廃村の誓い
その村は酷く廃れていた。十七年前の戦火に巻き込まれて以来、この地を訪れるのは浮浪者か賊か、はたまた犯罪者か。いずれにせよまともな人間は一切近寄る事のない、忘れ去られた過去の遺物だ。
その村に場違いなほど煌々と燃え盛る松明の光が、浅い闇の中に揺れている。レグナッドはふと天を仰ぐ。濃紺の空に浮かぶ巨大な光の物体に目を細める。限りなく真円に近づいたその光の球体は、雨上がりの大地を妖しく照らす。この村は比較的標高の高い場所にあるため、エザフォス地方を見渡す事ができる。
南西に目を向ければ、こんもりと盛り上がった“エザフォスのへそ”が目に入る。その“エザフォスのへそ”の手前を通るイシュカ川沿いに、かつてレグナッドが騎士として忠誠を誓ったハウルテッド王国の王都が存在した。今では瓦礫の山となり、この村と同様、ろくでもない人間しか訪れない廃墟と化した。
小高く積もった石の山にしか見えないそれが、かつてのレグナッドにとっては全てだった。あの瓦礫の下には、彼が失った全てが眠っている。
憂いに満ちた眼差しでそれを見つめていたレグナッドの耳に、何やら遠くで騒ぎ立てる声が聞こえてきた。座っていた岩場から腰を上げ、その方向に目を向ける。東から、四頭の馬に乗った集団がこちらに向かってくるのがうっすらと見える。彼は体躯に似合わぬ身軽な動作で岩場を下ってゆく。
「おおレグナッド、リュゼたちが帰ってきたみたいだぞ」
期待と不安が入り混じったようなざわめきを立てる男たちの中にいたサジュがレグナッドに歩み寄ってくる。レグナッドは頷き、次第に大きくなるその影を待った。
「…レグナッドさん!」
先頭を走っている男が声を上げる。どうやらリュゼのようだ。しかし声色がおかしい。焦りというか、緊迫感が伝わってくる。レグナッドの第六感が警鐘を鳴らす。馬を足早に進め、レグナッドに駆け寄ってくる。男たちは歓喜の声を上げるが、リュゼの背中に弱々しく体を預けたイジャルを目にして静まり返る。
「レグナッドさん、イジャルさんが矢傷を負いました! 可能な限り処置を施しましたが……」
うなだれるイジャルをちらりと一瞥し、脂汗の滲んだリュゼが言った。レグナッドは険しい表情で馬に駆け寄り、青白い顔をしたイジャルを抱きかかえる。
「イジャル、大丈夫か?」
イジャルは閉じた目を開けて、声にならない程小さな声で返事をする。かなり危険な状態にある事は明瞭だ。レグナッドはすぐに彼を横に寝かし、二重三重に巻かれた布を解いて傷の具合を調べた。ドゥーハスもイジャルの事が心配なようで、今にも泣き出しそうな顔をしながらレグナッドの横にしゃがみ込む。矢が深々と突き刺さった痕跡があり、肉がかなりえぐられている。リュゼが懸命の治療を行ったのだろう、化膿はしていないが、迅速に適切な治療を受けなければ生死に関わる。
歯を食いしばっているレグナッドの所に、リュゼに次いで馬を降りたディシェイが走り寄ってくる。しかし傷口のあまりの痛々しさに口を抑え、小さな嗚咽を漏らす。
「……くそ、なんてこった!」
様子を見ていたサジュは悪態をつき、近くに置いてあった馬具を蹴り飛ばしている。仲間を失うかもしれないという不安と恐怖に苛まれる彼らのもとに、最後に到着したセリューノとエリウッドが歩み寄る。悲痛な面立ちで横たわるイジャルを見つめる。
「彼のおかげで我々は命を落とさずに済んだ。……本当に、感謝してもしきれない…」
