7.帰還
「――我が質問にわかる範囲で答えて過ごせば良い。質問をするからには我が傍に暫くは居てもらうが、長くて3ヶ月だ」
まだ名も知らず、魔力の波動は感じられぬが得体も知れない小娘。
提示したのは、問答の相手になれという誰にでも出来るもの。
誰にでも出来るが、ガレリウドにしてみれば、貴重かつ目的を果たせるかに関わる重要な問答の相手。
「それ、だけで……宜しいのですか?」
「二言はない。――条件を、呑むなら顔をあげよ」
言葉をかけると、娘は間を置いてから顔を隠す袖が下がり、目元だけを晒した。
髪と同じ漆黒の瞳は、怯えと哀しみに満ちて潤み、肌は赤く染まっている。
化粧である白肌が涙の筋痕で、上げさせた顔は崩れていて、ガレリウドは思わず顔を見てみたいと欲を出して上げさせたことを後悔した。
娘の方も、ばつが悪いと思ったのか――実際は恥ずかしさに耐え切れなくて――また袖で隠してしまった。
「手始めに名を聞こう」
咳払いを一つ零し、ガレリウドは改めて質問を娘に投げかけた。
「……香子、と申します」
カシ。
聞きなれない、響きの名だ。
だが、短く覚えやすいと思えば、長く噛みそうな名よりも良い。
「では、香子。良いというまで、目を閉じておけ」
香子と名乗った娘が、袖を掴む手に力が込められているのを見届けると、ガレリウドは香子を抱き上げた。
気を失っていない分、先ほどよりは重みはないが、だがやはり身体の肉感は感じられない。
一体、何枚着ているのかとか、何故そのように髪が長いのかとか、色々と気になってしまう。
それらをぐっと堪えると、震えた身を抱き上げたまま、転送陣のある場に戻った。
作り出した幻影は霧散し消えかけている。
転送陣の中へ香子を抱えたまま、足を踏み入れて念じる。
行先は侯爵閣下の地ではなく、ガレリウドが統治している地で居を構える異世界。
多種多様の魔族が住まう戦乱の多い辺境地だ。
――転送は一瞬のこと。
陣の開いた先は、ガレリウドが住まう邸内の庭だ。
元々この地は、侯爵閣下の別荘として使われていた地だったが、戦場に近いために侯爵閣下が前線を立たなくなった現在では、代わりに前線に立つことの多いガレリウドに任された領地だった。
戦場を好まない愛妾は遠く離れた地に居を構え、逆に血の気の多い愛妾は戦地に近い所に居を構えている。
「おぉ、今度はちゃんとガレリウドさまだっ。お戻りでしたか。……困ったことが――って、なんですか、このマットレス2号は?」
魔力の波動で帰還を察知したらしい、邸内で己の代わりに留守を頼んでいた魔将の一人、金色の癖髪を揺らしたイグネルフが、困惑した顔で報告しようと口にしかけて、腕の中で抱く香子に気付いてあんぐりとした。
マットレス、と言われると確かに香子は、それぐらいの厚さがあるかもしれない着衣をしている。
声が聞こえたせいで、香子が身じろいだが、言いつけ通り頑なに目を閉じているようだ。
「一応、異国の娘、香子だ。2号とは何だ、お前はこの香子のような者を他に見たことがあるのか?」
「あるも何も、今しがたガレリウドさまが帰還なさる前に、喋るマットレス1号が邸を徘徊して困っていたところです。あぁっ! 異国の娘ということは、まさかと思いますが、また保護なさったり、懐かれて愛妾にする気ですか?」
イグネルフは声を荒げて捲し立てる。
愛妾にすると言うと、こうして煩く咎めにくるのは毎度のことだ。
うんざりとしながら、ガレリウドはイグネルフに首を振る。
「暫く客人として扱う。それで、その徘徊しているという者は邸のどこに?」
「エントランスです。取り押えておりますが、しきりに『チューグーさまはどこだ』としか、口にしないので」
「チューグー?」
