2.希求
侯爵邸の謁見の間から退室し、回廊をまた早足で歩く。
妃を作るとなると、相応に面倒なことになる。
ただでさえ27人の愛妾同士でも嫉妬や派閥がある。
住まいを分けて通うことで血を見る争いにはならないが、ここ数百年は様子を見る程度に訪れて回るだけとなっている。
魔族という長き生の中で、己に頼らなくとも独り立ちする愛妾も居るため、妃になりたいと虎視眈々と狙う愛妾と、戦場に連れてほしいいう愛妾を適当にあしらうだけに通うだけだ。
妃にするなら、それらの気性激しい愛妾を黙らせるものか、動じないものでなければならない。
27人の愛妾の中から選ぶとなると、これまた贔屓だのと厄介なことになりそうだった。
『――助けて』
不意に声が聞こえた。
悲痛、諦観、絶望を秘めた声音。
戦場で縋るように紡がれる言葉と同じだが、込められた想いが憂いを帯びている。
どこに声の主が居るのかと、辺りを見渡したが、貴婦人の熱い視線と笑みが返ってくるだけで、見つからない。
空耳かと首を捻ったが、この侯爵邸で聞こえたわけではないようだ。
「黒伯爵殿。どうかしたのか?」
今度は目の前から声がかかる。
同じ伯爵級魔族のレヴィン・ローゼルグ。
戦場では策を展開して侯爵の有力な後継者候補とも呼ばれる知将。
傍らには珍しく貴婦人を連れている。
淡いオレンジの色をしたドレスを着た若い娘で、目が合うと恭しくお辞儀をしてみせる。
「レヴィン……。こちらは?」
「俺の一番上の娘だが。あぁ、黒伯爵殿と会うのは三千年ぶりぐらいになるか。閣下の晩餐に呼ばれてね、本来なら正妻を連れる所だが面倒くさいと振られてしまったので、仕方なく娘を連れてきたのだ」
晩餐。
そういえば、妃を持つとそのような面倒なこともあったか、と心の中でぼやいた。
愛妾を伴って若い頃は軍の横繋がりを深めるためだとか何とかで、無理やりに侯爵に参加させられたものだ。
伯爵の爵位を承ってからは戦場に近い辺境に領地を得たために、この侯爵邸に訪れるのは数年に一度だった。
戦場への通達も、戦勝の報告も全ては配下の魔将が伝書鳩の如く担っている。
「そうであったか。……気づかぬうちに大きくなられたものだな」
「ふふ、27人も愛妾を囲う多忙な黒伯爵殿には、くれてはやらんぞ」
「そのことで侯爵閣下に文句をつけてきた所だ。閣下は我が妃を娶るまで戦場には出さぬつもりのようだ。あぁ、……危惧せずとも、そなたの娘を娶るつもりなどないわ」
ガレリウドが嘆息すると、レヴィンは面白そうに笑った。
ライバルとも言える立場にあるガレリウドが戦場に出ないとなると、全軍の統率を任されるのはレヴィンに向けられる。
大規模な戦であればガレリウドと軍を半分に分けて連携をとるものだったが、小規模程度ならレヴィンの軍団だけが戦場に行くこともあるからだ。
ガレリウドのように前線に立って槍を振り回すことはないが、策を講じて陥れる戦を好むレヴィンはにやりと隠しもしない笑みを浮かべる。
「侯爵閣下に俺の功績を上げておく機会だな」
「好きにするがいい」
対してガレリウドに出世欲は全くもって皆無である。
敵視もしていなければ、戦友というものでもない気がする。
『――助けて』
また、あの声が脳裏に流れた。
首を傾げた動作に、レヴィンが訝しそうに顔を顰めた。
「珍しく調子が悪そうだな、それほど戦場に出さないと言われたのがショックだったのか?」
「いや。……微かに声が、聞こえたのだが」
「誰のだ?」
「知らぬ……」
「なんだそれは。まぁ、黒伯爵殿に届く声など「殺してくれ」というようなものだろう。望み通りに殺してやれば良いだろう。――さて、レティ、そろそろ侯爵閣下が待ちくたびれているだろうから行くぞ」
からからとレヴィンが笑いながら、娘を連れて回廊を歩き出す。
ガレリウドは再び嘆息すると、侯爵邸の長い回廊をレヴィンと反対のエントランスがある方向へと歩いた。
脳裏に流れる声音はまだ続いている。
すれ違う貴婦人や、男爵級貴族が道を開ける中、声の主を探してみたが、その誰ともつかなかった。
「望み通りに殺す、か……」
レヴィンの言葉を反芻しながら、侯爵邸のエントランスを出ると一人呟いた。
希求の声は、確かに「殺してくれ」とでも言っているような悲痛の叫びだ。
どこの誰が呼びかけてきているのかは謎ではあるが、このまま呼びかけ続けたら睡眠妨害も良いところだ。
そのまま領地に戻ることなく、ガレリウドは転送陣のある門へと足を向けた。