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虚ろなる英雄  作者: 春風
第二章
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渦の外

 けたたましく扉を叩く音に目を覚ます。まだ辺りも薄暗く、完全に夜が明け切っていないというのにも関わらず、扉を叩く音は止む事がない。それに、聞き慣れた声が微かに聞こえた気がした。彼女は寝ぼけ眼のまま、ふらふらとした足取りで工房を抜け、戸へ近づく。


「どちら様?」


「ルベリオ姉ちゃん、俺だ! ディシェイだ!」


 声からして相当慌てている様子だ。不思議に思いながらも鍵を開け、戸を開く。


「どうしたのディシェイ?……イジャル!」


 汗と泥にまみれたディシェイに担がれ、青白い顔をしたイジャルに視線が移った途端、彼女は思わず手で顔を覆った。ディシェイの背中に力感なく体を預けているイジャルはまるで死人のようだった。


「イジャルが足に矢を受けて怪我を! ルベリオ姉ちゃんの所でかくまってもらえってレグナッドに言われて…」


 肉体的にも精神的にも相当な疲労が溜まっていたのだろう。ディシェイはルベリオの元を訪ねられた事で安堵感を抱き、その目からは大粒の涙が零れ落ちた。ルベリオはディシェイの頬を伝う涙を指で払い、優しく撫でた。


「よく頑張ったわね、ディシェイ。さあ、彼をこっちに。奥の部屋に寝かせましょう」


 意識の無い人間は重い。華奢な体躯のルベリオにとって、イジャルは大きな鉛の塊のように感じた。しかし自分よりも小さな子供が長い道のりを孤独感と戦いながらここまでやってきたのだ。大人が負けてどうする。彼女は力一杯、かつイジャルに苦痛を与える事の無いように自室のベッドに寝かせた。


「イジャル、聞こえる?」


 語りかけるも彼は応えない。脂汗をかき、唇は真っ青になっている。そっと額に手を当てると物凄い高熱である事が分かった。傷口には一応の応急手当ては施されているようだ。


「お医者さんには見せたのね?」


 後ろで心配そうな表情をして見守るディシェイが頷く。


「とにかく目を離さないようにしなきゃ。ディシェイ、あなたは顔と体を拭いて向こうの部屋で少し寝なさい。お腹が空いていたらあるものを食べて。イジャルは私が見ておくから」


 彼の疲労も桁違いのものだろう。ルベリオは部屋の方向を指差して彼に言った。分かった、と言ってディシェイは部屋を出て行く。ルベリオは一旦その場を離れ、工房に転がっていたバケツを乱暴に掴み、蛇口を捻って水を溜める。辺りを見回して、ちょうど椅子の背もたれに掛かっていた布を引っ掴み、足早に部屋へと戻った。


 ほんの数日前までは元気だった彼がこんなにも弱り切ってしまうなどとは思いも寄らなかった。しかし現実はそうなのだ。今自分にできる事を必死にやるしかない。ルベリオは氷のように冷たい水に布を浸し、強く絞ってからイジャルの顔を優しく拭いた。








 アルコはユニファールの部屋にいた。香りの良い湯気が立ち上る紅茶をカップに注ぎながら彼女の表情をちらりと伺う。セリューノの投獄、脱獄劇からというものの、兄を思ってか、常に不安げな暗い面立ちをしている。


 幸い、アルコが矢を射った事は見咎められる事なく、皇帝には退屈だったユニファールが弓の射撃を見たいと彼に懇願した、と説明した。さらにユニファールは剣術のみでなく弓術を習う事も皇帝に告げた。狩猟に精通している皇帝は、自身の娘が弓に興味を示した事がとても喜ばしい事であったようで、満足げにそれを認めた。