怪訝に顔を顰めると、腕の中からその答えを示された。
「それは、わたくしのことだと思います……」
香子が口を聞けばイグネルフが、こめかみに手を当てながら「マットレス2号もやはり喋るのか」と呟いていた。
イグネルフは少々神経質な面があるから、異文化の受け入れというのは時間がかかる。
フェンリルの血が混じる娘を保護した折も、イグネルフは魔獣を拾ってくるなどと愚痴を零しては、深き森に娘の住まいを造らせるまで近づかなかった。
何でも過去にフェンリルの子供に外套を台無しにされた以来、嫌いだとか。
それはともかく、異世界で幻影を見せていた間に、香子を知る者が転送陣に紛れ込んだのか。
だが、魔力を持たないものが転送陣を扱えるとは思えないのだが、あの異世界にも魔力を持つ者が居たということだろうか。
ガレリウドは香子を地に下ろすと、目を開けても良いと命じて手を引いた。
後ろからイグネルフも、相変わらず「マットレス2号が歩いている」とぶつくさ文句を言いながらも、ついてくる。
「香子。チューグーとは何だ?」
庭園からエントランスまでは暫く距離がある。
手を引く間、香子は反対側の手で顔を隠している。
これはもはや癖なのだろうか、とガレリウドは思ったが後でまた質問することにしようと決める。
「帝の妻の呼称です……。わたくしの国では皇后、中宮、女御、更衣と位があり、名で呼ばれることは少ないのです」
「ふむ。……随分と、複雑そうだな」
これは理解するのに、イグネルフではないが時間がかかりそうだ。
エントランスの前まで来ると、押し問答と思わしき声が響いている。
そのトーンは、幻影を見せるきっかけになった声でもあり、異世界に降り立ったときに初めて聞いた声でもある。
これを聞いたときに、殺してくれと願ったのは香子だ。
「さて、心当たりはあるだろうが。……つまみだせと願うなら、あの異世界に戻してくるが――」
「……琴式部。わたくしの身辺を世話する者です。あの……お邪魔でなければ、一緒に置いてくださいませ。今、わたくしの国に戻したら、あの子は宮中を追われることになると思うのです」
「それはなりません! 得体の知れないマットレスが2つも徘徊されるなど、邸の景観に関わる上に、伯爵ともあろう方が――」
「わたくしからすれば、あなたも得体の知れないものです。そのような酷い寝癖をつけた髪で渡り歩くなど、はしたない」
怪訝を露にしたイグネルフに対し、香子が言い返した。
泣いたり願ったり、悲観的な面しか見ていないが、意外なものだ。
「なっ……ッ、この髪は元々こういう髪質でって……一体、何なんですか、マットレスの分際で。ガレリウドさま、この小娘を置く理由を後でじっくり聞かせてもらった上で、不要とあらば私が異世界に送り返して――」
「イグネルフ。お前は少し黙っていろ。この件は我の独断で決めたことだ。決定権は誰にあるかわかるだろう?」
イグネルフはまだ腑に落ちない様子だったが、エントランスの扉を黙って押し開けた。
そこには、香子とよく似た衣服を身に着け、長い髪を垂らし、扇で顔を隠している娘が背筋を立てて正座したまま、邸内で働く魔族の文官たちに囲まれていた。
娘の周りは移動と魔力封じの陣が敷かれて、陣の外に出られないような簡易の魔術だ。
捕えたというが堂々とした座りっぷりに、文官たちも困り果てている。
「中宮さまっ!?」
扉が開いたことで、扇で顔を隠していても、その隙間から覗き見たのか声が響いた。
「香子。そなたの知り合いに相違ないのだな」
「はい。……琴式部に間違いございません」
「この者らは『客』だ。陣を解いて各自の持ち場に戻れ」
命令を下すと、文官たちの揃った返答と共に琴式部と呼ばれた娘に敷かれた陣が消えた。