4.悲観
琴式部が戻ってくる足音に、香子は文を隠すように元に戻した。
恐らく琴式部はこの文を知っているはずだ。
全ての文は琴式部が取り次ぐことになっている。
主人宛ての文を勝手に読むというのはモラルに関わるが、中には好ましくない文が混じることもあるため、そうした文は取り次がれない。
檜扇で顔を隠し、懐紙で目元を拭った。
「手配して参りました」
御簾が開けられ、どうぞとばかりに促される。
急いできたのか、琴式部の十二単の裾が翻っており、いつも着付けや、身のこなしに厳しいのに珍しい。
「ご苦労様です」
「いえ。……あら、香子さま、御髪が乱れておいでですよ」
「それは、……琴式部を待つ間に温かな陽気にうとうとして、壁に寄り掛かってしまったから」
とっさの言い訳だが、琴式部は何も言わずに香子の前髪を手櫛で整えた。
その間は顔を隠しておいたが、寝起きの顔を見られたくないという風に捉えたのかどうか、何も突っ込まれることはない。
「すぐ傍に待たせておりますから、参りましょう」
「えぇ……」
促され、香子は藤壺の間を後にした。
遅れて琴式部が文を片づけて、こっそりと色褪せた文を袖に忍ばせたのを御簾越しで捉える。
あぁ、やはり……彼女は知っていたのだろう。
急いで戻ってきて裾が翻っているのも気づかなかったのは、余程、あの文を見られないようにと気を揉んだからかもしれない。
琴式部を問いただすのは簡単なことかもしれないが、そうしたことで伊勢斎宮は……娘は戻ってこないのだ。
熱くなりそうな目頭を押さえると、首を降り、また扇で顔を隠したまま用意された青車へと乗りこんだ。
花見の名目で訪れた近くの山。
もう少しで満開を迎えるのだろうか、桜の花はまだ八分咲きといったところだ。
どの木が美しく咲くのかを見て回り、気に入る木の傍で立ち止まる。
「香子さま、こちらは崖に近いですから、もう少し足場の良い所へ参りましょう」
「そうね。でも、少し疲れてしまって……。ここで休んでいますから、琴式部はこの木よりも美しい木を探して見せてくださいな」
「そうですか? ……わかりました。動いてはダメですよ」
念を押すような琴式部に頷きを返し、見送る。
これで暫くは……他に人は居ない。
そう辺りを見渡すと、桜の木の傍にある崖を見下ろした。
眼下には川が流れており、落ちれば小袿姿の今なら重みで命を絶つことが出来るかもしれない。
だが、中々に踏み出すというのは勇気の要るものだ。
ごくりと、喉を鳴らして深呼吸をしてみた。
身を投げれば、輪廻転生に従って次に生まれてくる時は、違う形で生まれることが出来るかもしれない。
夫と呼べた存在にも先立たれ、娘にも先立たれ、残った父には道具のように使われる。
そこに、香子としての人権はないに等しい。
きらびやかな宮廷生活は女の嫉妬と、男の権力争いに帝が振り回されている。
自分の人生を、自分で決めることのできないという絶望の淵に、生きる価値は見出すことが出来ない。
助けてと願っても、願っても……誰にも理解されない。
じゃりっと砂音を立てて、崖に足を踏み出した。
目を閉じれば、きっと一瞬で逝けるはず。
目を開けたときには、きっと新しい命として生まれているはず。
ぎゅっと目を閉じて、身を乗り出し、崖の大地を蹴るようにして飛んだ。
「香子さまっ!?」
琴式部の声音が落ちている身の中で聞こえたような気がしたが、意識はすぅ――っと遠くへ沈んだ。
あの子だけは、わたくしが死んだら悲しんでくれるのかしら。
入内した頃より、仕えてくれている琴式部。
年齢差はあるものの、いつも親身になってくれていた。
時には厳しく、時には優しく、姉のような存在。
せめて、彼女にだけはごめんなさいと、一言謝っておくべきだったかもしれない。
だけど、彼女なら……他の女御さまにも、きっと気に入られる優秀な女房となるだろう。
将来を絶望としか思えていないわたくしなどに仕えるよりも、ずっと……ずっと、出世なさる女御さまに就くことが、彼女の夢なのだから。
これ以上、縛るわけにはいかないのだ。
風を切る速度が増し、身体が何かにぶつかるような衝撃が香子に走った。
けれど、それは不思議と痛くはない。
先帝や娘は流行り病で苦しんで死んだけれど、己はこうまでも楽に死ねるものなのだろうか。
それとも死は感じることが出来ないから、わからないだけなのか。
どちらにしても香子の意識は、そこで途絶えた……。