一縷の望み
もう怯える必要はないのだ。長年に渡って幾度となく帝国に反旗を翻し、領地内の生活を混乱させた男が遂にこの世を去ったのだという。
反帝国勢力の筆頭、ミビヌク・レグナッドの死は瞬く間に帝都に知れ渡った。民衆は浮かれに浮かれ、ありとあらゆる物を引っ張り出し、至る所でお祭り騒ぎをしている。
男達は仕事そっちのけで大笑いし、木製の器に並々と注がれた発泡酒を水のように飲む。女は着飾り、ドレスの裾を蝶の羽のようにひらひらと舞わせ踊っている。傍らでは旅芸人が奇怪な手品を披露し、民衆の気分を更に高揚させる。
皇帝や貴族が住まう北地区も例外ではない。吉報が飛び込むや否や、宴の準備に取り掛かるように皇帝からの命が発せられた。エザフォス地方各地から持ち運ばれた、贅の限りを尽くした豪華な食材を惜しみなく使い、純白のシルク製テーブルクロスの卓上を華やかに彩る。芳醇な果実酒を特注グラスに注ぎ、一息に飲み干す。
「はっはっは! 美味い! 実に美味い!」
この上なく上機嫌な皇帝の空いたグラスに、目鼻立ちの整った美しい侍女が酒を注ぐ。それをまたしても一息で飲み込み、大きく息をついてからグラスを置いた。空いた手で侍女の腰に手を回し、膝の上に座らせる。
「…あとはセリューノか。あの馬鹿息子め、手を煩わせおって」
僅かに頬を赤らめ、侍女の腰を撫でながら皇帝は呟く。
「まあよい。あのミビヌク・レグナッドが死んだのだ。残党共など取るに足らん」
そう言うと彼は立ち上がり、来賓の貴族たちの前に歩み出て、深紅の果実酒が揺らぐグラスを掲げる。
「皆、今日は無礼講ぞ! 存分に飲め飲めい!」
貴族から将軍級の軍人、各官僚たちは皇帝の言葉に称賛の拍手を送り、口々に乾杯と叫んで酒や料理を口にした。
皇帝の目には、長き戦いの終着点が見えてきていた。
「最優先事項は兵力の確保。さらに武器の調達。為すべきことは山程ありますが、まず手始めにこの二つから当たりましょう」
小雨舞う粗末な野営用のテントの下で、薄汚い格好をした、しかし目をギラつかせた男たちが小さくなって話し合っている。言葉を発したのは長髪の男、リュゼだ。
「帝都に潜り込ませている部下からの情報が正しければ、帝都内はお祭騒ぎのようです。…我々、反帝国勢力が壊滅したのだと思っているのでしょう」
「けっ、ふざけやがって! 浮かれていられるのも今のうちだぜ!」
腹の虫の居所が悪いドゥーハスは胡座をかき、頬杖を突きながら貧乏揺すりをしている。
「しかし、こちらからしてみれば動きやすい点、好都合だな」
神妙な面持ちで腕組みをしながら岩壁に凭れ掛かるエリウッドが発した言葉だ。リュゼも頷く。
「挽回の好機はそうあるものではありません。この機を逃さず、反撃の礎を築きます」
「……とは言ったものの、時間は限られている。一刻も早く、かつ、多数の戦力を補う策はあるのか?」
核心を突く、サジュの的確な指摘だった。その言葉を受け、一同は沈黙する。彼の言う通りである。そのような都合のいい話があるのならば、先見の明に優れたレグナッドが既にその手は打っているはずだ。ましてや状況が状況だ。レグナッドが暗殺される前と比べれば、現在は明らかに劣勢であるという事実否めない。負け戦に好き好んで出て行く者は、相当な問題を抱えている者か、ただの愚か者である。
「一縷の望みだが、私に案がある」
皆の視線が金色の頭髪を生やした青年に集まる。その美しい髪を手櫛で掻き分け、セリューノは更に続ける。
「以前私が指揮を取っていた危険粒子掃討部隊が、まだオズナ砦に滞留しているはずだ。そこなら武器も防具も調達出来る。ただし……」
「こちらに協力してくれるとは限らない」
真剣な表情でリュゼがセリューノに代わって述べる。セリューノもその言葉に頷いて同意を示す。
「彼らの忠誠がお前にあるのか。それとも、帝国にあるのか。それによって事態は大きく変容する。まさに博打だな」
