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イヴの灯  作者: 徳次郎
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【第2夜】秘密の部屋

家になんて帰りたくない。秘密の隠れ家を持つ貴子。その無人のボロアパートに、ある日一人の男が迷い込んで来た。貴子を暖かく包んでくれる彼には妻子が在ることを、彼女は知っていた。イヴの夜に彼女が燈した灯とは……ちょっとダークなクリスマス。

 貴子は古びた畳一面にストーブの灯油をぶちまけて広げた。

 黒ずんだ畳がみるみる濡れていくと、狭い部屋の中には灯油の臭いがたち込めて、頭がくらくらした。

 先ほどまで降っていた外の雨は止んでいた。

 厚い雲の隙間からは、蒼い三日月が微かに顔を覗かせていた。


…………………………………………

……………………

 少女には秘密の隠れ家があった。

 誰もいないボロアパートの空き家。

 西武線の線路の直ぐ脇に在るこのアパートは、何時からか判らないがもうずっと前から誰も住んではいない。

 彼女が初めて西武線の電車の窓から見たのが何年前なのかは覚えていないが、その時既に人が住んでいる様子は無かった気がする。

 敷地は雑草が伸び放題で、幾つかの部屋のドアは壊れて半分外れかかったりして、窓ガラスもあちこち割れている。

 彼女はここに、週5日は立ち寄り、ただ床に寝転んで時間を費やす。

 1階の右から二番目の部屋。全部で10部屋ある中で、ここだけが窓もドアも壊れていなかった。もちろん、柱は黒々と半分腐ったようで、畳はぼろぼろで、茶褐色に変色している。

 近くのゴミ集積場に出されていた小さなカーペットを拾って来て、彼女はそこに敷いた。床の全部には満たないが、ささくれ立った中央の畳を隠すのには充分だった。

 彼女は家に帰るのが嫌だった。

 父は何処かに女を作りほとんど帰っては来ないし、母は、何かと付き合いが多く出歩くばかりで、家の事を何もしない。

 寒々としたあの家にいるくらいなら、このボロアパートの方が居心地が良かった。

 どこに行っても、一人には変わり無いのだから……

 ある日の夕方、彼女が何時ものようにこの部屋に立ち寄ると、知らない男が一人、ゴロリと床に寝そべってカーペットを占領していた。

 襟の角が鋭角で、高そうなダークグレーのスーツを着ていた。

「オジサン。そこ、あたしの場所なんだけど」

 本当はオジサンと呼ぶほどの歳でもなく、それほどにくたびれた顔でもない。髪の毛は耳が隠れるほどで、さらさらとツヤのあるマロンブラウンだった。

「あぁぁ、ごめん。つい横になったら寝ちゃって」

 男はそう言って起き上がると、白い歯を見せて笑った。

「寒くないの?ストーブつければよかったのに」

 彼女は男の傍に屈み込んで言った。

「えっ、このストーブ使えるのかい」

「あたしが拾って来たのよ。重かったんだから」

 男は笑って「でも、灯油はどこから?」

「それは、聞かない方がいいわね」

 そう言って、彼女も笑った。

「ここはキミの隠れ家かい?」

「そんなところ」

 彼女は、ストーブに火を入れた。

 小さな部屋は、あっという間に暖かな炎の温もりに包まれた。

「キミは何時からここに?」

「半年くらい前かな」

 彼女は鞄からお菓子を取り出して「あなたはどうしてこんな所に?」

「前にこの辺を営業で回った事があってね。ここが気になっていて、今日、ぶらっと来ちまった。って感じかな」

 彼は彼女が差し出したポッキーを手に取りながら言った。

「オジサン、サラリーマン?」

「あ、ああ。まぁね。企業戦士ってやつさ」

「ふぅぅん。なんか、大変そう」

「ま、金を稼ぐってのは大変さ」

 彼は優しく微笑んで「キミは?高校生?」

「見て判るでしょ」

 彼女は悪戯っぽい笑顔を返して「あたし、ハグミ。ハグって呼んで。本名は聞かないでね」

 ハグの着ている制服は、見れば誰でも判る名門女子高の制服だった。

「じゃぁ、俺はトウジとでも呼んでくれよ」

 ハグはプッと吹き出して笑った。

「オジサン、コテコテのエヴァ世代ってやつでしょ」

 ハグは笑いを押し殺しながら「あたしの名前、レイの方がよかった?」

 トウジは少しすねた笑いを浮かべて「じゃぁハグってのは?」

「知らないの?」

 ハグはポッキーを咥えて「やっぱりオジサンだね」

 窓から差し込む茜色の陽射しが、二人の長い影を作り出していた。




 彼は、毎週火曜と木曜日の夕方、このボロアパートへ来た。

 あたしは、火曜と木曜日のこの部屋が、何時もよりも暖かく感じるようになって、それはあまりにも心地よく、いつもこころを覆っていた鉄の鎧を一枚ずつ剥ぎ取るようにして彼にさらしていった。

