王子を救わんと欲すれば、まず王女を射よ
巡回する帝国兵の僅かな隙をつき、イジャルは軽やかな身のこなしで裏路地を風のように吹き抜ける。反帝国勢力と名乗ったのなら、この帝都の街並みは知らないだろうし、足を踏み入れた事すらないはずだ。しかし彼は難解に入り組んだ路地をいとも簡単に駆け抜けてしまう。その卓越した状況判断能力と身のこなしから、彼が只者ではない事は容易に伺える。彼の背中を見失わないよう、また、帝国兵に見つからないように細心の注意を払う。
やがて二人は西区の北よりにある、封鎖された下水道の前へとやってきた。帝都での生活排水が人工の川を経て海へと流されてゆく。不快な匂いが鼻を突くなか、イジャルはその錆びきった鉄格子をゆっくりと開けた。鍵でもしてあるものかと思いきや、どうぞと言わんばかりに鉄格子は開いた。エリウッドに目配せしてイジャルは中へと進む。
より一層臭気が強まり、耐えられず鼻を摘まんで口で呼吸をしながら、エリウッドはイジャルの後をついてゆく。薄暗くこもった生暖かい空気と、同じような道と壁。既にエリウッドは方向感覚を失っていた。
程なくして錆び付いた鉄の扉が見えてきた。ひっそりと佇むその扉の前に立ち二度叩く。中から解錠された音が聞こえ、扉が開く。
「お帰りなさいイジャルさん。…おや、その方は?」
中性的で端正な顔立ちをした長髪の男性がエリウッドを見てイジャルに尋ねる。
「エリウッド・ヴェナトルというらしい。セリューノ・キドラの部下だ」
相手が反帝国勢力と思うと自ずと警戒してしまうが、この長髪の男性にはまるで威嚇する気が無いのか、脅威を感じない。むしろ和やかな雰囲気さえする。
「…して、何故彼がここに?」
「それは中に入ってからにしよう」
そう言うとイジャルは長髪の男性の横を通って部屋に入ってしまった。取り残されたエリウッドはどうして良いか分からず、長髪の男性に促されるまで呆然と立ち尽くしていた。
壁に置かれた大きめの蝋燭に照らされた薄暗い室内にはもう一人の男、というより少年が椅子に腰掛けており、異常なまでにエリウッドを注視していた。その視線を多少気にしつつも長髪の男性の隣に腰掛ける。対面するように、反対側にはイジャルが頬杖を突いて座っている。
「さて、イジャルさん。話を聞かせてもらいましょうか」
長髪の男性がイジャルに話しかける。イジャルはエリウッドが命を狙われていた事、謎の暗殺者の事、そして彼もセリューノを助け出そうとしている事を打ち明けた。
「なるほど、そのような事が……。しかし、謎を追っている時間はありません。まずはセリューノ・キドラを助け出す事を優先しましょう」
一頻り状況を整理し、長髪の男性、話の中から伺うにリュゼという名の男が言う。イジャルと、彼の隣に座る少年も同意のようだ。少年には幾ばくか、緊張と不安の色が見て取れる。
「とは言ったものの、助け出す方法も、それどころか彼がどこに閉じ込められているかも分かりません。一体どうしたものか」
リュゼは落胆したように目を伏せる。誰もが口を開かぬまま沈黙が続く中、イジャルが口を開く。
「エリウッド、セリューノ・キドラが閉じ込められている場所に見当はつかないか?」
エリウッドは城内について、あまり詳しくなかった。彼自身、城に出入りできるものの、監獄を訪れた事は一度も無い。しかし話に聞いたことはある。
「詳しくは分からないが、監獄は地下にあると聞いた。しかし場所までは……待てよ」
何か思いついたように俯いていた顔を上げる。あの方なら監獄を知っているかもしれない。
「ユニファール様なら監獄の場所をご存知かもしれない」
「ユニファール? キドラ帝国の王女ですね。して、何故彼女が?」
さすが多岐に渡り情報を網羅しているだけのことはある。リュゼの問いにエリウッドは応える。
