込む。そして古びた一冊の本を取り出してテーゾ伯爵の眼前に置く。
「…では、これが何か分かるか?」
本に手を触れたままセリューノが言う。彼が手を引いたのを確認してからテーゾ伯爵は本を持ち上げ、胸ポケットから取り出した眼鏡をかけた。眉が曇る。
「これは……伝記のようですね。ハウルテッド王国の人間によって書かれたものでしょう」
裏表紙の一部を指し示して彼は言った。指が示す場所には、掠れてはいるものの、何か紋章のような物が描かれている。更にテーゾ伯爵は数ページを走り読みし、内容を小さく呟きながら読み上げている。
「なるほど、帝国との戦争の様子が記されています。ハウルテッドの人間が書いた本はそう多くありませんから、貴重な物です。どこで手に入れたのですか?」
眼鏡を人差し指で上げながらテーゾ伯爵が尋ねる。
「行商人から譲り受けた物だ、出処は分からん。伯爵、それは重要ではない」
セリューノは頬杖を突いてぶっきらぼうに言う。更に続ける。
「その古臭い本にはこう書かれている。ハウルテッド王国はキドラ公国と和平条約を締結。しかしキドラ公国はハウルテッド王国領内に大軍を派遣し宣言なく侵攻を再開する、と……」
セリューノの言葉をテーゾ伯爵は静かに聞いていた。やや間をおいてセリューノが付け加える。
「先に攻撃を仕掛けたのはハウルテッド王国だという、あなたが編纂した帝国史の内容と見事に矛盾している」
セリューノは背もたれにもたれかかり、テーゾ伯爵を睨みつける。猛禽のような鋭い視線を浴びるも伯爵は動じず、じっとセリューノを見つめ返す。
「……私の家系は代々学者でした。キドラ公爵家のお雇い文官と言ったところでしょうか、爵位も無く、至って平凡な家系でした」
眼鏡を外し元あった場所へと戻し、テーゾ伯爵は静かに語り始めた。
「しかし私の父の代で転機が訪れたのです。ご存知の通り、あなたのお父上がハウルテッド王国を攻略し、キドラ帝国を建国なさった。そこで代々キドラ公爵家に仕えて来た私たちテーゾ家も功績を認められ、皇帝のご厚意で爵位も頂きましたが、もちろん交換条件がありました」
「帝国史の編纂」
セリューノが割って入る。テーゾ伯爵は頷いた。
「私の父は当然その条件を呑みました。しかし父は編纂の途中、病気でこの世を去ってしまい、代役として私が抜擢されたという訳です」
先程テーゾ伯爵がしていたように、セリューノは腕を組んで静かに話に耳を傾ける。伯爵の話は続く。
「とは言ってもほぼ完成の域に達しており、あとは手直しやまとめをするだけでしたが、ひとつだけ問題がありました。……父は真実を忠実に書き記していたのです」
予想していた通りだった。セリューノは思わず悪態をつきそうになったが、伯爵の面前という手前、感情を押し殺した。
「もちろん皇帝にとっては面白くない話です。そこで私に命令が下りました。…察しの良いセリューノ様ならもうお気付きの事でしょう」
独白を終えたテーゾ伯爵は心なしか晴れやかな表情で微笑んでみせた。セリューノは小さく頭を下げた。
「感謝する、テーゾ伯爵。あなたを責めるつもりは毛頭ない。しかし事実は…改竄されていた、という事だな?」
慎重に言葉を選びながら彼は言う。テーゾ伯爵はその通りだ、と言って立ち上がった。部屋の奥へ進み、乱雑に積まれた本の山を見つめる。
「世の中は非情だ。勝者こそが真実であり、いくら本当の真実と言えど、敗者の弁は闇に葬られてしまう。あなたの教師をしていた時も恐かったですよ。こうやって偽りで塗りたくられた人間が作られていくのかと思うとね」
声を震わせながらテーゾ伯爵は言った。セリューノは俯き、その言葉をただ聞いていた。
