若き銀獅子、血の因縁を断つ
明くる日、連日の雨に見舞われるイシュカ川の畔で、反帝国勢力と帝国軍は再び対峙した。昨日同様、砦の前に全軍を配置し、その中央には行く手を阻む堅牢な城壁の如き重圧感を放つカヴァードの姿があった。そして恐らく渡し舟を使い、いくらかの兵とともにイシュカ川を渡ってきたのであろうフィズスとツァラー将軍の姿も見受けられた。
何人たりともこの先へは行かせない。無言でもそう語りかけてくるような圧倒的な雰囲気が漂っていた。
「フィズス王子、前方に反帝国勢力が現れました。いかがなさいますか?」
フィズスの側近の兵が跪き、主に指示を求める。
「答えるまでもない。全勢力を注ぎ込んで徹底的に叩き潰してやるのだ!」
「お待ち下さい」
側近の兵が了承の返事をし、下がろうとしたところでカヴァードが口を開く。フィズスは内心舌打ちをした。
「フィズス様とツァラー殿は相手の総大将との顔合わせをしておりません。まずは、そちらを……」
「そんなものはどうでも良いではないか! 敵に払う礼儀などない! すぐさま攻撃に…」
フィズスが話し終える前に、乾いた音が鳴り響いた。カヴァードの厚い掌がフィズスの頬を叩いたのだ。ツァラーを含め、それを目撃した帝国兵は唖然とする。一瞬茫然とするフィズスだったが、徐々に怒りの感情が表情に滲み出した。
「戦争には戦争の作法があるのです。敵といえど敬意を払い、礼を尽くすのが騎士というものです」
「き、貴様! いッ、いま! 自分が何をしたのか分かっているのか!?」
他人にはもちろん、両親にも頬を叩かれた事のないフィズスは怒りと共に恐怖、動揺が露わになっていた。そんな彼を諭すような目付きで、カヴァードは続ける。
「あなたの双肩にはキドラ帝国の未来がかかっております。その事を良く理解して頂かなければなりません」
「不敬罪だ! 不敬罪でこの者を捕らえよ!」
後ろで控えている兵に命令するも、彼らは果たしてフィズスの命令に従い、カヴァードを捕らえてもよいのか判断しあぐねていた。その様子を見て怒鳴り散らすフィズスを目にし、カヴァードは小さくため息をついた。
「フィズス様。この戦が終わり、生きて還れたならばどのような刑をも受けましょう。しかし、まずは目の前の仕事を片付けるべきです。戦では私情に囚われることは命を落とす事と同義になります」
有無を言わせない、力強い言葉でカヴァードが言い放つ。彼はさらに続ける。
「あなたの兄上…セリューノ様は幾度となく私に殴られた。しかし弱音のひとつも吐かずに、真っ直ぐ私の目を見つめて私の言葉に耳を傾けておられた。……さあ、参りましょう」
それだけ言うとカヴァードはツァラーに目配せし、馬を進ませた。ツァラーは恐る恐るフィズスに近付き、フィズスに馬を進めるように促した。押し黙るフィズスだったが、憮然とした表情でカヴァードの後に続いた。やれやれ、と言わんばかりに頭を抱えるツァラーもその後に続く。
相変わらず切り札を懐にしまい込んでいるかのような不敵な笑みを浮かべたレグナッドと、宝石のように美しく輝く碧い瞳で、真っ直ぐに前を見据えるセリューノが反帝国勢力の陣から馬に乗って歩み出て来た。セリューノが危険粒子掃討部隊西域部隊長に就任してからは、フィズスとの対面はほとんど無かった。皮肉な事に、腹違いと言えど、血を分けた兄弟の久方振りの再会が、血生臭い戦場になってしまった。それでもセリューノは平然とした様子で帝国軍の陣から歩み出てきた三人と対峙している。その態度が癪に障ったのか、フィズスが意地の悪い笑みを浮かべて一歩前に出る。
「祖国を裏切った気持ちというのはどのようなものなのですか、兄上」
「……私は私の正義に従ったまでだ。結果的に祖国を裏切る形になろうとも、微塵も後悔していない」
ふん、と鼻で笑ってフィズスがさらにセリューノに揺さぶりをかける。
「裏切り者風情が正義などとは、兄上も冗談がお上手になった」
いくら彼が煽ったところでセリューノは動じなかった。彼の心は、たったひとつの波紋も広がらない地底湖の水面のように静寂を保っていた。
「兄弟喧嘩はそこまでだ、フィズス王子殿。おっと、挨拶が遅れましたな。私がミビヌク・レグナッド、反帝国勢力の総大将です。して、そちらの総大将はフィズス王子でよろしいかな?」
「勿論だ」
「ならば、お話がございます。反帝国勢力の総大将である私から、帝国軍総大将フィズス王子に一騎討ちを申し出ます」