 か細い繊細な指に出来た、弦を引き絞った跡を摩りながら、ユニファールは幾度となくため息をついた。


「さあお嬢様、どうぞ」


 そう言ってティーカップを載せた皿をユニファールの前に丁寧に置く。ありがとう、と心なしか表情が明るくなったユニファールは香しい紅茶の香りを楽しみ、一口すする。


「……お兄様は大丈夫かしら?」


 やや間を置いてからユニファールがポツリと零した。絶対の信頼を寄せるアルコだからこそ胸の内を吐露する事が出来るのだ。


 彼女の父親である皇帝がセリューノ、及び反帝国勢力を本格的に討伐するために、ユニファールの腹違いの兄であるフィズスを派遣した事を彼女は知らない。もちろん知らなくて良い事だ。セリューノを取り込んだ反帝国勢力は、一度は帝国軍を追い払う事に成功したものの、反帝国勢力の勝利は帝国軍側に付け入る隙があったからではないかとアルコは思っていた。しかし皇帝が油断する事なく、万全の軍を派遣すれば、圧倒的勢力差を覆す事は非常に困難である。今回のようにはいかないだろう。


 反帝国勢力は、もはや風前の灯のように思えた。だがそんな事をユニファールの前で口にすることはできない。表情を崩さずに、アルコは口を開く。


「セリューノ様はお強い。また、必ず会えるでしょう」


 精一杯だった。これ以上言うと、自身の心も押し潰されそうになる。何も出来ない苛立ちと、ユニファールの不憫さを思うと彼女と目を合わせる事も出来ない。


「そうね……きっと、また会える」


 質の良い木で作られた椅子に腰掛けた可憐な少女は、老年の影がうっすらと見えてきた執事長に笑みを見せる。その笑みは、どこか哀しげだった。








「あの男から連絡はあったか?」


 太く、強さを感じさせる声がそう言った。


「は。各地で反帝国勢力派の者どもが蜂起し、現地の兵との小競り合いが生じているようです。管轄外の状況は未確認です」


 声の主は、もう一人の人物の様子を伺うように間を置いてから、再び口を開く。


「…早いうちに潰さなければ厄介かと存じます」


「分かっておる」


 つい先日献上されたばかりの、著名な職人に織らせた煌びやかな服に袖を通した皇帝はため息を付きながら玉座に腰掛けた。大振りな赤い宝玉があしらわれた指輪をはめた人差し指で肘掛けをトントンと叩く。


「……何か、嫌な予感がしてな」


「と、申し上げますと?」


 無骨な出で立ちをした側近の将軍が尋ねる。


「先刻、まじない師を呼び付けて占わせた。……パーチェルチだ、将軍。お前にはこの意味が分かるか?」


 皇帝に尋ねられるも、将軍には占いの知識は無かった。古来より占いは戦争を起こす際に重要視されていた。しかし戦術や武器が進歩した現代では、神の意志を尋ねるような事はしなくなった。だが皇帝は敬虔なエザフォス教徒であり、かつてハウルテッドとの戦争の際もまじない師の占いの結果を遵守し、吉と出れば行動を起こし、凶と出れば吉と出れるまで待ち続けた。その結果ハウルテッドを攻略出来たのだと皇帝は強く信じている。


「パーチェルチはゼロか百だ。上向きに出ればこの上ない幸運に味方される。だが、下向きに出れば、三千世界全ての悪運がその身に降りかかると言われている。……今回は下向きだ」


 赤と青の光彩が美しく、平和の象徴として広く知られているパーチェルチだが、占いの世界では特別な存在である。その体色の赤は幸運を示し、青は逆に厄災を示す。吉と凶、そのどちらをも備えた、非常に不安定なものの象徴であるとされる。


 皇帝の脳裏には、あの綺麗で小さな鳥が浮かんだ。今は亡き妻が愛した鳥を。


「しかし、双方の戦力差は比べ物になりません。フィズス王子がご心配かと存じますが、ツァラー将軍が補佐にいる限り安心かと」


「…そうだな、考え過ぎかも知れん。占いも祓わせた、そこまで不安に思う必要もなかろう」


 皇帝は自らに言い聞かせるように、静かに、小さな声で言った。

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