魂の呼応
春とはいえ、この地域の夜は冷える。降り止まない雨の粒の中には、霙も混じっているようだ。冷え切った身体を奮い立たせ、レグナッドとイジャルは鬱蒼とした森を進む。
ミルビナファール聖教会を発ってから二時間程度のところで、ようやく森を抜ける。さらにそこから一時間弱歩くと、ロッコスの街が見えてくる。しかし、雨でぬかるんだ道は想像以上に質が悪く、寒さも相俟って、疲労も段違いだ。今回ふたりが目指すペルダンは、ロッコスを越えて山路を登った所にある。まだ先は長い。
雨風を凌げる岩の窪みを見つけたところで、つかの間の休息を取る。レグナッドは地べたに腰を下ろし、水が染み込んだ冷たい岩にもたれかかる。
「しばらくは止みそうにないな」
黒い髪から滴り落ちる水を払いながらレグナッドが言う。麻袋から、何やら植物の根のようなものを取り出した。それを目にしたイジャルが顔を顰めたのを確かめてから一口かじる。
「本当はこいつを煎じて、茶に混ぜて飲みたいんだがな」
自分が口にしたものをイジャルに向かって放りながら言う。受け取ったイジャルは、躊躇いはしたものの、レグナッドに倣い控えめにかじりついた。
「……相変わらず、この味は苦手だ」
眉間にしわを寄せる顔からは、彼がこの植物の根のようなものが好物でない事は明瞭に見て取れる。ガラドリエルの根には独特の辛味がある。この辛味の成分に体を温める作用があり、エザフォス地方、特に北部の地域では馴染みの深い物だ。本来は煎じて、香辛料として料理に使用したり、最も一般的な用法は、煎じて茶に混ぜて飲む方法だ。
「まだまだ若いって事だ。歳を取るとこの味に病みつきになるのさ」
まるで理解できない、といった表情でイジャルはガラドリエルの根を弄び、レグナッドに向けて放り返した。レグナッドは残った根を口に放り込み、イジャルに向き直って膝をパン、と一度叩いた。
「少し休んだらすぐに発つぞ。ぐずぐずはしてられないからな」
イジャルは口に残る辛味を和らげようと、水筒の水を流し込んでいる。口を袖で拭ってからひとつ頷いた。数多の雨粒が大地に降り注ぐ音が、一層大きくなった。
橙色の揺らめく光が青年の横顔を照らす。天幕内に置かれた、とても王族が使うような物には見えない簡素な机の傍に座り、机上に広げられた地図に目を落とす。今、自分のいるこのロッコスの街の近くに父、そして我が国が長年争い続けてきた大敵が潜んでいる。キドラ公国がハウルテッド王国を打倒して定刻となり、父が皇帝の名を冠したのが十七年前。それはつまり、自身がこの世に生を受けた時と一致する。幼き頃より争いは絶えず、自国の民も反帝国勢力の動きに怯え、疲れ切っていた。
幼き頃、か。地図に向けられていた青い眼を、そっと閉じる。
宮廷内に設けられた中庭の小さな泉の縁取りに座り、木漏れ日に目を細めていた。純白の大理石で造られた『慈愛の女神像』が持つ水瓶から、細い水の糸が泉へと注ぎ込まれる。
「セリューノ、何を見ているの?」
名を呼ばれて振り返ると、そこには優しげな笑みを浮かべる女性が大理石で出来た縁取りに腰掛けている。
「鳥です、母上。綺麗な鳥が! ほら、あそこに!」
少年が指差す方向には、赤と青の光彩が美しい、尾の長い鳥が枝に止まって毛繕いをしている。セリューノはその鳥の美しさに目を奪われていた。
「まあ、パーチェルチね」
少年が見つめる方向に、碧い眼差しを向けて母親が言う。驚いた表情で、身を弾ませて少年が母親に向き直る。
「知っているのですか?」
少年の好奇心が宿る目を見つめて、彼女はゆっくりと頷く。
「ええ、知っているわ。私の故郷ではよく見かけたものよ」
か細く、白く美しい手で金色の髪を掻き分け、懐かしげな表情で鳥を見やる。
「湖のほとりに、今こうしているように座って、パーチェルチのさえずりを聞きながら本を読んだのよ。風が心地よくて、とても清々しい気分だったわ」
「母上は」
それまで座っていた泉の縁取りからぴょんと飛び降り、母上の正面に立つ。彼女の膝に両手を置き、母譲りの碧い瞳をまっすぐに向ける。