 こころを覆う鎧がなくなると、今度は身体を纏うものを脱ぎ捨て、裸を彼にさらしていた。

 それほどに、彼は、あたしの荒んでいた心と身体を優しく包んでくれたのだ。

「ねぇ、観覧車」

「観覧車?」

「観覧車に乗ってみたい」

「何処の?」

「何処でもいい。おっきな観覧車……」

 彼は、ただ優しく微笑むだけだった。




 今年のクリスマス・イヴは日曜日。

 彼はどうあってもここへは来られないだろう。

 貴子は知っていた。

 彼が無造作に脱いだ上着の内ポケットから落ちた定期入れの中に、奥さんと子供の笑顔があった事を。

 トウジとは、彼の小さな子供の名前だった。

 指輪はしていなかった。でも、裸の彼の首に掛かったネックチェーンには、プラチナリングが輝いていた。

 それでも彼女はじっとしていられなかった。

 無駄だと知りながら、彼女は彼が利用している駅へ向かった。ただ、そうしたかっただけで、別に彼に会おうと思ったわけではない。

 この日の夜、彼の近くで、同じ町の空気を吸いたかったのだ。

 ただ、それだけだった。

 駅のロータリーでは、奏でるクリスマスソングに紛れて、ケーキの叩き売りをやっている声が響き渡っていた。

 鉛のように重く低い夜空からは、雪ではなく小雨がぱらついていた。街路灯とロータリーを行き交う車のランプが、冷たい雨に滲んで、溶けかけのキャンディーのように朧に輝いていた。

 ケーキ屋の隣にあるフライドチキンの店から、見覚えのある姿が出てきた。

 まさか、彼の姿に逢えるとは思っても見なかった。

 貴子は一瞬前に踏み出した足を止め、とっさに駅の大きな庇の柱に身を隠した。

 彼の笑顔が、一緒にいる誰かに向けられていたからだ。

 直ぐ後ろからは、小さな子供と手を繋いだ小柄な女性が出てきた。3人は絶え間ない笑顔で何かを話しながら、幸せと言うオーラに包まれていた。

 彼の奥さんであろう小さな彼女は、写真では判らなかったが、その背格好の雰囲気が貴子に似ていた。

 彼は、結婚前の清純な彼女の姿と、貴子の瑞々しい白い身体を、心の中で照らし合わせていたのかもしれない。

 あたしって、バカだ……

 改札口から溢れ出てきた人波が、その先の家族を掻き消して、あっという間に彼女からは見えなくなった。

 糸のような細い雨は次第に強さを増して、路面に映る街の灯が雨音に揺れて、キャンドルライトのように彼女の心を静かに照らし出していた。


………………

……………………………


 彼女は、ハグミという架空の名前をその場に脱ぎ捨てて、100円ライターを握り締めた。

 どうせ、一緒に観覧車になんて乗れっこないんだ……

 棒状にねじった古新聞に火を着けると、それを灯油で湿った床に放り投げた。

 放たれた炎は、少しの間その場でメラメラと燃え留まったが、まるで魔法が解けたかのように一気に床に広がった。

 乾燥した木造二階建てのボロアパートは、さっきまでの小雨などものともせずに、あっという間に荒れ狂うような烈火の輝きに呑み込まれた。

 貴子は燃え上がる真っ赤な火炎を背に、狭い路地を歩き出していた。

 次第に近づくサイレンの音が、夜気に鳴り響いていた。

 寒々と冷え切った空からは、炎で舞い上がった無数の小さな紅い火の粉が、雪のように降りそそいで闇に溶けていった。

「メリークリスマス……」

 貴子は、降りそそぐ小さなイヴの灯を見つめて呟いた。



    END



次回【第3話】だん吉のイヴ

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