運命を孕む者たち
湿った陰気な空気が立ち込める暗い物置の中で、男はうめき声をあげながら目を覚ます。体からは脂汗がにじみ出ていた。
夢を見ていた。自分の人生を変えた、あの悲痛な日からいったい幾年経っただろうか。そんな細かい事は覚えていない。過ぎ去った時間などに意味はない。重要ではないのだ。しかしあの時の恐怖、屈辱、絶望。負の感情だけは忘れはしない。その負の感情こそが己を突き動かす、唯一の存在だと男は知っている。
優に一メートル九十センチはあるであろう大柄な男は、その体躯に似合わぬ軽やかな身のこなしで起き上がると、微かな光が射し込む戸口へと向かった。
人の手が加えられないようになって久しい、今にも倒れそうな物置から出ると街を行き交う人々の雑踏が遠くから聞こえてくる。うららかな陽光を浴び、少し目を細めながら横を見やると、男までとはいかぬものの、長身の青年が壁にもたれ掛かっている。
「相変わらず早いな」
「あなたが遅すぎるんですよ」
まだあどけなさが微かに残る細身の青年は、男の方を見向きもせずにそう応える。その言葉にはどことなく感情というものが伝わってこない響きがあった。
「毎日うなされるにも関わらず、目は覚めない。俺も歳をとったもんだな」
服についた土埃を払いながら男は言う。その間も青年は真っ直ぐに前だけを見つめ、男の言葉を聞いていないかのようにも見受けられる。
「……何かおかしいのか?」
問いかけるも、青年は前を向いたままだ。しかしその表情は曇っている。
「今日はやけに人の足音が忙しい。今日は祭でも何でもない、ただの平凡な日だ」
その言葉を聞いて、男は表情を強張らせた。思い当たる節があるのだ。
「……また誰か捕まったのか?」
「分からない。この間は、ウォルデン達が捕まったと聞いたが」
青年の言葉には抑揚はなく、その口は淡々と言葉を吐き出すためにあるように思える。
「俺は少し様子を見て来るよ。あんたは目立つからな。荷物をまとめといてくれ」
そう言うと青年は滑らかな足取りで歩き始めた。土埃ひとつ立てず、雑踏が聞こえる方向へ溶け込むように消えて行った。男はその後ろ姿が見えなくなると、また陰気な空気が立ち込める物置に身を滑らせ、荷造りに取り掛かった。
彼らがこのサベムの街を訪れたのは、つい二日前である。訪れる、というのが正しい表現かは分からない。ここサベムは南北交易の中継地点であり、多くの行商人が行き交う。大通りに広がる市場には、異国情緒溢れる諸々の品が所狭しと並んでいる。もっとも、彼らは行商人ではないし、この街を見物するために来た訳ではなかった。あるものから逃げて、ここに辿り着いたのだ。ここ数ヶ月は以前にも増して、気が抜けない日々が続いていた。
ある程度荷物をまとめ終わった頃にに、先程の青年が戸口をくぐって物置の中に入ってきた。
「やはりまた捕まったみたいだ。しかもこの街のすぐ近く、南東のムルガの街みたいだ」
思った通り、と言ったところか。昔から悪い事だけは想像した通りに実現してしまうな、と自嘲気味の笑みを浮かべて男はひとつ、ため息をついた。
「連中も躍起になっているな。ここら一帯は、かなり帝国の管轄から離れている。ここまで一気に遠征を仕掛けてくるとはな…」
『帝国』というのは、現在彼らがいるサベムの街より遥か東に位置する、キドラ帝国の事を指す。東方一帯を手中に収め、その勢力の拡大を目論み、各地へ遠征を繰り返している。
「とにかく、ここは離れた方がよさそうだな」
そう続けて男は荷物を両手で持ち上げると、片方を青年に放った。青年もそれを受け取るとひとつ頷き、踵を返した。青年が戸口から出るのに続いて男も外へと出る。短い間だったが寝泊まりをしたオンボロの物置に別れを告げると、ふたりは雑踏の中に消えて行った。
遠くの建物の影から見つめる視線には気づかずに。
謁見の間へと続く長い通路。脇に飾られた、厳粛な空気を醸し出す豪勢な調度品を一瞥しながら、ひとりの青年がその真ん中を歩いてゆく。
父の収集癖、浪費癖には感心させられる、と心の中で皮肉を呟きながらも足を止めずに進み続ける。程なくして、これまた煌びやかな装飾が施された謁見の間への扉が現れた。幾分か余計に重く作られた扉を開き、中へと歩み入る。
「皇帝カミュドラル・キドラ様、危険粒子掃討部隊西域部隊長、セリューノ・キドラ、参上致しました」
青年は扉の前ですぐさま片膝をつき、右手を左の胸に当てる、皇帝に謁見する際の正式な作法で礼をした。
その青年の前方には玉座に座した、皇帝カミュドラル・キドラの姿があった。立派な髭を蓄えた皇帝の黒い瞳が、眼前の金髪の青年に向けられる。
「父に会いに来たというのに随分とかしこまった物言いをするものだな、セリューノ」
太く逞しさを感じる声に青年は応えずに、僅かに頭を下げただけだった。皇帝は面白くなさそうに鼻をならし、背もたれに体を預けた。
「まあよい。お前のその生真面目さは嫌いではない。さてセリューノ、わざわざお前を遠征先から呼び戻したのは他でもない。重要人物の目撃情報が耳に入ったものでな。おい」
すぐ傍に立っていた側近のひとりを呼び付け、きめの細かい上等な紙を手渡す。それを受け取った側近は、セリューノ・キドラと名乗った青年の元へと歩み寄る。
「偵察に向かった“目と耳”がつい先刻鷹を飛ばして来てな。昨日西方のサベムの街を出て北へ向かったそうだ」
側近から手渡された紙を手に取り、黒いインクで書かれた文字に目を走らせる。
ーーーハウルテッド王国騎士団の生き残り、ミビヌク・レグナッドとその仲間を発見したりーーー
ミビヌク・レグナッド。今から十七年前、当時はまだ公国だったキドラの軍勢がハウルテッド王国に攻め入った。当時のハウルテッド王国の騎士団に所属していた騎士。王国は壊滅するも運良く離脱し、生存。王国壊滅後は各地を流転し、勃発した数多の反乱を指揮したとされる男。帝国管轄内では、最重要反逆人のリストに名を連ねる大物だ。
「今回の情報は“目と耳”から寄せられたということもあり、かなり信憑性が高い。今後領地内で反乱が起きる事は避けたいということはお前にも分かるだろう。帝国からより離れた場所に潜伏しているうちに! 反乱を企てる前に! 早々に潰しておきたいのだ!」
皇帝の語気が強まる。それ程までに、このレグナッドという男には悩まされているのだ。
「幸いにも、奴はお前の管轄内である西域にいる。西域部隊の部隊長に就いてからお前は多くの反乱を鎮め、多くの反逆者を捕らえた。その功績がまやかしでない事を証明してもらいたいのだ」
先程までの強い語気とは打って変わって、語りかけるような口調で紙に目を落としたままの青年に言った。数秒の間を開けて青年は顔を上げ、その碧い瞳を皇帝に移した。
「ありがたき幸せ。この御勅命、我が名誉をかけて承りましょう」
最初にしてみせたように、青年は片膝をついたまま右手を左の胸の前に持ってきた。
「任せたぞ、セリューノ・キドラ。我が愛する息子よ」
青年は小さく会釈をし、すっと立ち上がって踵を返した。そしてまた重い豪華な扉を開けてその場をあとにした。