「母上は、あの鳥が好きですか?」
じっと自分の事を見つめる息子の柔らかな髪を、優しく撫でて微笑む。
「とても好きよ」
「私もです!」
嬉々とした表情で彼は言った。穢れのない、美しい瞳を輝かせながら。
「そう。……だからパーチェルチもここへやって来たのね」
息子に顔を近づけ、囁くように言う。彼は母親の発した言葉の真意が理解できず、疑問符を浮かべている。彼女は「それっ」という掛け声とともにセリューノを持ち上げ、自らの膝の上に座らせた。
「パーチェルチはね、セリューノ。母さんの故郷では、平和を愛する者のもとを訪れると言われているの」
鳥を見つめる息子の顔を覗き込む。
「平和を愛する事はとても大切な事。でも、とても難しい事なの」
膝の上に座る息子を、自分に向き直らせる。
「母さんはこの庭で長い時間を過ごしてきたけれど、パーチェルチが飛んできたのは始めてよ。分かる?」
母親の嬉しくも悲しそうな目を見つめながら、セリューノはただ黙っていた。そんなふたりを尻目に、パーチェルチは小さな羽音を立て、青い空へと飛び立っていった。
瞑っていた目を開く。碧い瞳に揺らめく炎が、宝石のように輝く。
「平和を愛する者のもとへ、か」
ぽつりと独り言をこぼし、ひとつため息をついてセリューノは立ち上がる。尖らせた息でろうそくの火を消す。天幕に静寂と暗闇が訪れた。
ロッコスの街には明るく揺らめく炎が見える。草木も眠る、といわれる深い夜でも人が出歩いているようだ。イジャルもそれに気付いており、低木の陰に身を潜め、頭だけを出して周囲を警戒している。レグナッドは木の幹に身を寄せ、鋭い目つきで光の方向を見つめる。帯剣し、鈍色の鎧を身に纏った二人組が、何やら談笑しているようだ。臙脂色の外衣に映える黄色の紋章には見覚えがある。
「帝国兵か……。血の臭いを嗅ぎつけてきたようだな」
低木の陰から、イジャルの舌打ちが聞こえてきた。
「迂回しようレグナッド。遠回りにはなるが、厄介ごとを起こすのは得策じゃない」
「ああ、分かっている。だが少し敵の戦力を知っておきたい」
長い間帝国と戦い、逃げ延びたことで培われた勘が語りかけてくるのだ。腰帯に装着したポーチから単眼鏡を取り出し、木の幹の陰から帝国兵のいる方向を覗き込む。
「ふむ、西域なんたら部隊の騎兵のようだな」
単眼鏡を覗き込んだまま、嘲るような口調でレグナッドが言う。うんざりした様子でイジャルが小さく首を振る。
「おい、ふざけていないで早いところ……」
「まあそう焦るなイジャル。ふざけたのは謝る。だが考えてもみろ」
単眼鏡を顔から離し、イジャルに向き直る。人差し指を天に向けて立て、彼の眼前に持っていく。
「あの騎兵どもは普段、オズナ砦を拠点にしている。オズナ砦は危険粒子掃討部隊西域支部の拠点でもある。つまり…」
「セリューノ・キドラの部下って訳か? それくらいは俺にだって分かる」
レグナッドの言葉を遮ってイジャルが言い返す。そうだ、とレグナッドは頷いた。
「そのセリューノ・キドラが今ここにいるはずだ」
おそらく、と続けて明かりの灯っていない薄い緑色の天幕を指し示した。イジャルの赤い瞳が、鋭くレグナッドを睨む。
「危険ではあるが、好機でもある。リュゼの言っていた事は正しい。今すぐに戦いを仕掛けるのは賢明な判断、とは言えないだろう」
「だが奴が死ねば話は違ってくる。うなぎ登りの士気が、足元から崩せる」
ご名答、と言わんばかりにレグナッドは頷く。無意識の内に剣の柄に手が置かれている。
「殺るのは?」
深く、とてつもなく冷たい声でイジャルが問う。
「お前は他の兵士達を見張っていてくれ。俺が奴を殺す」
殺す、などとこんなにも平気で言えるこの男に、不安や緊張などといった感情は見受けれない。長い間連れ添ってきた仲間だが、イジャルは一抹の恐怖を感じた。
「もし、俺の身に何か起きた時には構わずに行け、いいな」
問うてはいるものの、反論を許さない断固たる口調で言うと、彼はすかさず低木を飛び越え、体躯に似合わぬ素早い動きで建物の陰へと移動して行く。イジャルはその姿を目で追いながら、万が一の事態に備え、剣の柄を握り締めた。
