剣と薔薇の血脈
まるで水を飲むかのように酒を飲み干す男たちの笑い声が四方から聞こえる。この上なく上機嫌な男たちを傍目に、レグナッドとセリューノは人目のない、寂しげな部屋の壁に肩を並べてもたれかかっていた。レグナッドは砂埃とカビの混じった、一言では言い表せないじめっとした臭気が漂うなか、大きく息を吸って、わざとらしく声に出して息を吐く。
「これでお前も立派な謀反者だな」
セリューノはいたずらな笑みを浮かべた隣の男の顔をちらりと一瞥し、小さくため息をつく。
「未だに信じられない。……しかし、実際には脱獄し、かつての仲間に剣を突き立てた」
セリューノは自分の掌を見つめる。水で洗い流しても、その手に染み付いた血の臭いは簡単には消えるものではない。あのぬるりとした、独特の感触が生々しく蘇る。赤い血がべたりとこびりついたような感覚に捉われ、振り払うように力強く拳を握り締める。
「……だが迷いは晴れた。私は自分自身の、そして母の望んだ平和を手にする為に戦う。それが、祖国に背反する事になろうとも」
皇帝の耳に入った情報は、彼の機嫌を悪くさせるには十分過ぎるものだった。第一王子にあたるセリューノの脱獄に加え、彼を奪還するために派遣した部隊の敗走。なにひとつ喜ばしい報告は耳を通らない。豪勢な玉座に腰掛けた彼は憤怒の表情を隠しきれないでいた。
「ええい! たかが賊の集まりごときに何を手間取っておるのだ!」
肘掛を拳で叩き、やりどころのない怒りを撒き散らす。彼が座る玉座の先で怯え切った将軍が跪き頭を垂れている。その隣で将軍と同じように跪いていた、豪奢な装身具を身に付けた青年が顔を上げる。
「僭越ながら申し上げます」
背筋を伸ばし、嫌味な笑みを浮かべるその青年の黒い瞳が皇帝を見つめる。
「なんだ、フィズス」
皇帝に名を呼ばれたフィズスは立ち上がり一歩前に歩み出て、口を開く。
「父上は考えが甘すぎます。兄上を生かしたまま取り戻し、処刑をする。二度手間ではないでしょうか?」
黒い髪をわざとらしく掻き分け、さらに彼は続ける。
「兄上は…いや、セリューノはもはや祖国を裏切った反逆者です。本格的に軍を配備し、反帝国勢力ごとまとめて討伐する方が効率的です」
父によく似た第二王子フィズスは、年齢には不釣り合いな不気味な笑みを浮かべてみせる。その表情からは、腹違いの兄であるセリューノへの妬みや憎悪、蔑みの念まで感じられる。彼はさらに一歩前へ歩み出て、鋭い視線を皇帝に向けて跪き、頭を下げる。
「私に軍を率いる権限をお与え下さい。必ずや父上の期待に応えてみせます!」
眼前で跪く少年の頭をじっと見つめ、皇帝は考えを巡らせる。フィズスはセリューノ程の功績や名声は無いものの、武芸に秀でている。セリューノが寝返った今、跡継ぎはフィズスが第一候補となる。だが、若さも相俟って、戦争の仕方は右も左も分からない、ずぶの素人である。戦に送り出し、死なれでもすればたまったものではない。しかし皇帝としても、彼に箔付けをし、次期皇帝に相応しい人物にまで成長してもらわなければ困るのだ。
皇帝は玉座から立ち上がり、フィズスの後ろで跪く将軍に向けて口を開く。
「将軍、すぐさま軍を編成せよ。反逆者どもを甘く見ておった、此度は万全を期して臨むのだ。総大将はフィズスを任命する。お前には息子の補佐を命ずる。フィズスよ」
視線をフィズスへと移す。彼は名を呼ばれ、顔を上げた。
「戦は生ぬるいものではない。心してかかれ。此度の戦を勝利で飾ればお前の名は帝国内のみならず、全土に轟くぞ」
フィズスは皇帝の言葉を聞き、身を震わせたように見えた。昂ぶる気持ちを必死に抑えるも、その目は野心に取り憑かれているように輝いていた。
「ありがたき幸せ! 必ずや反逆者どもを黙らせて見せましょう!」
右手を左の胸に当て、忠誠を示すと、彼は勢いよく立ち上がり、将軍を従わせて謁見の間を飛び出して行った。一抹の不安を抱えながらも、皇帝は扉が閉まるまでその姿を見送っていた。
恐れていた“若き銀獅子”の異名を持つセリューノが味方に加わり、さらにレグナッド達がキドラ帝国との戦いに勝利を収めた事は風のような早さでエザフォス地方に知れ渡った。リュゼの知らせによれば、各地で燻っていた反帝国勢力派の人々が次々と立ち上がっているという。知らせを受けたレグナッドは不敵な笑みを浮かべる。
「余程お前が恐ろしかったみたいだな。だが、これで思うように事を運べる」
薄暗い天幕の中、地図が広げられた机の上でナイフを弄ぶ。セリューノは時折発する、この男の掴み所のない、不可思議な余韻を残す言葉に惹かれていた。暖かいような冷たいような、明るいようで暗くもあるこの男には、人を惹きつけてやまない何かがあった。
「私を取り込んだ理由は、それだったんだな」
「ひとつは、な」
