獅子を解き放つために
雨に煙る皇帝の城の裏、堀の外側の林にイジャルとエリウッドは身を潜めていた。周囲は徐々に明るくなり、視界が開けてきた。背の低い草に滴る露が肌に触れて冷たい。だが彼らはじっと前を見据え、時を待つ。
彼らが身を隠す場所からユニファールの部屋まではおよそ百メートル前後だろう。しかも標的は二階にあるため、上に向けて射らなければならない。長弓など射程距離の長いものがあれば良いが、あいにく手元にはごく普通の弓しかない。ものすごい速さでエリウッドに襲いかかった暗殺者を射抜いてみせたイジャルの腕を持ってしても、極めて困難な射撃になることは間違いない。
更に射るタイミングだが、これも限定されてしまう。朝の静けさの中で矢を射ると、風切り音で衛兵に勘付かれてしまう可能性もある。エリウッドの情報が正しければ、城に隣接された教会の鐘が一時間ごとに鳴るらしい。その瞬間なら風切り音を多少緩和出来る。
そして視界の悪さ。これはこちらの居場所を悟られないという有利な面もあるが、如何せん視認が難しい。どちらかと言えば不利な面の方が射撃に与える影響は大きいだろう。ほぼ無風というのは好都合だが、いずれにせよ、イジャルの放つ一矢に全てが託された。
静寂の中、神経を研ぎ澄ますイジャル。鐘は三度鳴る。時間にして約十五秒といったところだろう。その時は一秒ずつゆっくり、確実に迫る。時を追うごとに、その赤い瞳が鋭さを増す。
先端に鳥黐を付けた矢を手に、じっと標的を見据えている。万が一に備え、鏃の代わりに先の尖っていない鉛を付け、更にその上に鳥黐を重ねる。上手くいけば、バルコニーの壁に張り付き、危害も最小限に収まるはずだ。
エリウッドは手にした懐中時計をちらりと見る。あと三十秒程で鐘が鳴る。
「…三十秒前だ」
緊張した声色でエリウッドが言う。それを聞いて、イジャルは射撃の姿勢を作った。ユニファールの部屋のバルコニーは豆粒のように小さく感じる。正確な射撃には姿勢が重要な要素となる。筋肉は完全に停止しない。その微妙なズレが大きな誤差を招く。射撃の姿勢を固定するには、骨で支える事が重要である。レグナッドから仕込まれた一切無駄のない姿勢で矢を番えるイジャル。エリウッドとは対照的にその目に躊躇や不安の影は見受けられない。
イジャルの頬を一筋の水滴が伝う。まるで植物のように静止したイジャルが、鐘の音を待つ。一秒ずつ時は確実に進む。エリウッドは自分の鼓動が高鳴るのが分かった。息苦しい静寂の時間が続く。
そして、鐘が鳴る。
エリウッドは固唾を飲んで見守っている。心臓がこれまでにないくらい鼓動の周期を早める。しかしイジャルは矢を射ようとしない。
余韻が残るなか、二度目の鐘が鳴る。
鐘の音と重なるように、鳥の鳴き声に似た細く高い音が発せられる。イジャルが矢を放ったのだ。その軌道を目を凝らして見守る。美しい放物線を描きながら矢は飛んでゆく。時間にして三秒から四秒といったところだろうか。エリウッドにはその時間が永遠のものだと思えるくらいに長く感じた。三度目の鐘が鳴ると同時に、矢がバルコニーの壁、窓のすぐ横に突き刺さる。
「よ、よし! 完璧だ!」
目の前で起きたことが信じられないといった様子のエリウッドが歓喜の声を上げる。イジャルは鼻から大きく息を吸い込み、口から吐き出し、言う。
「あとは王女がその手紙に気付いて、こちらに返事を返してくれればいいが……」
そうだ、まだ終わりではない。ユニファールがあの手紙を受け取り、何らかの形で返事を返さない限りは何も起きない。あとは運に任せるのみである。しかしエリウッドは確信していた。このイジャルの放った矢が、運を手繰り寄せた事を。いずれにしても彼らに出来る事は、身を潜め、じっと返事を待つのみである。
未だに信じられなかった。兄が父を殺そうとし、謀反を企んでいたなどとは。彼女は兄の処刑を知り、父へ考え直すように直訴しようとした。しかし父は彼女と会おうとせず、セリューノとの面会も禁じた。