「あなただけではない。多くの子供が今もその真実を知らずに生きている。その子たちが大人になり、偽りの真実を脈々と語り継げば!…偽りが偽りではなくなる、真実になってしまう!」
セリューノは腰を上げ、慄くような口調で語るテーゾ伯爵の肩を軽く叩く。我を取り戻したような表情になり、荒い息を整えるように深呼吸をする。
「……申し訳ありません、取り乱してしまって…」
「いや、気にしないでくれ。あなたの背負う重圧は並大抵ではないのだ。無理もない。伯爵、最後にひとつだけ聞かせてくれ」
そう言って先程の机の上から古びた本を取り、ページをめくってある文章を指し示し、テーゾ伯爵の目の前に持っていく。
「これは本当なのか?」
その日の正午、セリューノは謁見の間にて皇帝の前に跪いていた。事前に連絡もなく帰還した息子の意図が読み取れず、皇帝は金髪の若者をじっと見つめていた。
「父上、お聞きしたい事がございます」
跪いたままの姿勢でセリューノが口を開く。その言葉を聞いて皇帝は少し眉を顰める。
「ほう、今日は息子として参ったわけか? ならば久方振りの対面よのう、セリューノ」
しかし返答は無い。セリューノは頭を垂れたまま何も喋らない。皇帝は面白くなさそうに鼻を鳴らし、豪華な玉座にふんぞりかえる。
「用件を申せ、私も暇ではないのだ」
侍女から鮮やかな金細工が施されたグラスを受け取り、ワインを一口流し込む。セリューノはようやく立ち上がり、その碧い眼差しを父である皇帝に向けた。
「十七年前の大戦の事です。帝国史によればハウルテッドは和平条約を破り攻撃を仕掛けてきた、とあります」
「それがなんだと言うのだ」
興味を引き立てられない話題に飽き飽きしたように息子を見下す。セリューノは懐から古びた本を取り出し、更に続ける。
「しかしこの書物にはこう書かれています。和平条約を破り、先に侵攻したのはキドラ公国である、と。更に……」
数ページめくり指で文章を追いながら読み上げる。
「更にこう書かれています。無抵抗の市民や人質を大量に虐殺し、暴虐の限りを尽くした、と」
彼はここまで読み上げると音を立てて本を閉じ、皇帝に向き直った。皇帝の眼差しが暗く冷たいものに変化している事が明瞭に見て取れる。
「……だからなんだと言うのだ? 何が言いたいのだセリューノ」
深く太く、冷たい声がセリューノの背筋を僅かに凍らせる。しかし怯むわけにはいかない。
「父上、私は我が国を誇りに思っています。我々こそが正義なのだと。しかし、到底正義とは言い難い行いをしています…それに」
「セリューノ」
セリューノの言葉を遮り、皇帝は玉座から腰を上げる。鼓動さえも感じさせぬ冷たい視線をセリューノに浴びせる。
「我々こそ正義だ。いくら敗者がほざこうと、勝者こそが正義であり、歴史だ! 歴史の支配者となる! それが分からんと申すか!」
「しかし! だからと言って無抵抗の人間を殺して良いわけがない! そんなものは正義ではない!」
「黙れ若造ォッ!!!」
大地を揺るがすような怒気を発する皇帝の言葉にたじろぐ。
「貴様は何も分かっていない! 生温い正義など虫けらの糞程の価値もないわ! 勝者こそが正義! それが分からん者は我が国に必要なし!」
言い終わると側に立っていた衛兵を呼び付け、何か耳元で話すと、皇帝は再び玉座に腰を下ろした。皇帝の命を受けた衛兵はセリューノの腕を掴み、力尽くで押さえ付けた。抵抗しようにも二人掛かりでかかられてはひとたまりもない。
「お前には失望したぞセリューノ。牢屋で頭を冷やせ」
悔しさと失望が入り混じった感情は涙となって現れた。頬を伝う暖かい感触を感じながら、セリューノは謁見の間から引きずり出されていった。