籠の中の鳥
思わぬ事態に焦燥しきる周りの人間とは違い、カヴァードは落ち着き払って静かに手紙に目を落とす。帝都からの紋章付きの手紙には、反帝国勢力がカルーア砦に向けて移動を開始したという情報が記されていた。大規模な反乱によって混乱しているカルーア砦を先に制圧しようという考えだろうか。確かに理にかなっている。しかし相手はミビヌク・レグナッドだ。過去幾度となく反乱を指揮したあの手練れがこうも安易な攻勢を仕掛けるだろうか。疑問が残る。
「すぐさま全軍をカルーア砦に派遣せよ! くそッ! 敵に先手を取られるなんて、なんて様だ!」
焦りの色が強まったフィズスが部下を捲し立てる。部下も動揺しきってしまい、慌ただしく動き回っている。そんな中でじっと手紙を見つめて黙り込んで座っているカヴァードに対してフィズスは怒りの眼差しを送る。
「カヴァード将軍、なにを悠長に手紙なんぞを見つめている! 事態は一刻を争うんだぞ!」
そう言って彼は手紙を奪い取り、怒りに任せて破り捨てた。バラバラに散りゆく、ただの紙切れになってしまった手紙を見つめていた目を閉じ、ゆっくりと口を開く。
「私は、ここに残らせて頂きます」
「な、何を馬鹿なことを、気でも違ったか!」
「いいえ、至って正気です。…しかし、確信が持てないので断定が出来ませんが、今あなたが破り捨てた手紙は十中八九偽物です。もっとも、今となってはそれも確認出来ませんが……」
睨み付けるような眼差しをフィズスに送る。彼はたじろぎ、身がすくむ感覚を覚えた。
「恐らく、現在我々がいるアサナ砦に標準を絞っている。カルーア砦への進軍は嘘でしょう。大規模な反乱に乗じてカルーア砦を攻める。確かに理にかなっているので引っかかりそうになりましたが、安易すぎますな」
「ならばカルーア砦への派遣は無意味だと言うのか?」
訳が分からないといった様子でフィズスは壮年の男に尋ねる。しかし彼は喉をくぐもらせるだけで、断定はしなかった。
「なんとも言えません。アサナに攻め込んで来るのかか、カルーアに攻め込んで来るのか。それとも双方に攻め込んで来るのか…読めぬ」
深読みが過ぎるだろうか。いや、今までこうやって蟻の足先ほどの細かな面にまで注意を払って来たからこそ、武勲を上げてこれたのだ。慎重過ぎると言われようが構わない。それが自身のやり方なのだから。
だとしても今回の判断は難しい。髪の毛先ほどの、ほんの僅かな誤りが命取りになってしまう。ましてや第一王子であるセリューノが寝返った今、王位継承権の頂点に来るのは目の前で焦燥感に駆られているフィズスだ。勝つ事は大事だが、それも彼の命あってこそのものだ。彼に死なれては全てが水の泡となる。
沈黙が支配していたその場を解き放ったのは、カヴァードの言葉だった。
「フィズス様は七割の兵を連れてカルーア砦に向かって下さい。こちらには私と三割の兵が残り、待機します。どちらかの砦に攻め入れられたら、もう一方の側が救援に向かう。それが得策です」
「七割だと! それではアサナ砦が裸同然になってしまう!」
カヴァードの言葉に驚愕したフィズスが彼に詰め寄る。しかし彼は不敵にも笑ってみせた。
「裸同然ですと? 私も甘く見られたものだ」
「カヴァード将軍! ふざけている場合ではない!」
「よく聞いて下さいフィズス様。私の役目はあなたをお守りしつつ戦に勝利する事。その可能性を少しでも高くしようというのが当然ではないでしょうか。私を信じては頂けないか? 必ずや勝利に導いてみせましょう」
凛然とした、そして威厳のある、生涯軍人を貫く男の重みのある言葉にフィズスは返す言葉がなかった。なによりも、その優しい眼差しに驚いた。
「…さて、長居は無用ですぞ。すぐにでも発った方がよろしいでしょう。ここは私にお任せ下さい」
すっと立ち上がり、服の上からでも分かる筋肉質の厚い体を進ませる。
