表と裏
フィズスは内心焦っていた。意気揚揚と大手を振って帝都を出発したものの、戦の準備が滞り、なかなか軍を進めることが出来ずにいた。イシュカ川の畔、帝都からほど近いアサナ砦の一室、カビ臭い籠った空気に満たされた部屋の椅子に腰掛け、彼は苛立ちを隠せない様子で貧乏ゆすりを続けている。
準備を妨げているものは他でもない、反帝国派の連中が暴動を起こしたのだ。このアサナ砦からそれほど遠くない地域でも燻っていた火種が爆弾に引火してしまった。しかもその勢いたるや筆舌に尽くし難く、帝国側も手を焼いている様子だ。
忙しく動き回る部下の姿を目で追うのに飽きると、彼は自分の手元にある決して上質とは言えない荒い目の紙に記された美しい字に視線を落とした。その内容はあまりにも簡潔なものだった。
反帝国勢力の本隊はハウルテッド城跡に陣を構える、とだけ書かれていた。事実上の宣戦布告である。大敵ミビヌク・レグナッドは小粋な真似をする男だ。自らがかつて忠誠を誓った地で死のうというのだから。しかし今のフィズスにはその茶番とも言える行為さえも笑える余裕がなかった。普段なら下らない、と鼻で笑うところだが、現状が現状なだけにその茶番に腹が立って仕方がなかった。相手にあるのは諦めか、余裕か。恐らく余裕であろう。奴はこの戦いに勝利することを疑っていないのではないか。嘲笑われているのはむしろこちらではないか、と。
憤る気持ちを抑えきれず、恐らくハウルテッド城跡から飛ばされたであろう鷹の足に括り付けられていた手紙を無造作に破き、放り捨てた。そして荒々しく立ち上がり、陰気な部屋を後にした。
彼は苛立ちを隠さずに部下を押し退けながら歩き続け、何やら机上の地図を指差して話し合う二人の男の元へと向かって行く。
「ツァラー将軍、カヴァード将軍、まだ準備は整わないのか!」
一人の禿げかかった男は体を跳ね上げて振り返り、しどろもどろしながら慌てていた。フィズスが反帝国勢力の討伐を名乗り出た際に、彼の隣で怯えていた将軍だ。もう一方の髭を生やした男は不意に名を呼ばれた事に驚く様子もなく、毅然とした表情で振り向く。
「これはフィズス王子。申し訳ございませんが、ご覧の通り未だ収拾の目処が立っておりません」
躊躇いもなく頭を下げてみせる壮年の男に怒りの眼差しを向け、フィズスは舌打ちをした。
「帝国一と謳われるカヴァード将軍が何を手間取っている! とっとと愚民どもを黙らせろ!」
カヴァードは顔を上げ、語気を荒げて言い放つフィズスを黒い瞳で見つめる。
「お焦りになっておいでで?」
核心を突かれたフィズスは心を見透かされた気分に陥る。今自分の前に佇んでいる男には物言わぬ荘厳さがあった。
歴戦の雄、シャラフ・カヴァードは厳格な軍人であった。現皇帝、カミュドラル・キドラの古くからの友人であり、彼を支え続けた影の英雄だ。セリューノが部隊長を勤めた危険粒子討伐部隊の総司令官であり、帝都の守護を命ぜられている。今回はツァラーと共にフィズスの補佐という形で討伐隊に参加している。実戦経験の無いフィズスを総大将に掲げているも、事実上軍を統制しているのはカヴァードである。机上に広げられた地図の横には細密に計算された作戦が上質な紙にびっしりと書かれていた。
「心中お察し致します。しかしどうかお気を確かにお持ち下さい。時間はかかりますが、この戦は確実に我々の勝利で幕を閉じます。しばしご辛抱を」
そう言うと彼は先程と寸分の狂いもなく頭を下げる。フィズスはその落ち着き払った態度が気に入らないのか、目尻をひくつかせながら黙っている。
「わ、私たちも懸命に策を講じている次第です……どうかご理解下さい」
二人のやり取りを見ていただけのツァラーがオドオドしながら口を開いた。
「早急に手立てを考えろ! さもなくば明日本隊を率いて奴らの討伐に向かう!」
そう吐き捨ててフィズスは踵を返した。その傲慢な後ろ姿を鋭い視線で見つめるカヴァードの表情が、僅かに曇った。
出来の悪い第二王子がアサナ砦に到着し、軍備を整えているという情報を得て、宣戦布告の手紙を飛ばし様子を伺う。彼の立てた仮説通りに事が運べば、戦功が喉から手が出るほど欲しい第二王子は周囲の反対を振り切り、万全でない状態で攻め入ってくるはずだ。そうなればこちらの勝機は増す。レグナッドは苔むした大きな岩に凭れかかり、青く広がる空を見上げた。
先日イジャルとディシェイを送り届けて戻って来たサジュの話からすれば、イジャルは相当危険な状態に陥っているようだ。長い間連れ添った戦友を欠き、大一番を迎えようとしている事に一抹の寂しさを覚えた。