サジュの言う通りである。危険粒子掃討部隊の面々がセリューノに対して忠誠を誓っているのなら話は単純である。しかしその逆、帝国に忠誠を誓っていた場合、厄介な事になるのは間違いない。何の準備もせずに、裸同然で敵陣に乗り込むようなものだ。乾坤一擲の大博打と言えるだろう。
「兵力に加え、武具の調達も迅速に行えることは非常に魅力的ではあります。しかし、確実性に欠け、大きな危険を伴うことは間違いありません」
サジュとリュゼが要点を纏めると、皆からくぐもった呻き声が漏れ出す。しかし、セリューノの目に迷いはなかった。彼は立ち上がり、静かに口を開いた。
「あなた方を危険に晒すわけにはいかない。……私一人で行く」
度肝を抜かれたのは言うまでもない。全員が耳を疑い、驚きの表情を見せる。
「セリューノ様! それはなりません!」
彼の事を一番に慕うエリウッドが必死に止めに入る。
「以前と今ではあなたの立場も違えば、彼らの心境も違うかも知れない! 危険です!」
「エリウッドの言う通りだぜ! 馬鹿な事はすんじゃねえ!」
ドゥーハスもエリウッドに乗じ、セリューノを抑える。サジュも心配そうな表情でそれを見つめている。
「……名案かも知れませんね」
セリューノの言葉を聞き、静かに熟考に耽っていたリュゼがポツリと呟く。一同は驚きの視線をリュゼに送る。
「大人数で動けば、敵にこちらの動きを察知される可能性が非常に高くなります。しかし、セリューノさん単体で動くとなれば、そうそう気付かれないでしょう」
彼は立ち上がり、なおも続ける。
「それに、大勢で砦に出向けば敵襲と勘違いするかも知れません。しかしその案なら、それも未然に防ぐ事が出来る」
「なるほどな。しかし、いくらなんでも危険過ぎやしないか?」
感心したように頷いたサジュだが、まだ完全に納得した訳ではない。この細かな点に細心の注意払える点こそ、サジュという男の最も優れた性質である。レグナッドと長年に渡り戦い続けた男の意見を受け、リュゼはにっこりと笑った。
「もちろん危険は承知です。ただ、このセリューノさんの目を見ていると、不思議な事に不安では無くなります。それにサジュさん、あなたもいてくれる訳ですしね」
そう言うとリュゼはセリューノに向き直り、真剣な眼差しを送る。
「私もご一緒しましょう。本隊はサジュさんに指揮を取ってもらいます。それで異議はないですね?」
「お前も顔に似合わず、なかなか強情だからな。合点、こっちの事は任せときな」
リュゼの問い掛けにサジュは微笑み、自分の胸を拳で小突く。リュゼも礼の意味を込めて軽く頷く。
「ありがとうございます。あと、心配なさらず。あなたにももちろん着いて来て頂きます」
先程から異様にリュゼを注視しているエリウッドに向けての言葉だった。その言葉を聞き、彼は当然だ、という顔になる。そしてリュゼは少し不貞腐れたドゥーハスに向き直る。
「おめえの言いたい事は大体分かるよ。俺はここに残ってろってんだろ?」
「はい。いくら本隊といえど、手薄になっては困ります。サジュさんと共に、頼みましたよ」
リュゼはかしこまって彼に頭を下げる。そういった堅苦しい挨拶は勘弁してくれ、と言わんばかりにドゥーハスが手でリュゼを追い払うかのような仕草をし、ゴロンと横になる。悪気は無いのだが、雑破な彼らしい。
「さて、時間がありません。覚悟はいいですか?」
金髪の青年と栗毛色の髪をした青年二人に向き直り、リュゼが言う。
「覚悟はとうの昔にした。今更どうこうという訳ではない」
セリューノの言葉に篭った力強さはどこかレグナッドに似ていた。
「そうでしたね。……では、行きましょうか」
歩み出したリュゼに二人が続く形になり、三人は粗悪なテントを離れた。仲間の期待と不安を各々の双肩に背負いながら。