なんとも歯切れの悪い、消化不良を起こしそうな言い方だった。間髪入れずにレグナッドが続ける。
「お前の言いたい事は分かる。ひとつは、という事は『もうひとつはなんなのか』だろう? それはまだ教えられない。いずれ、時が来たら、な。それよりも……」
そう言ってレグナッドは机に広げられた地図に視線を落とした。
「セリューノ、恐らくお前の父上は態勢を整えて再度攻撃を仕掛けるだろうな?」
「次は前回のような生半可な派遣ではないだろう。本格的に、我々を消し去るために、大軍が押し寄せるはずだ」
負けたまま引き下がるような父ではない。あの父の事だ、完全なる勝利を得るために多くの兵士を送り込むだろう。キドラ帝国の総兵力はおおよそ十万を超える。帝都や主要な防衛対象に割り当てる兵士を差し引いても、少なく見積もっても三万は遠征に送り込める。まともにぶつかって敵う相手ではない。
「対してこちらはせいぜい集まっても……言いたくなくなるような数ってわけだ。冷静に考えれば自殺行為だな」
平気な顔をしてのんびりと言ってみせる。彼に焦りというものはないのだろうか。セリューノは身を乗り出してレグナッドをまっすぐに見つめる。
「争わなければならないのか?」
くるくると回していたナイフがピタリと止まる。レグナッドの黒い瞳がセリューノをじっと睨みつける。
「……言っている事の意味が分からない」
「殺し合うのではなく、話し合って和平を結ぶということは不可能なのか? とても勝ち目があるとは思えないし、このままでは多くの人の命が失われてしまう」
セリューノの言うとおりだった。多くの人の命を犠牲にしてまで勝ち目がない争いをする事はなんの意味もない。それよりも、話し合い、犠牲を最小限に食い止めるべきだ、という方が理性的である。なるほど、と小さく呟き、レグナッドは背もたれに体を預ける。
「しかしセリューノ、お前の父上が話し合いに応じると思うか?」
「不可能ではないはすだ。それに、そちらの方が人的被害も最小限に…」
「甘いな」
セリューノの言葉を遮るようにレグナッドが言い放つ。
「不可能ではないだろうが、可能性は低い。いいか、話し合いってのは対等な立場にある人間と人間の間でのみ成立するものだ。いくら良い意見を言おうとも、立場が下の者ならば、立場が上の者に発言を無効にされる事だってある。これを今の俺たちに置き換えてみろ」
彼の言うように立場の事を考えるならば、キドラ帝国の方が勢力的にも圧倒的に上位に位置する。反帝国勢力は、下だ。
「つまりそういう事だ。この無謀とも言える戦を吹っかけるのは、其れ相応の見返りが得られる。対等な立場にさえ持って行けば、お前の言う和平を持ちかける。そこまで行けば、俺たちの…」
勝ちだ。言わずとも理解できた。ならば勝ち続けなければならない。たったひとつの敗北も許されない。時間もない、人手も足りない、勝ち目すらない。この不利な状況の中でも、目の前に座る男の態度は何ひとつ変わらない。
「さあ、こうしてはいられない。俺たちはハウルテッド城跡地に陣を構える。その事をリュゼや部下が各地へ伝えている。……いよいよ始まるぜ、一世一代の大博打がな」
手にしたナイフを地図に向けて投げる。木に鉄の刃が食い込んだ音を立ててナイフが突き刺さる。鈍く光る刃が刺さった場所には、キドラ帝国の帝都、キドレリアの文字が記されていた。
彼は常に出来の良い兄と比較されて育ってきた。周囲の人間は文武に渡り優れた才能を見せつける兄を褒め称え、次期皇帝も安泰である、などという言葉を包み隠さずに口にした。それが面白くなかった。自身も兄に負けず劣らずの剣の腕前を持っている。ただ兄の方が容姿端麗で民衆にも受けが良い。それが気に入らなかった。
兄は自分にとって妬みの対象でしかなかった。腹違いの妹ユニファールは優しく接してくれるものの、どちらかといえばやはり兄贔屓だ。誰からも期待されず、褒められず。その環境が彼を歪んだ性格にしてしまったのであろうか。
だが今回の一連の出来事で、兄に対する民衆の態度は一変した。第二王子である自分に期待を寄せ、裏切り者である兄を打ち倒す事を望んでいる。これほどまでに快感を覚えた事はあっただろうか。いや、無いと言える。暗闇に閉ざされ続けた自分の未来に、やっと一筋の光が差し込んだのだ。あとは、それを自分の力で手繰り寄せるのみだ。フィズスはかつてなく希望に満ち溢れていた。
軍の編成が滞りなく進み、いよいよ総大将として、兄を討つために帝都を発つ。新品の甲冑を身に纏い、馬を進ませて兵士達の前に躍り出る。
「これより我々は帝国に楯突く反逆者どもを成敗するためかの地へ向かう! キドラ帝国の誇りを胸に、逆らう者を切り捨てよ! 正義は我らと共にある!」
三千の兵士が怒号のような雄叫びを上げ、剣を突き上げる。




