血と決別の逃避行
三人はそれぞれ身支度を整え、先程イジャルとエリウッドが通った道を戻る。もっとも、エリウッドは麻袋を被せられていたため、道を覚えていないが。
セリューノの顔は帝都はおろかキドラ帝国の勢力内、更にはその他の地域にも広まっているため、知らぬ者の方が少ないだろう。そうした理由から、セリューノはエリウッドが着ていたボロ切れのような粗悪な服を着て、エリウッドは看守から奪った、少し大きめの服に袖を通す。そしてイジャルとエリウッドが罪人に変装したセリューノを城から逃がす、という作戦だ。
厩を通り過ぎ、彼らから見て左手に彫刻の施された門があり、その門をくぐった先に唯一の脱出路である石橋がアーチを描いてかかっている。ここさえ乗り切れば、あとは急ぎリュゼ達と合流し、用意されているであろう馬に跨って逃げるのみだ。緊張感と昂揚感が入り混じり、鼓動がいやに早くなる。
遠くから代わり映えのない日常生活を送る庶民の雑踏が聞こえてくる。石橋を踏み締め、一歩一歩確かな足取りで進んでゆく。途中貴族や、皇帝への献上品を乗せた馬車の御者が不信がって三人を睨んだが、声を掛けられるような事はなかった。
順調に石橋を渡り終え、最後の難関に差し掛かった。数人の衛兵が何やら話し込んでいるらしく、まだこちらの存在に気付いていないようだ。イジャルはエリウッドに目配せし、顔を伏せるように促した。そこで衛兵のうちの一人が三人に気付き、当然怪しむ。
「おい、その罪人は何だ?」
一人の衛兵が近づいてきて、麻袋を被ったセリューノを顎で示しながら尋ねる。
「どうやら冤罪だったみたいでな、釈放の許可が降りたんだ」
イジャルがそう言うと、ふうん、と興味なさげに衛兵は薄汚れた服をきたセリューノを見やる。
「なんだって顔を隠してやがる?」
「彼はこれから社会生活に復帰しなければならない。こんな公衆の面前で顔を晒せば、復帰にも支障をきたしてしまうだろう」
道を行き交う人々を見渡しながらイジャルが言う。彼の言う通り、衛兵に連れられた薄汚い男を物珍しそうに一瞥してゆく人も見受けられる。衛兵は納得したのか、鼻を鳴らした。
「まあどうだっていいや、とっとと連れてきな」
顎をしゃくって通るように促す。三人難関を突破し、リュゼとディシェイが待つ西門へと向かう。
「ん? あいつは…」
一人の衛兵が何かに気付く。歩き去る際にちらっと見えた顔に覚えがあった。忌々しい記憶でしかないが、鮮烈な印象を残していた。僅かに見える栗毛色の髪も背丈も、あの男に酷似していた。彼は石橋でエリウッドと対峙し、恐怖のあまり失禁してしまった隊長らしき男だった。
「おい貴様! 待て!」
隊長らしき男は駆け出し、丈の合っていない服をきた看守の肩を掴む。振り向かせようとするが、看守はそれを拒む。
「この野郎、こっちを向け!」
渾身の力で引っ張り、看守を引き倒す。深々と被られていた彼の帽子が吹き飛び、エリウッドの顔が露わになる。その顔を見て衛兵は剣を引き抜く。
「増援を呼べ! ヴェナトルだ!」
そう離れていない場所でその様子を眺めていた衛兵の目の色が変わり、慌ただしく動き始めた。エリウッドは倒された事で頭を打ち付け、眩暈がしていた。薄っすらと見えた光る凶刃に反応し、横に転がって躱そうとするが、一瞬の判断が遅れて右耳が裂かれる。
「死ねえぇ!」
怒り狂った男の形相が更なる斬撃を繰り返そうとしたが、後ろから蹴りの衝撃を受けて前のめりに吹き飛び、堀に落ちてしまう。舌打ちをしたイジャルがエリウッドを引き起こす。
「立てるか?」
「…っ! すまない…」
エリウッドに肩を貸しつつ腰に差した短剣を抜き払い、セリューノの手首に縛られた縄を一太刀で切り落とす。乱暴に麻袋を頭から引き剥がしながら、セリューノは事態を把握する。
「エリウッド!」
赤い血が止めどなく流れる彼の頬を抑える。独特のぬるりとした感触がする。エリウッドはその彼の手を力強く握り、荒い息をしながら首を振る。