「…雨は嫌ですなあ」
ポツリとそう零して自分の体の横を通り抜けて歩いて行く男の背中から、フィズスは言葉より重く語りかけてくる何かを感じた。
雨に煙る明け方のイシュカ川を、一隻の小さな舟が下って行く。フードを被ったサジュとリュゼは櫂を巧みに操り、舟を岸に寄せて近くの木に縄で固定した。二人の眼前には石で組まれた大きな橋が架かっている。この橋こそがアサナ砦とカルーア砦を最短距離で結ぶ唯一の交通手段である。
イシュカ川は流れこそ遅いものの川幅が広く、とても鎧を身に纏ったまま泳ぎ切れる距離ではない。対岸へ渡るには舟を使うか、他の橋を渡って遠回りするかの二択だ。しかし今回は念入りに、最寄りの橋にも工作員を向かわせ、破壊する手立てになっている。あと数時間でレグナッドやセリューノが大軍を率いてアサナ砦に攻め入る。その頃合いで橋を落とし、敵の足止めをするという訳だ。
「敵が上手く罠にかかってくれればいいんだが…」
火薬を橋桁に括り付けながらポツリとサジュが呟く。それを聞いていたリュゼが柔らかな笑みを浮かべる。
「大丈夫ですよ、サジュさん。きっと上手くいくはずです」
「ほう、お前さんにしてはなかなか珍しい物言いだな。運は信じない質かと思ってたが」
作業の手を止める事なく二人は会話を続けた。
「私にだって分からない事はたくさんあります。…ですが、今は何か幸運めいたものを感じるんです」
「幸運、か。長いこと留守にしていたが、やっと帰って来たか?」
いたずらな笑みを浮かべてリュゼに向き直る。リュゼも微笑んで頷き、一拍置いて真剣な表情になる。
「全てが順調に進めば、いよいよ帝国打倒も見えてきますね」
帝国打倒。その言葉にいよいよ現実味が湧いてきた。思えば十七年という気の遠くなるような歳月をレグナッドと共に戦いに身を投じて過ごしてきた。始めはごく少数の生き残りが蟻の糞程度の抵抗しか出来なかったのが、リュゼやドゥーハス、さらに増えていった仲間と比例して大規模な反乱を起こして行った。そうしているうちにセリューノやエリウッドが味方になり、いよいよ帝国の防衛の要塞に攻め入ろうとしている。
春とは言え早朝はまだ冷える。寒さからくるものか、帝国打倒の真実味が増してきたからか、どちらか理解できなかったがサジュは身震いをした。後者であると信じたかった。
「…ああ、いよいよだ。長い戦いも、あと少しで終幕を迎える」
火薬を設置し終わり、後は打ち合わせ通りの時間を待つのみだ。この十数年、神などいないと卑屈になっていた。しかし彼は再度神を信じようとしていた。そして、ここまで皆を力強く牽引してきた、一人の男の事も。
「頼んだぞ……レグナッド」
濃霧に支配された平原をゆっくりと進んで行く。目指すアサナ砦に一体どれほどの敵が待ち受けているのか。天候も相俟って、セリューノは不安な気持ちになっていた。
「セリューノ様、顔色が優れませんが…」
「ああ、すまない。大丈夫だ」
フードの隙間から栗毛色の髪を覗かせるエリウッドが神妙な面持ちで尋ねる。彼の気遣いに感謝の言葉を述べ、セリューノは自らの心と向き合った。
自分が望んでいるのは争い事のない平和な世界。誰しもが手を取り合い、弱き者に手を差し伸べられる。そんな母親のような包容力のある温かい世界を創りたい。母親のように。そう、それこそが今は亡き母の望んだ理想なのだ。母の柔らかな、女神のような笑顔を思い出すと、自然と腹の底から勇気が湧いてくる感覚がする。今は血と泥で汚れきった戦をしているが、その先には穢れのない美しい世界が待っていると信じている。
「見えて来たぞ」
自らの先を行くレグナッドの声によって現実に引き戻される。目を凝らすと、霧の中に薄っすらと浮かぶアサナ砦は、まるで魔境に佇む地獄の門のように感じられた。そしてその砦の門前には、数百騎の騎兵と、長槍を携えた無数の歩兵、矢倉の上には矢を番える弓兵の姿がぼんやりと窺える。