居た堪れない気持ちになったセリューノはそう言って目を逸らしそうになるが、思いとどまった。向き合わなければならない。それが、身代わりとなって自身を守ってくれた彼に対しての敬意だ。エリウッドも溢れ出しそうな涙を拭い、彼を見つめる。思えば、彼がいなければ、今頃どうなっていただろう。セリューノの首と体は永遠に離れ離れになっていたかもしれないし、自身もどうなっていたか分からない。背筋を冷たい何かが這うような感覚がした。
「…何を、偉そうに! てめえら帝国のやったことだろうが!」
感情を抑えきれず、ドゥーハスがセリューノに掴みかかる。慌ててリュゼやサジュが止めようとするが、ドゥーハスの木の幹のように太い腕はセリューノの首根っこに伸びていた。しかしセリューノは抵抗する様子もなく、伏し目がちだ。
「やめろドゥーハス、離してやれ」
イジャルの頭に手を当てながらレグナッドが言う。血管を浮かび上がらせる程頭に血が上ったドゥーハスだったが、悔しそうな表情で乱暴に手を離し、そっぽを向いてしまった。
「……一刻も早く医者に診せなければ。ディシェイ」
不意に名を呼ばれた少年は驚いた様子でレグナッドに向き直る。レグナッドはその真っ直ぐな視線を少年に投げかけた。
「イジャルをロッコスまで連れて行って医者に診せろ」
そう言いながらレグナッドは立ち上がり、彼の小さな体を引き寄せる。
「…その後はこいつを連れてペルダンへ帰れ。ルベリオの所で安静にさせろ」
ほかの誰にも聞かれぬように、彼にしか聞こえない小さな声で囁く。レグナッドの意図が分からないが、急を要するこの場面、いちいち聞き返す余裕はなかった。彼は不器用に頷く。
「おい、小僧に任せていいのかよ!?」
「おつかいを頼めるのはこいつしかいない。俺たちにはやる事がある。立ち止まったり振り向いたりしている暇はない」
ドゥーハスが尋ねるが、レグナッドは即座に言い返す。さらに言い返そうとするドゥーハスをリュゼが止める。歯を食いしばって自身を押し殺し、引き下がる。
「サジュ、あんたも着いていってやってほしい。ロッコスまで送り届けたらすぐ戻って来てくれ」
レグナッドの真剣な眼差しに確かに頷き、ロッコスへ発つ準備に取り掛かる。レグナッドは再度しゃがみ、イジャルの顔を覗き込む。気配を感じたのか、瞼を重たげに上げたイジャルの虚ろな目がレグナッドを見つめる。
「あんたと…離れたくない……」
わがままを言う子供のような言葉だった。その切なる願いに、レグナッドは微笑みながら首を降った。
「俺も離れたくないさ。…だが、お前を失うのはもっと嫌だ」
大きく、厚い掌で彼の頭をそっと撫でる。青白い顔に際立つ赤い目には、うっすらと涙が浮かんでいる。
「しっかりと傷を治して、また一緒に戦おう」
そう言ってレグナッドは屈託のない笑みを浮かべた。イジャルはそれを見て微笑み、目を閉じながら小さく頷いた。その瞼から、一筋の涙が零れ落ちる。
サジュとディシェイがイジャルを連れて廃村を発ち、残ったレグナッド、リュゼ、ドゥーハス、エリウッド、そしてセリューノは天幕の中の円卓を囲うようにして座っていた。重々しい雰囲気が漂うなか、レグナッドが静寂を破る。
「また会えたな」
セリューノに向けて発せられた言葉だった。彼はその碧い目をレグナッドに向ける。ドゥーハスやリュゼ、エリウッドは疑問符を浮かべている。
「犠牲を払ってまでも、なぜ私を助けたのか聞きたい」
社交辞令などはどうでも良い、といった調子でセリューノが尋ねる。レグナッドは鼻で笑う。
「相変わらず、食えない男だな」
「その言葉そのまま返させてもらおう」
かつてロッコスで彼が言ったように、セリューノが言い放つ。二人の視線は交わったまま、再び静寂が訪れる。彼らを見守るように、三人は黙り込んでいる。