ユニファールは泣き明かして腫れ上がった目から滴る涙を拭い、耳を澄ました。鐘の音が聞こえる。もう日付が変わってから五度も聞いた音だ。兄の処刑が決まって以来、満足に眠れないでいた。食事も喉を通らず、気分はどんよりと沈んでいた。
静けさのなか響き渡る鐘の音に耳を傾けつつも、今こうしている間も兄は苦しんでいる事を思い、涙を零す。どれだけ泣いても、涙は枯れる事がない。
妙な音に顔を上げる。鳥が木の幹をつつくような、コツ、という音が聞こえた。屋根裏に鼠でもいるのだろうか。耳を澄ますが、鐘の余韻が聞こえるだけで先程の音は聞こえない。暫くそのまま様子を伺うが、何事もない。ユニファールは先程の音をもう一度頭の中で再生させる。天井というより、壁の方から聞こえたような気になり、立ち上がって壁に近付く。見たところ何もない、ただの壁だ。不思議に思い窓の外を覗くが、薄く霧のかかった堀が見えるだけだ。
そういえばどうもじめじめしていて息苦しいので、外の空気を吸えば気分が紛れるかもしれないと思い、彼女は窓を開けてバルコニーに歩み出た。すると、壁に何かが突き刺さっているようだ。瞬時にそれが矢だと理解し、開きかけた口を手で覆う。命を狙われているのかと不安になり辺りを見回すが、当然人影は見えない。
矢に目を戻すと、ある事に気付いた。ひとつは矢の先端に、何やら粘り気のあるものが張り付けられていること。ふたつめは矢に手紙が括り付けられていること。ユニファールは不思議に思い、恐る恐る壁から矢を引き抜いた。
粘り気のあるものが少しくっついてきたものの、その矢には鏃が無いことは見て取れる。先端が丸くなっていたのだ。矢をバルコニーの机に置いて、手紙を解いて目を落とす。
ーーーユニファール様、セリューノ様が監禁されている牢獄の場所を教えて下さい。私はセリューノ様を助け出したい。どうか協力していただきたい。私はあなたのお部屋に面した堀の向こう側に身を潜めています。どうにかお返事を下さい。ユニファール様に危険が及びます、くれぐれもご慎重に エリウッド・ヴェナトルーーー
手紙の最後にはヴェナトル家の家紋が捺印がされていた。エリウッドとは幼い頃から兄と共に遊んだ仲だ。その彼がこの場にいて、兄を救おうとしている。
一筋の希望の光が見えた。脱獄に加担したとなれば、罪は逃れられない。しかしこのまま兄を見殺しにする事など、それ以上の苦痛だった。ユニファールは心を決め、バルコニーから立ち去った。
手紙を書き終えたユニファールは悩んでいた。この手紙を、いかにしてエリウッドに渡すかという問題に直面していた。彼は矢を使い、堀の外から彼女の部屋へと連絡をした。しかし彼女は弓など射った事は無い。剣術ではなく弓術を学んでおくべきだったと後悔しつつも、その頭は考える事をやめなかった。
今は父の許可なしに堀から外へ出る事も禁じられている。ならば手紙を瓶に詰めて堀の向こう側へ渡せないだろうか。これは難しいだろう。堀には流れがないし、衛兵に怪しまれて見つかろうものなら、そこで全てが終わってしまう。
八方塞がりだった。自分の力ではどうしても手紙を堀の外に運ぶ事が出来ない。彼女は思考を巡らす。他に手はないか。
「……そうだわ、それがあった!」
何か思い付いたらしく、一目散に部屋を飛び出して行き、廊下を清掃していた使用人に駆け寄る。
「じいはどこに?」
「執事長ですか? まだお部屋でお休みになっているのではないでしょうか?」
息を切らして尋ねる彼女を不思議に見つめながらも、使用人は応えた。その言葉を聞き、また廊下を駆けてゆく。彼女が向かう先は使用人達を取り仕切る執事長、アルコ・セルヴィシャフの部屋だ。
彼はキドラ公爵家の頃から使用人として働き、幼い頃からセリューノとユニファールは“じい”と呼んで慕ってきた。アルコはとても温和で、セリューノ達が悪戯をして父に怒られようとも必ず擁護してくれたし、どんな時でも二人の味方だった。