不意にレグナッドが右手を挙げ、進軍を停止させた。相手の弓矢の射程距離外、安全地帯で敵軍と睨み合う。
「罠は失敗だったか!?」
得物の長槍を担いだドゥーハスが悔しそうに歯を噛み締める。エリウッドも舌打ちをし、剣を抜き払う。
「いや、リュゼからの報告によればこれ以上の兵がいるはずだ。……分断には成功したようだが、敵もそう簡単には引き下がるつもりはないらしい」
レグナッドがちらりとセリューノの方を見やる。
「宣戦布告を通達した場合は戦を始める前に挨拶に行っても殺される事はないだろう?」
「ああ、問題ないはずだ。……だが厄介だぞ。よりによってカヴァード将軍の部隊と激突するとは…」
その名を聞いたレグナッドの眉が曇った。普段は表情を変える事も稀な彼があからさまに嫌悪感を示した。それほどまでにカヴァードという男は厄介なのだ。後方に続く兵たちにもざわつきが見受けられる。
「ふん! 相手が帝国一と謳われた猛将なら相手に不足なしだ! 思う存分暴れてやらあ!」
ドゥーハスにつられて後ろに控えている兵たちも空元気なのか、雄叫びをあげている。
「あの方を甘く見るな! 戦術、知略、そして武芸。全てにおいてあの方の右に出る者は帝国内を探してもいないだろう。セリューノ様もカヴァード将軍の教育を受けられたのだ」
いきり立つドゥーハスたちを制止し、エリウッドは少し寂しげな表情を見せた。セリューノも同様だったが、その眼差しは力強かった。
「こんな形で再会する事になるとは思わなかった。……しかし、弟子は師を超えて行くもの! 全身全霊を込めて打ち破る!」
「よく言ったセリューノ・ソルバルド。さて、血生臭い戦いの前に挨拶といくか。着いて来い」
そう言ってレグナッドは馬の腹を軽く蹴り、歩を進ませた。それに続いてセリューノも馬を進ませる。向こうからも一人の壮年の男が馬に跨ってこちらへ近付いて来る。
敵、味方双方の陣のちょうど中間地点で三人は邂逅を果たした。無言の時が続く中、カヴァードはじっとセリューノの碧い瞳を見つめていた。
「…お久しぶりです、カヴァード将軍」
「セリューノ様もお元気なようで何よりです。……良い眼をするようになられましたな。迷いが、無い」
慈しむような気持ちの込められた言葉だった。昔と変わらないその声や表情、全てが懐かしく思えた。
「感動の再会に水を差すようで悪いが、出来の悪いと噂の第二王子はどちらに?」
わざとらしく辺りを見回す仕草をしながらレグナッドが尋ねる。何一つ調子を変えずにカヴァードが口を開く。
「フィズス様はここにはいない。お目当ての首が無くて残念だな、ミビヌク・レグナッド」
「なに、気にしちゃあいないさ。代わりにあんたの首を貰い受けるよ」
微笑みを浮かべて目を細めてカヴァードを睨み付ける。カヴァードは動じることなく鼻で笑ってみせた。
「噂に違わぬ食えない男よ。その余裕が命取りにならないよう、せいぜい気を付けるんだな」
それだけ言うとカヴァードは身を翻し、馬を自陣に向けて進ませて行く。その重厚な背中に背負っているものをレグナッドは垣間見たような気がした。
「……さて、挨拶は終わりだ。本番と行こうか」
セリューノを促して皆が待つ場所まで戻る。と、その時南の方向から爆発音がし、黒煙がもうもうと吹き上げられた。サジュとリュゼが作戦通りに橋を破壊したようだ。これで目の前の敵に集中して全力で当たれる。
「皆、覚悟はいいか!? この戦いを乗り切れば帝国打倒が見えてくる! 行くぞ! 俺に続けェェェ!」
レグナッドの雄叫びと共に千余りの兵が怒涛のように敵陣に向かってなだれ込む。それに対抗するかのように敵陣からも人の津波が押し寄せる。
男たちの足音が地鳴りのように響き渡る。そして血が流れ、命の灯火は消える。その中で男たちは、光を掴もうともがくのだった。




