3.藤壺の君
「香子さま、春宮さまから御文が届きましたよ」
下げた御簾の隙間から、使いに出していた女房の琴式部が、文を机に差し出した。
恋を綴った和歌が書き連ねられて、返歌を待つ文。
返歌次第で春宮の側室として即位された頃には弘徽殿に戻されるか、或いは先帝の寵姫で内親王の母として、今居る藤壺で慎ましく過ごすか。
本来なら、次期帝を振ることは天にも背くこと。
それはつまり、断れない。
返歌で春宮に嫌われるなりしなければ、この宮中からは出ることは出来ない。
しかし、うんざりした様子で溜息をついたのは、藤壺に住まう中宮香子。
左大臣家に生まれ、幼少より帝の側室として教養を身につけられた、生粋の貴族の箱入り娘。
14歳で32歳も年上の先帝の側室として女御の位で入内し、すぐに身籠ったためにあっという間に立后し、中宮まで上り詰めた。
時の女性であるなら、誰もが羨むような生活が保障される。
――かのように思えた。
子を宿してから9ヶ月目に差し掛かった頃、里邸に下がって宮中を空けていた折に、先帝は突然の流行り病に伏して、そのまま崩御された。
女御として入内して、中宮となっても弘徽殿の間に住んでいた香子だったが、出産後の宮中へ戻る頃には、住居は弘徽殿ではなく藤壺に移された。
49日の喪が明けて、先帝の弟である現帝が即位し、春宮には現帝の長子が選ばれている。
それを快く思わなかった香子の父が、春宮と香子を結ばせようとしたのだ。
春宮から見れば伯父嫁にも当たる縁族ながら、この時代に於いては政治的な婚姻が物を言う。
宮中に戻って3年、内親王が3歳を迎えると、父は内親王を伊勢斎宮に選定して引き離した。
現帝の健康状態も芳しくないと聞く。
そこへ伊勢斎宮と引き離されて1年経つか、経たぬかのうちに、22歳になる春宮と、未亡人とはいえまだ19歳の香子を引き合わせたのは、政治的な目的がなければ結びつかないのも同然と言えた。
藤壺で過ごす4年の間に、春宮以外に若い親王や大臣に求婚の和歌を送られたが、父は帝か春宮以外にしか取り次がぬように女房に言い含めていたのだろう。
帝の側室になるべく育てられたのだから、それが当然とばかりに。
「春宮さまからの文だというのに、浮かない顔でございますね」
琴式部は返歌の代筆をするために筆を準備し始めている。
このままいけば、父の思惑通りに事が進み、また子供を産むことを望まれる。
内親王ではなく、親王を産んで、その子が春宮に、そして帝へとなれば、父は喜ぶのであろう。
そう出来るまで、道具に成り下がるのが、香子に強いられた生の意味。
「……琴式部は、わたくしが春宮さまの側室になっても良いと思っているの?」
「あら。香子さまは本当に奥ゆかしいですね。たいそう可愛らしいのですから、きっと春宮さまにも気に入られて中宮さまとなられるでしょう。その方の世話を出来るというのは、宮仕えの女にとって一番の喜びでございます」
和歌の才能もあり、琴を弾かせれば名人という女房は、得意の琴をとって琴式部と呼ばれている。
忠実で主人を立てる言葉も、確かに悪い気はしない。
この者が、自分の女房で居てくれることを、香子は、いつも感謝している。
「そうね。……でも、わたくしは――春宮さまと結婚したいとは思うておりませぬ。きっと、生まれてくる時代を間違ってしまったのかもしれない」
物心ついた頃より、蝶よ花よと入内する身として相応しい教養を覚えさせられた。
けれど、それはいつも心が締め付けられる窮屈な想いも生んだ。
父が認める帝になる人以外には、恋をしたり愛したりすることは出来ないのだと知った。
「まぁ、他の女御様に聞かれたら、嫉妬されますよ」
「構いませぬ。……わたくしは、この柵から抜け出したいわ。先帝が崩御なされたのに、宮中に戻されることばかりか、また春宮さまに嫁ぐなど……」
「先帝さまのことが忘れられぬのですか? 歳が違いすぎたのに、それほど閨が良かったのでしょうか」
「そうではありませぬっ!」
からかうような物言いをした琴式部に香子は思わず声を荒げると、また溜息をついた。
先帝との閨は14歳という初心の身には、恐怖と悍ましさを植え付けられたもの。
この世にお産という痛みも命を落とすかと思うほどの痛みであったが、生まれた子は美しかったからまだ許せる。
けれど、閨という好きでもない相手に抱かれるだけの痛い仕打ちは、身も心も痛い。
助けてほしい。と、神社に赴いては何度も願ってみたけれど、状況は変わらない。
変えるには、自ら行動しなければ何も変わらないのかもしれない。
落飾は父に見つかっては意味がないかもしれない、だが自害も宮中では認められていない。
「琴式部、返歌をお出しするのは、もう少しお待ちなさい」
「ですが、あまり待たせてしまうと、お心が離れられますよ」
「少し考えたい時間が欲しいの。花見でもして心を落ちつけたいわ」
「それは良いですね。天気も良いですし、早速外出の手配をして参ります」
筆を置きなおした琴式部は、移動のために使う青車を手配に藤壺の間から退室していった。
香子は残された文を見つめて、手に取り目を通した。
何度見ても、あまり上手とは思えない恋文。
その恋文に交じった他に、色褪せた文がもう一つ畳まれていた。
何だろうと思い、文を開けば訃報を知らせる文だった。
伊勢斎宮の訃報。
それは、つまり香子が産んだ僅か4歳にも満たぬ娘が亡くなったということ。
文の色褪せ具合から、それがいつのことかはわからない。
愕然とし、文を見つめる視界は涙で霞んだ。