とてもこれから戦が始まるようには思えない、平穏で暖かな風が不意に彼の艶やかな黒髪を撫ぜる。かつてまだ若く、ハウルテッド王国の仲間と共にこの大岩に背を預け、数多の言葉を交わした。血と汗を流しながら訓練に励み、時には笑い時には涙を流し、苦楽を共にしたあの仲間達はもう既にこの世にはいない。頬を撫ぜていった暖かい風は、ひょっとしたら懐かしき友が寄越したのかも知れない。
「レグナッドさん、ちょっと…」
柄にもなく感傷に浸っていると、背後から声をかけられる。端正な顔立ちの長髪の男が静かに佇んでいた。
「ああ、どうしたんだ? リュゼ」
大きな岩から体を起こし、髪を掻き分けながらリュゼに向き直る。神妙な面持ちでリュゼが口を開く。
「……これはあくまでも提案ですが、帝国軍の到来を待つのではなく、我々から攻め込んでみてはいかがかと思いまして」
そう言うと彼は道端に落ちていた木の枝を拾い上げ、地面に簡略な地図を描いていった。
「現在第二王子フィズス率いる討伐軍は帝都にほど近いアサナ砦を拠点としています。しかし一向に攻勢に転じようとしない。何か理由があると思って鷹を飛ばして探りを入れたところ、どうやらアサナ砦の南…イシュカ川の対岸にあるカルーア砦の周辺で大規模な反乱が勃発したようです」
地面に描かれたカルーア砦の位置を丸く囲む。レグナッドは静かにリュゼの話に耳を傾けている。
「そちらの反乱に多くの人員を割いているため、討伐軍の軍備が整っていない様子です。そこでこんなものはどうでしょう」
何やら懐から取り出したかと思うと、リュゼはそれをレグナッドに差し出した。キドラ帝国の紋章の入った上質紙に、いかにも文官が記したかのような文字が羅列されている。かなり手の込んだ偽の手紙だ。
「我々が反乱を利用し、カルーア砦の制圧を目論んでいる事をアサナ砦のフィズスの所へ送ります。慌てて増援に向かったところで川に架かる橋を落とす。その隙に…」
「アサナ砦を乗っ取る、か。悪くないな」
レグナッドはリュゼがアサナ砦の場所に付けたバツ印を見て不敵な笑みを浮かべる。
「ともすれば早めに動いた方がいいな。リュゼ、皆に知らせてくれ。すぐにアサナ砦に向けて出発だ」
「分かりました。鷹もすぐに飛ばします。あとはフィズスがセリューノさんほど聡明でない事を祈りましょうか」
突然の知らせだった。招集がかかったかと思えば、今すぐにアサナ砦へと出発するというのだ。セリューノとエリウッドはもちろん、レグナッドの突拍子もない言動には慣れきったサジュとドゥーハスも驚いた様子だった。
「この陽動作戦が成功すれば障壁は無くなるに等しい。最大の山場となるだろう、心してかかってくれ」
淡々と語る男の言葉に迷いは感じられない。飄々とした風貌からは想像できない大胆不敵な言動を、この男はやってのける。ことごとく想像の更に上を行くこの男には、世界はどのように見えているのか、セリューノには不思議でならなかった。
「しかし、そんなに上手く誘導出来るものなのか? もし仮に罠にかからなかったとしたら…」
エリウッドが不安げな声色で呟く。確かに罠にかかるとは限らない。見透かされて裏を読まれれば一巻の終わりだ。とんでもない大博打ということになる。
「心配ない。出来の悪い第二王子殿は功を欲して焦っているはずだ。頭に血が上っている今ならまんまと騙されてくれるさ」
「かーっはっは! ガキは戦場に出て来るなってこった! さあて、そうと決まりゃあとっとと出発と行こうぜ! 血が滾ってしょうがねえや!」
レグナッドの皮肉に賛同するかのようにドゥーハスが言ってみせる。
「ドゥーハス、少しは落ち着け。まだ戦いまでは時間がある。そんなに飛ばしてるとバテるぞ?」
ドゥーハスの肩を軽く叩きながらサジュが白い歯を見せて笑う。違いねえ、と大声で肯定するとまたも豪快に笑ってみせた。
「セリューノさん、エリウッドさん、かつての同胞と剣を交えることは心苦しいと思います。なるべく前線には赴かず、後方で…」
「心遣い感謝する」
リュゼの言葉を手で制止を促し、凛とした態度で彼と向き合う。
「しかし、我々はあなた方の同志です。真の平和を手にするためには自らの意思などは押し殺さなくてはならない。たとえ断腸の思いをしようとも、私は私という人格を殺す。あの男…レグナッドが目指す理想の実現のために」
張り詰めた糸のように緊張した声だった。リュゼはその燦然たる決意の言葉に耳を傾け、頷いた。エリウッドもまた、その決意をしっかりと汲み取り、剣の柄を強く握り締めた。
「よし、それでは彼の地へ向けて軍を進める。皆、武運を」
そう言ってレグナッドは自身の左胸を拳で軽く小突く。それに倣い、全員が同じ仕草をする。
戦いの幕が、今、上がろうとしていた。