見回りに出ている、とは言っても談笑しているだけだが、兵士は先程の二人組だけのようだ。止みそうにない雨のおかげで足音は掻き消される。比較的容易に、かの天幕に忍び寄る。そっと聞き耳を立てて中の様子を窺う。人の活動の気配はない。眠っているのだろうか。
振り向いてイジャルの位置を確認する。先程まで彼らがいた場所から少し移動し、この天幕と兵士達が見やすい場所からこちらを注視している。彼に見えたかは分からないが、小さく頷き、天幕の入口を静かにくぐる。
天幕の中は思い描いていた内装とは違い、やけに質素な印象を受けた。一瞬、天幕を間違えたかと脳裏に浮かんだが、その疑念はすぐに消えた。
天幕に降り注ぐ雨音に掻き消される程の微かな寝息を立て、金髪の青年が眠っている。こいつが天下に名高き“若き銀獅子”か。レグナッドは心の中で呟いた。見たところ本当に眠っているようだが、いつ目覚めてもおかしくないような感覚に囚われた。邪念を振り払い、剣を静かに抜きつつ、足を踏み出す。
「……何者だ」
青年の体は微動だにせず、口だけが小さく動いた。抜きかけた剣を止める。一気に間合いを詰めれば致命傷を与えられる距離に入っているにもかかわらず、レグナッドはそれをしなかった。あろう事か抜きかけた剣を鞘に戻し、近くの椅子にどかっと腰掛けた。
「夢見はいかがかな、王子殿」
敵意の感じられない口調だった。セリューノは寝床から身を滑らせ、椅子に座る大男に対峙する。マッチ棒を取り出して蝋燭に火を灯す。ぼやけた光が次第に辺りを照らす。
「あいにく、夢は見ていなかった」
「参ったな、完全に気配を消したつもりだったんだが」
レグナッドはおちゃらけた様子で大袈裟なそぶりをしてみせる。だが、目の前の青年はニコリともしない。ただ自分の目を真っ直ぐに見つめている。
「わざわざ自首しにやって来た訳ではなさそうだったからな。あんなに殺気を放っていては、獣も殺せやしない」
レグナッドの正面、机を挟んだ所に椅子を持って行き、腰掛ける。足組をしながらレグナッドはセリューノを見つめる。
「しかしまあ、なんというか、王族の天幕にしては随分と質素なんだな。おっと、こんな話はどうでもいいな。こうやって話すのは初めてだったな、王子殿。俺は……いや、自己紹介の必要はないだろうな」
「ミビヌク・レグナッド。かつてハウルテッド王国の騎士団の騎士としてキドラ勢と対峙。大戦に敗れたあとは各地を放浪する。数々の反乱を指揮し、帝国に楯突いた男。最後は王子を暗殺しようと試みるも失敗、捕らえられてしまう哀れな男」
淡々と話すセリューノの言葉を、レグナッドは静かに聞いていた。セリューノの言葉が止むと、ぱちぱちと拍手をしながら微笑む。
「まったくたまげた、完璧だな。最後を除いては」
「逃げられるとでも思っているようなら、甘い。私を殺せると思っているなら、なお甘い」
背もたれに身体を預け、不敵な笑みを浮かべてセリューノが言う。レグナッドの表情から笑みが消えた。
「それはどうかな?」
セリューノの眉がピクリと動く。予想をしていない発言だったのだ。しかし、彼は冷静さを失わなかった。
「自分の立場が分かっていないようだな、ミビヌク・レグナッド」
「そのお言葉そのまま返すぜ、王子殿」
先程とは対照的に、レグナッドが不敵な笑みを浮かべる。セリューノの顔からは笑みが消え、彼の表情には困惑の色が滲み出している。
「俺がこうやってお前の前に座っている事を、不思議に思わないのか? 外の見回りは何をしているのか、気にならないのか?」
身を乗り出してレグナッドが問う。二人の間で蝋燭の火が静かに揺れている。セリューノの口角が僅かに上がった。
「馬鹿馬鹿しい。まさか全員を始末したとでも言いたいのか? 第一貴様は返り血を浴びていない」
つい先程人を殺めたのなら、多少の痕跡が残るはずだ。薄暗い天幕内に浮かび上がるレグナッドの衣服には返り血を浴びた痕跡はない。したり顔のセリューノをじっと見つめながら、レグナッドは背もたれに身体を預けた。