「ユニファール様はセリューノ様を大変慕っていらっしゃる。セリューノ様がお帰りになったとすれば、必ずお会いになったはずだ」
なるほど、とリュゼも考え込むような仕草をしてみせる。イジャルも何かに思いを馳せているようだ。少年は話の流れを理解しようと懸命に内容を整理している。エリウッドは先程、イジャルが彼をディシェイと呼んでいた事を思い出す。
「えと、でもさ、そのユニファールって姫様が牢屋の位置を知っててもさ、どうやって聞くんだ?」
ディシェイの言う通りだ。いくらユニファールが監獄の場所を知っていようとも、彼女と接触しない限り、場所を聞き出すのは不可能だ。前進したかのように思ったが、まだ道は果てしなく長い。一同はまた黙り込む。
「あ〜あ、鳥みたいに飛べたら城へも簡単に行けるのになあ」
少年が考えに行き詰まったのか、ぽつりと呟いた。確かに、鳥のように空を飛べれば城へ行くのは容易い。しかし幻想小説でもない限り、人が空を飛ぶ事は不可能だろう。
「そのユニファールという王女、城外に出るような事は無いのか?」
イジャルがエリウッドに向けて問いかける。エリウッドは腕を組み、必死に頭を捻る。
「ほとんど堀の中で過ごされているはずだ。祭などでは時折顔を見せるようだが…」
都合良く祭が催されるなどという事も、あまりにも非現実的である。しかしここでエリウッドはある事に気付く。鳥のように飛べたら。堀の中で過ごす。この二つの要素から、答えが導き出される。
「……矢だ」
彼が呟いた言葉の真意が理解できず、他の三人は不思議そうな顔をしている。しかし、エリウッドは対照的に確信に満ちた眼差しで訴えかける。
「矢だ! 矢に手紙を括り付けて、ユニファール様のお部屋に向けて射るんだ!」
「ちょっと待った。なかなか良い案だが問題がある。王女の部屋に矢を射ったらどうなると思う? 今騒動を起こすのはマズい。仮に騒ぎにならず王女に手紙が渡るとしよう。どうやって返事を返す? まさか王女が弓を射る訳ではないだろうな」
イジャルがエリウッドに向けて言い放つ。リュゼも同様の意見のようで、エリウッドの次の言葉を待っている。
「ユニファール様の部屋は堀に面した二階にある。ちょうど石橋とは正反対、奥には林があって人目も少ない。それに、ユニファール様はセリューノ様を慕っていらっしゃる。兄を差し出すような真似はしないはずだ」
三人ともエリウッドの考えを黙って聞いている。更に続ける。
「返事だが…これはユニファール様に任せるしかない」
「確実性がない」
イジャルがきっぱりと言い切る。
「ではどうする! 他に方法があるのか?」
強い口調で彼は言い返す。二人が互いに睨み合い、少年はその光景に怯えている。
「やめなさい二人とも、いがみ合っていても解決しません。それこそ時間の無駄というものです」
静かながら確かな口調でリュゼが二人を戒める。少年はほっとしたような表情になり、胸を撫で下ろした。
「イジャルさん、私はエリウッドさんの意見に賛成です。あなたの弓の腕前なら彼女の部屋に矢を打ち込めるでしょうし、少なくともこちらの意図は伝わります」
リュゼがイジャルとエリウッドの顔を交互に見ながら言う。更に続ける。
「あとはエリウッドさんの言う通り、彼女に任せるしかないですが、お話を伺うに、彼女はお兄様をかなり慕っているようです。それが本当なら、どうにかしてこちらへ情報を伝えようとしてくれるはずです」
リュゼが口にすると殊更真実味が湧いてくる。イジャルは喉をくぐもらせ、納得したかのように頷いた。
「決まりましたね。時間がありません、早速作業に移りましょう」
すでに日付は変わっている。明日、満月の晩に反逆者の処刑が行われる。時間は刻一刻と過ぎてゆく。




