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虚ろなる英雄  作者: 春風
第一章
8/39

 ロッコスを経ってから四度目の夕暮れを西の彼方の山稜に見る頃、セリューノは帝都キドレリアに到着した。今日も多くの行商人がせわしく行き交っており、人と人の間を縫うように馬を進める。彼自身も馬も至る所が汚れており、途中立ち寄った村で体がすっぽりと隠れるフード付きのマントを購入し着用している事も相俟って、今のところセリューノであると気づいている人はいないようだ。


 フードの僅かな隙間から、辺りの様子を伺う。肥えた商人たちが大声を張り上げて自分の商品を売ろうと必死になっている。その店先には色鮮やかな宝飾品を身に付けた金持ちやら、掘り出し物を探る人相の悪い古美術商風の男、到底手の届かないものではある事を知りながら、物珍しそうに覗き込む痩せ細った子供など、様々な人が押し合っている。人の波はうねるように流動する。


 少し視線をずらし、建物と建物の間の狭い道を見ると、ぼろきれのような衣服を身に纏い、力感のない人々がうなだれて座り込んでいる。普段は気にするような事ではないが、この時のセリューノには気になって仕方がなかった。


 馬を道端に寄せ、ここで待っているように、と語りかけて降りる。石畳の道を棒のようになった足で歩く。彼は最低限の食事しか取らず、空腹感を覚えていたが、目の前の光景と鼻を刺す腐臭にそれは吹き飛んだ。


「これは……」


 座り込んでいる人々は生命の糸が絶たれて、打ち捨てられた操り人形のように転がっていた。皆が皆、尋常ならざる痩せ方をしているのが見て取れる。片膝を付き、近くでそのむくろを見つめる。皮膚がただれて、腐っている。


「疫病か?」


 独り言を呟きながら他の遺体を見て回る。どの遺体も同じように皮膚が爛れ、うじが湧いていた。


「魔に魅せられた者の末路じゃよ」


 不意に背後から声を掛けられて、セリューノは驚きを隠せずに振り向く。そこには薄汚れた服を着た老人が佇んでいた。その背後、セリューノの馬がいる辺りには荷車が見える。


「ふむ、あんたは健常者のようじゃが、こんな所で何をしている?」


 フードに隠された顔を覗き込むようにして、髭を蓄えた老人がセリューノに尋ねる。


「こいつらは一体なんだ? 疫病で死んだのか?」


 老人の問いに応えず、沈黙する骸を指し示してセリューノが言う。すると老人はその小さな目をしかと開き、セリューノに歩み寄る。


「“教皇の指輪(アフィヨル・ファナ)”と呼ばれる丸薬を口にした者たちじゃ。これくらいの、そう、お主のその指輪にはまった宝石のような形をしておる」


 老人がセリューノの右手の人差し指にはまる指輪を指し示しながら言う。やましい事はひとつもないが、彼は反射的に指輪を左手で隠した。


「この帝都の、人目のつかない裏路地で取引されているようじゃ。これを口にした者はこの世では得難い快楽を手にする事が出来ると言われておるが、其の実、単なる幻というわけじゃ」


「衛兵は何をしている? こんな事が起きていいわけがないだろう!」


 この老人に言ったところでどうにかなるとは思っていなかったが、憤りを抑えきれず、吐き捨てるように言う。


「衛兵などには手に負えんよ。魔の手は法の目をかいくぐって、じわじわと侵食しておるのじゃ」


 セリューノは悪態をついて壁を殴る。何故、自分は今まで気付かなかったのか。帝都は華やかで魅力的な場所だとばかり思い込んでいた。悪態は自分に向けられたものだった。


「これが帝都の裏の顔、か…」


 彼は呟きながら老人の横を通り過ぎ、悔しさに肩を震わせながら馬の元へ歩を進める。老人は彼を引き止める事なく、ただ彼の後ろ姿を見つめていた。






「おい貴様! 止まれ!」


 城へと続く石橋の脇に立っていた衛兵が、馬を引くセリューノを引き止めた。いつでも剣を抜けるように柄を握っている。城の周りは例の如く堀が巡らされており、城を行き来するにはこの石橋を渡るしかない。不審な人物が入城しないように見張る衛兵の仕事として当然の事をしている。衛兵の言いたい事は理解しているので、自らフードを脱ぐ。