「俺はお前と一緒で人殺しが嫌いなんだ。止むを得ない場合以外は、他人に任せる。血を見るのが好きな残酷な奴も多いもんでな」
セリューノは再度眉を曇らせる。この男の言葉には、掴みどころがない。
「俺も長い間お前ら帝国に反抗し、逃げ延びてきた。おかげで悪知恵だけは、ここにふんだんに詰まっていてる」
人差し指で自らの頭を指し示し、さらに続ける。
「臆病者でな、単身で突っ込むほど勇気はない」
しばらくの間沈黙がその場を支配し、降り注ぐ雨だけが音を立てていた。
「天幕から出れば分かるが、街を囲むようにして俺の部下達がお前の首を狙っているぞ、セリューノ・キドラ。たとえここで俺が死んでも、あいつらがお前を殺しにやってくる」
深い黒の瞳が、まるで微塵の熱を帯びていないかのように冷酷な色に染まる。セリューノは、背筋に冷ややかな感覚が走る事を認めたくなかった。
「そんなハッタリに乗る程私は愚かではない」
「どうかな? 綺麗な顔が強張っているぜ」
心臓の鼓動が嫌にはっきりと聞こえる。この男の言葉には迫力というか、凄味というか、圧倒させられる何かがある。焦燥感に駆られるセリューノとは対照的に、レグナッドは落ち着いていた。そして最後のブラフを口にした。
「罠に掛かったんだよ、お前らは。そしてお前が、最後のひとりだ」
冷や汗がこめかみから頬へと伝う。彼の脳内では様々な情報が錯綜し、入り乱れていた。自らを落ち着かせようとするが、気持ちばかりが先走る。気付いた時には肩で息をしていた。
「……たとえ」
声にならぬ程の小さな声だった。
「たとえ私が死んでも! 我が国の正義が必ずや貴様らを打ち砕く! 平和を乱す悪である、貴様らを!」
机を叩き、勢いよく立ち上がる。あまりの勢いに椅子は倒れ、蝋燭は床に落ちて火が消えてしまった。
「……正義だと?」
立ち尽くしているセリューノを見上げながらレグナッドが呟く。さらに続ける。
「悪だと? 平和だと? ふ、笑わせてくれる。王子殿がこんなにも愉快な方だとは思いもよらなかった」
口元は微笑んではいるものの、目は猛禽の如く鋭かった。
「貴様ら帝国軍がどれだけ残虐な行為をしたのか覚えていないのか!」
語気を強めたレグナッドもセリューノと同じように立ち上がった。歯を食いしばり、目を見開いてセリューノを睨む。
「残虐な……行為?」
セリューノが漏らした言葉には覇気がなかった。それを見たレグナッドは我に返り、再度椅子に座り直す。少し時間を置き、考え込むようなそぶりをしてから口を開いた。
「聞いた事はないか? まあ無理もない。確かお前は、大戦の直後に生まれたらしいな。大戦については教わったか?」
「勝利目前の我が国はハウルテッドに対し和平条約を提案したが、ハウルテッドは拒否した」
セリューノは、父親や国の幹部から聞かされた歴史の流れを簡略化して説明した。レグナッドは微動だにせず、耳を傾けていた。
「そのせいで戦は長期化し、犠牲も多くなった、と」
「確かにそう教わったのか?」
セリューノは頷く。
「だからこそ、自国こそが正義だと言い張るんだな?」
そうだ、と添えて頷く。それを確認したレグナッドは大きなため息をつき、セリューノの碧い目を見つめた。
「それはデタラメだ」
「……馬鹿な!」
セリューノは苦虫を噛み潰したような表情で言い放った。
「残念だが実際は違う。俺の口から教えてやってもいいが、どうせ信じないだろう」
椅子から腰を上げながらレグナッドが言った。もはや耳に入っているかさえ怪しいくらいに錯乱している様子のセリューノを見やる。
「今回は見逃してやろう。冥土の土産に真実を持って行くんだな」
そう言って彼は踵を返し、天幕をあとにした。ただひとり、暗い天幕に残されたセリューノは机に手をついたまま立ち尽くしていた。
「真実……」
あの男が口にした言葉を鵜呑みにしていいのか。いや、信じてみる価値はある。彼の語気に圧倒されたのか、それとも…。湧き上がってきた感情を否定し、彼は椅子に腰を下ろした。