「心配に及びません、浅手です」
エリウッドは無理矢理笑顔を作ってみせた。三人の背後でセリューノの顔を確認したのだろう、衛兵が大声を発し、声高に脱獄という単語を叫んでいる。イジャルは悪態をつき、セリューノと共にエリウッドを走らせる。
リュゼ達との合流場所は、帝都の西門、ここから直線に一キロメートル程いったところだ。しかしエリウッドは痛手を負い、セリューノが脱獄した事も知られてしまった。容易に辿り着けそうにない。後ろからは大声を上げて数人の衛兵が追いかけてきているようだ。道ゆく人々は悲鳴を上げ、道端に避難する。それでも人通りは多く、思うように進めない。
イジャルは空いた左手でポーチから何やら導火線の付いた球状の物を取り出した。
「エリウッドを頼む」
一旦エリウッドをセリューノに任せ、先に行かせる。イジャルは続けて火打石を取り出し、慣れた手つきで導火線に着火する。小さな火花が徐々に玉の本体に近づいたところで後ろへ放り投げる。小さな炸裂音がしたかと思うと、もうもうと灰色の煙が立ち上る。以前、“目と耳”の奇襲を受けた際にレグナッドが使用した煙玉だ。万が一に備えて持参したのが吉と出た。
「ええい、どけ! 邪魔だ! うわっ」
衛兵と庶民は視界を奪われた事により混乱し、喚き立てながら走り回っている。人が転んだり、ぶつかったりして倒れる音が聞こえる。それを確認してイジャルは身を翻し、二人のあとを追った。
息を荒げながらも必死に逃げる二人を目にし、巡回していた帝国兵が斬りかかってくる。セリューノはエリウッドを庇うように彼を抱えたまま飛び退き、倒れ込む。躱しきれず、右肩にパックリと開いた傷口から血が流れる。痛みに顔を歪めながらも、立ち上がろうとするが、帝国兵は次の斬撃の姿勢を取っていた。
しかし彼が振りかぶった瞬間に隼のような速さで影が飛び出してきて、鈍い音と共に帝国兵が崩れ落ちる。二人に遅れて後ろを走るイジャルが矢を射ったようだ。セリューノは素早くエリウッド引き起こし、また走り出す。
西門までもうすぐだった。三人の姿を確認したリュゼとディシェイが忙しく馬を並べている。
「走れぇー!」
焦燥感に駆られたディシェイが思わず叫ぶ。呼吸の乱れた三人を煽るように手を振る。背後から庶民の狂乱した悲鳴と衛兵が駆けてくる地鳴りが聞こえる。
不意に右足が動かなくなる。そしてイジャルは次第に痛みを感じ、その場に倒れ込む。彼の右足の太腿に矢が突き刺さっており、じわりと血が滲んでいる。
「イジャル!」
突然倒れたイジャルを目にし、弾き出されたようにディシェイが駆け出した。背後で何が起こっているか分からないセリューノとエリウッドは自分たちを通り過ぎてゆく少年を目で追い、イジャルが負傷した事を知る。
「二人とも! 立ち止まってはいけません、早く!」
あと数歩のところに立つリュゼが叫ぶ。そして彼は素早い動作で矢を番え、射る。遠くで先頭を走る衛兵が呻き声を上げて倒れる。しかし、衛兵の波は止まる事がない。リュゼは第二、第三の矢を放つ。
「イジャル、大丈夫か!?」
返事をせず痛みに悶絶し、冷や汗をかいたイジャルを抱きかかえ、一心不乱に走る。ディシェイのすぐ横を、矢が威嚇するように音を立てて通り過ぎる。彼は体格が良いとは言えない。細身とはいえ、イジャルほどの男を抱えて走るのは決して楽ではないはずだが、生死を問われるこの一瞬。彼は万力の如き力でイジャルを抱えて馬に乗って待つ仲間の元へ駆け寄る。
「大義でしたディシェイ! さあイジャルさんを私に!」
馬上で腕を差し伸ばしたリュゼにイジャルを託す。それを見てセリューノとエリウッドは馬の腹を蹴る。遅れてリュゼも馬を走らせる。ディシェイも急ぎ馬によじ登って跨る。すかさず馬の腹を蹴り、四人の後を追う。
「大至急馬を寄越せ! 逃がすな、追え!」
走り去る馬の姿を大勢の衛兵が走って追うが、当然馬の速度についていけるわけがなく、彼らは四頭の馬に乗った反逆者を見失った。