カヴァードの眉が一気に曇る。この男の腹にはそういったナイフが隠されていたのだ。どこまでも食えない男だ。
「私が、貴様と一騎討ちだと?」
実戦経験の少ないフィズスは明らかに焦燥していた。かたや成人もしていない、名ばかりの総大将。かたや一メートル九十センチの体躯を誇る巨漢。傍目から見ても勝敗は容易に予想できるだろう。余りにも不等である。
「待たれよ、レグナッド殿」
カヴァードがフィズスを庇うようにして馬を前に進ませる。レグナッドの口角が僅かに上がる。
「何かな、カヴァード将軍」
「その一騎討ち、王子の代わりに私が受けて立とう。異議はありますかな?」
そう言って後ろに控えているフィズスとツァラーを振り返る。ツァラーは不安気な様子ではあるが異議がないことを首を振って示した。
「大ありだ! 総大将は私だぞ!」
不満爆発、といった様子でフィズスが大声で叫ぶ。カヴァードは彼に向き直り、優しい口調で語りかける。
「あの男は相当な手練れです。恐縮ですが、フィズス様では相手になりません。私にお任せ下さい」
それだけ言うとカヴァードは身を翻し、レグナッドとセリューノに向き直った。そして口を開こうとした時だった。
「ならば帝国軍総大将として、セリューノ・キドラとの一騎討ちを申し出る!」
制止を振り切り、フィズスは馬から飛び降りて勢い良く剣を抜き去る。そしてその鋭い剣の切先を、静かに佇むセリューノに向けた。
「フィズス様!」
「いいだろう」
カヴァードが暴走するフィズスを諌めようとするが、その前にセリューノが真一文字に結んだ口を開いた。そして肯定の言葉を口にし、彼もフィズスと同じように馬から飛び降りた。
「セリューノ様! あなた様まで!」
「カヴァード将軍、止めないでくれ。これは我々兄弟のつけるべきケジメだ」
そう言って彼は腰に差した剣を抜き払い、その美しい刀身を相対する弟へと向けた。何かに取り憑かれたように目を見開き、薄ら笑いを浮かべるフィズスが雄叫びを上げながらセリューノに斬りかかる。セリューノは剣を横に構えその斬撃を受け止める。高い金属音とともに、刀身に着いた雨粒が爆ぜるように飛び散る。
「やっと恨みを晴らす時が来たぞ! セリューノォ! 俺はいつもお前の影に隠れ、不遇な扱いを受けてきた!」
再び振りかぶり、力任せの斬撃を繰り出す。またもそれをセリューノは受け止める。
「だがそれも今日までだ! お前をここで殺して、俺が光を浴びるんだ!」
鍔迫り合いでセリューノを押し込むフィズス。セリューノは表情ひとつ崩さずに弟の口から吐露された言葉を聞いていた。
「死ねェェェ!」
三度振りかぶって剣を振り下ろすが、セリューノはそれを受けず、隼のような速度で斬りかかる剣を弾き飛ばした。飛ばされたフィズスの剣は空中で振動が残り、か弱い旋律を奏でながらぬかるんだ地面に埋れた。
「……私には為すべき事がある」
力無くへたり込んだ弟の喉元に妖しく輝く刀身を突き付け、セリューノは静かに語った。
「その理想の実現を邪魔する者は、何人たりとも容赦はしない」
そう言うとセリューノは剣を両手で持ち、フィズスの左肩から右の腰の骨の辺りを一直線に結ぶように斬り裂いた。
「……今、この場でフィズス・キドラは死んだ」
セリューノが斬り裂いたのは空であり、フィズス自身は全くの無傷であった。自分を見上げるかつての弟と別れを告げた。
「それと、私はセリューノ・ソルバルドだ。セリューノ・キドラも、すでに死んだ」
そう言い残して彼は踵を返し、馬の元へと戻って行った。フィズスはまるで魂が抜けたかのように座り込んでいた。ツァラーが慌てて駆け寄り、体を揺らしたりしている。
「我々の勝利だな、将軍」
黙って行く末を見守っていたレグナッドがカヴァードに向かって言う。しかしカヴァードはそれを鼻で笑い、レグナッドの黒い瞳を猛禽のような目で睨み付ける。
「戯言を。最初から貴様の狙いはこの私の首だろう。フィズス様に一騎討ちを申し込めば必ず私が代わりに出てくると踏んでいたのだろう?」
「おっと、バレてたのか。まあ、しかし、それならば話は早い」
何の合図も無しに、レグナッドが話し終えたところで、二人が同時に馬から降りる。互いに大柄で威圧感のある風貌をしている。そんな男たちが殺気を隠そうともせずに、むしろ火花が散るのではないかと思わせるくらいに鬩ぎ合っている。
「昨日も言ったよな。その首、頂くぜ」
「それはこちらの台詞だ、ミビヌク・レグナッド!」
「安くはねえぜ、俺の首はよ」
鬼の如き形相で、二人の男が剣を抜いた。