「こ、これは王子! た、大変失礼致しました!」


 すかさず姿勢を正し、敬礼をする。極度の緊張に顔が引きつっている。セリューノはそれを確認すると、再びフードを被ってから敬礼をする腕を掴んで下げさせた。


「馬鹿者、目立つだろう。市民に見つかると厄介なんだ」


 はあ、と力のない声で返事をした衛兵の腕を離し、辺りの様子を窺う。どうやら誰も顔を見ていないようだった。そして彼に向き直った。


「お勤めご苦労。諸事情で戻った。通って良いな?」


「は、はい! もちろんでございます!」


 自分が道を阻んでいる事に気づいた衛兵はすぐさま飛び退き、城への道を開けた。コツコツと馬の蹄が石橋を歩く音を聞きながら、セリューノは厩へ向かった。既に城内へ入ったのでフードは脱いでいる。うまやの番がセリューノに気付き、小走りで近付いて来た。


「お帰りなさいませ、セリューノ様。お馬をお預かりします」


 ご苦労、とだけ言い、随分と急いだので無理をさせてしまった事を思いながら愛馬の額を優しく撫で、鞍に縛り付けた小さなポーチを外す。


「かなり疲れている。いたわってやってくれ」


 仰々(ぎょうぎょう)しくお辞儀をしてみせた厩の番に引かれて行く愛馬の後ろ姿を見つめ、きびすを返して歩き出す。


 城内には、セリューノの母である王妃のために建てられた図書館がある。様々な方面に興味を持った王妃が集めた、数え切れないほどの本が所狭しと棚に陳列されている。今は使われる事のない、王妃の離宮に隣接されて建てられた図書館に足繁く通う者はそう多くない。セリューノ自身も母が亡くなってからは、数える程しか訪れていない。


 飾り気のない地味な外見の白い建物の扉に手を掛ける。しっとりとした手触りの木の扉が静かに開く。木とインクと紙の匂いが混じり合った、何ともいえない図書館独特の空気に包まれる。


 見たところ人の気配はない。扉をそっと閉めて、歩き出す。静寂に包まれた室内に、彼が歩く音だけが湿った余韻を残しながら響く。彼が探している本は、ハウルテッド王国とキドラ勢の戦争を記したもの、国史だ。歴史関連の棚に収められた分厚い外装の本を手に取る。茶色の無地の表紙には『キドラ帝国史』と書かれていた。彼はその本を抱え、近くの椅子に腰掛けた。埃が舞う。






 どれほどの時間が経っただろうか。日はかなり前に落ちたので、もう日付が変わる頃だろうか。少し横を見やると、燭台に乗った蝋燭もかなり短くなっている。強張った肩を解すように伸びをし、椅子にもたれ掛かる。思った通りだった。


「やはり帝国史にはあの男が言ったような記述はない。だが……」


 ポーチから一冊の古びた本を取り出す。表紙は酷く破損しており、題名は分からないが、部分的に見ると、ハウルテッド王国やキドラといった単語が読み取れる。帰路の途中、マントを購入した際に目に入り、もしやと思い手を伸ばし、ついでに購入したものだ。その古びた本のページをパラパラと捲り、ある文章を指でなぞる。


ーーーエザフォス暦192年、キドラ公国はハウルテッド王国に対し和平案を提唱、ハウルテッド王国、これを認めんーーー


 逆の手で同じように『キドラ帝国史』のある文章を指し示す。


ーーーエザフォス暦192年、本国はハウルテッド国王ロワ・レ・ハウルテッドと和平条約を締結ーーー


 ここまで二冊の本はひとつの真実を示している。ハウルテッド王国の国王、ロワ・レ・ハウルテッドがキドラ公国と和平条約を締結した、と。しかし問題はこのあとだ。彼は次の文章を指でなぞる。


ーーーしかし同年、和平案を認めたキドラ公国はハウルテッド王国領内に大軍を派遣し宣言なく侵攻を再開するーーー


 古びた本にはそう記されていた。しかし『キドラ帝国史』にはこれとは正反対の文章が書かれている。和平条約を破り侵攻して来たのはハウルテッド王国が先である、と。この矛盾は何なのか。どちらが正しいのか。当然、自分は帝国の人間、さらには皇帝の息子であるため『キドラ帝国史』の記述を信じるべきであろう。帝国の子供はこの記述通りに習うし、自分自身もそう習ったのである。信じる以外何もない。


 しかし、彼の中でその信じる気持ちが揺らいでいたのだ。自分が今まで信じてきたものは盲信とか、洗脳とか、そういったものではないかと、疑うようになってしまったのである。すべては、あの男の言葉によるものだ。


『貴様ら帝国軍がどれだけ残虐な行為をしたのか覚えていないのか!』


 薄暗い天幕の中で浴びせられたあの言葉が脳裏に焼き付き、まとわりつく。それを振り払うかのように二冊の本を閉じ、大きくため息をついた。このまま本とにらめっこをしていても何も解決はしない。この二冊から得られるのはここまでのようだ。セリューノは立ち上がり、消えかけの燭台を持ち、本とポーチを抱えてその場を後にした。

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