まだ日も登りきらない早朝だというのに、ユニファールは躊躇いなくアルコの部屋の扉を叩く。着替え途中だったのだろうか、正装にタイをしていないアルコが何事かといった表情で扉を開ける。
「これはこれはお嬢様、朝早くにいかがされましたかな?」
側頭部から後頭部に髪を残し、禿げかけた頭のアルコが優しい笑みを浮かべて扉を開けた。ユニファールは安堵感に包まれ、涙を流しながらアルコに抱きついた。
「ああ、アルコ! どうかお願い、私を、お兄様を助けて!」
しゃくりあげながら彼女が発した言葉を聞き、胸が締め付けられる気持ちになりながらも、アルコは彼女の頭を撫でた。彼も腰を抜かすほどの衝撃を受けた。幼い頃から優秀で、かつ、純粋な心を併せ持ったセリューノが皇帝の暗殺を企て、反逆罪で捕らえられたなど、悪い夢にしか思えなかった。眼鏡越しに白く濁りつつある瞳を泣きじゃくる彼女に向け、アルコが口を開く。
「お嬢様、私めも兄上様の事は辛く思っております。私めも到底、信じられませぬ」
「アルコ、これを……」
そう言うユニファールの手には紙が握られている。受け取り、目を凝らして文章を追う。エリウッド。セリューノの幼馴染で、セリューノと共に危険粒子掃討部隊の第一線で活躍する彼がここに来てセリューノを脱獄させようとしている。アルコは彼女を見やる。怯えるような潤んだ瞳で懇願するようにアルコを見つめている。
しかし事が事だ。これはれっきとした反逆罪にあたる。今なら説得し、手紙を消してしまえば彼女を罪から救う事が出来る。もしこの事に協力してしまえば、自身はおろか、彼女までもが罪に問われてしまう。眉間に皺を寄せ、難しい表情で考え込む。
「アルコ、お願いよ……。私はお兄様を見殺しになんてしたくない。あなたしか頼れないの」
どれだけ泣いたらこれほどまでに瞼が腫れるだろうか。彼女の心は茨に締め付けられているかのように悲鳴を上げている。しかしその瞳に躊躇はなく、決意を示した強い意思が感じられた。アルコは彼女のその真っ直ぐな眼差しに迷いを払拭され、心を決めた。
「……まったく、あなた方ご兄妹は世話がやけますなあ」
そう言って彼は、鼻の下に生えた髭に隠された口を少し上げてみせる。ユニファールは大粒の涙を零しながら笑顔をみせ、再びアルコに抱きついた。
「お嬢様、時間がありません。ささ、お部屋にお戻りください」
一度室内に戻りタイと扉のすぐ近くに飾られていた弓を手に取り、ユニファールを促すようにしてその場を後にする。
ユニファールの部屋の窓から外を覗く。堀の外までは百メートルといったところだろうか。狙いを付けず、距離だけを出そうと思えばそれほど難しい距離ではない。しかし、エリウッドは寸分の狂いもなく、彼女の部屋を射抜いたのだ。相当な腕だと感心しながらアルコは弓を構える。
若い頃は現在の皇帝、カミュドラル・キドラの付き添いとして、よく狩猟に出かけたものである。彼も認める程の射撃の腕を持ち、兵として戦争に参加する事を勧められたが、アルコはそれを断ってきた。自分には他人の命を奪う事は出来ない。温和なアルコらしい考えだった。以来、彼は使用人として働き、キドラ公爵家を支えてきた。その彼が、謀反を手助けする一矢を放とうとしている。複雑な心境だった。
絞られた弦が指に食い込む。懐かしい感覚だった。弦を絞る腕の筋肉も、随分と弱々しくなったものだ。しかし、彼女の切なる願いを叶えるため、全身全霊をかけて矢を射る。
放たれた矢は放物線を描き、みるみる小さくなってゆく。ユニファールはバルコニーに躍り出て、その軌跡を目で追う。時間にして五秒程度だろうか、矢は木の幹に突き刺さり、その役目を終えた。
指の痛みを感じながらも、アルコの心は晴れ渡っていた。若き芽を摘み取らず、その芽が花を咲かせる事を願いながら、ユニファールに歩み寄る。
「……あとはエリウッド殿に託しましょう」
ユニファールは彼に向き直り、大きく頷いてみせる。アルコも優しい、包み込むような笑顔を浮かべ、彼女をバルコニーから離れさせた。