「随分と機嫌が悪いようだが。まあ、それはどうでもいい。冥土の土産は持ったかい?」
再度静寂を破り、レグナッドが口を開く。セリューノは目を閉じ、未だに信じられない、といったように頭を抱える。
「…帝国史の裏に、あんな事実があったとは思いもよらなかった。信じてきたものが足元から崩されたんだ、気分は良くない」
セリューノが何の事を言っているのか、エリウッドには少し理解出来た。彼が単身キドレリアへ向かった理由。それは帝国史の真偽を確かめるためだったのだろう。
「なるほど。それで、どうなんだ? 真実を知り、その上でかつてお前が口にした、正義というものがどれだけ曖昧なものだったのか…理解したのか?」
レグナッドは席を立ち、円卓を回るように歩き始める。更に続ける。
「そしてお前に何ができるのか、どうすれば良いのか。……何故俺が仲間の犠牲を払ってまでもお前をここに連れて来させたのか」
セリューノの脇に立ち、机に手を乗せて寄りかかる。レグナッドは俯いた金髪の青年を見つめながら、しばし口を止める。
「単刀直入に言おう」
手を机から離し、セリューノの真後ろに回る。セリューノを含め、皆が彼の一言一句を逃すまいと聞き入っている。反対側の脇に立ち、先ほどと同じように机に寄りかかる。
「仲間になれ。お前に残された最後の道だ」
「貴様何を…!」
驚愕したようにエリウッドが立ち上がり抗議をしようとするが、セリューノが手で制止を促す。ドゥーハスも口を大きく開け、驚きを隠せない様子だ。リュゼも彼程ではないが、意表を突かれた表情をしている。
「やはり食えない男だ」
小さくため息をついてセリューノが口を開く。
「私は貴様らの仲間を殺し、捕らえ、敵対する男だ。憎くないのか?」
「過去にどのような事があろうとも、捉われ続けていては未来を掴めない。俺は、帝国を打倒するという目標の為にはどんな手段を講じることも厭わない。……それが俺の正義だ」
微睡みなく口にするレグナッドの表情は真剣そのものだった。悲壮な決意を胸に誓った十七年前から、微塵も変わらない、たったひとつの正義だった。
「……エリウッド」
顔を上げ、碧い眼差しを混乱した様子のエリウッドに向ける。
「私は帝国こそ正義と信じて日々を過ごしてきた。…しかし、その正義が曖昧で脆いものだという事を知った」
セリューノは立ち上がり、エリウッドに歩み寄る。そして彼の肩に手を置き、続ける。
「父上は誤った正義を選択してしまった。力こそが正義、勝者こそが正義だと仰った。私は、それを正したい。……そして、ここにいる彼らはそれを成そうとしている」
一旦間を置き、再び口を開こうとした途端、エリウッドは立ち上がり、セリューノと対峙する。鋭い視線をセリューノに浴びせたかと思うと、急に片膝をつき、右手を左の胸に当ててみせる。
「セリューノ様の行くところ、それが私の行くところです!」
並々ならぬ決意を感じ取ったセリューノは微笑み、ありがとう、と言ってレグナッドに向き直る。
「誓ってほしい。あなたの正義が、力や暴力による支配でないということを。…平和を望んでいると言うことを」
「……誓おう。我が魂の尊厳に誓い、平和を望む」
レグナッドは彼に小さく会釈をしてみせる。セリューノは、自分が後戻りできない所にまで来たことを悟った。
「私も決意を示そう。……我が名はセリューノ・ソルバルド。偽りの正義を正すため、母の名を借りん。我が魂、あなた方の魂と共にある」
セリューノは自身に言い聞かせるように母の姓を名乗る。平和を愛し、平和を望んで亡くなっていった、母の姓を。




