17.血の契約
嵐のようなエンディリシカが去っていくと、ガレリウドは天蓋のベッドのカーテンを開けた。
開けた音に気付いた香子が隠れるように身体をベッドの上で傾けたが、思うように動けないためにシーツに潜ることも出来ず、ただ傾いた身体を縮こませただけになる。
長く艶めいた黒髪が揺れ白いシーツにはよく映える。
ガレリウドはその髪を梳くようにしながら、背けられた顔を自分の方に向かせた。
「眠ったフリというのは、そなたには無理であろう。このような寝台では落ち着かぬはずだ」
香子と琴式部を住まわせている客間にあったはずの寝台は、初日のうちに外に運び出された。
何でも安心して眠れないだの、寝返りを打ったときに落ちるような台座では怪我をすると、琴式部に酷く怒られたものだ。
それを思い出しながら、告げると、香子は目を開きはしたものの、何度か瞬きを繰り返した。
泣き腫らして赤くなった目は、出会ったときを思い起こさせられる。
ガレリウドは香子を抱き起して、己の胸へと抱き寄せた。
「辛い思いをさせた。そなたを娶ることで、恐らくは――今以上に辛い思いをさせる。そうわかっていて、『客』のままにさせたのも、我の我儘」
「いいえ。ガレリウドさま。わたくしは……過去に縋っておりました。この世界に来てから……ガレリウドさまを慕う上では、あのような扇を持っているべきではなかった――」
「いや、扇はそなたの心の支え。魔族の世界の中で心細いであろう」
そうは言ったが、エンディリシカが踏みつぶさなければ、嫉妬に駆られたガレリウドが扇を取り上げる日が来ていたかもしれない。
ただ、あまりにも大事そうにしているために、取り上げたら泣いてしまうのではないかという危惧もあった。
人間を征服することは簡単だが、手の内に収めて自分の好きなように扱いたいわけではない。
泣かせて、服従を強いさせて、己に仕えさせるために傍に置きたいのではないのだ。
何しろ、この娘ときたら見ていて飽きない上に、戦の権化であるガレリウドを『慕う』とまで言いだした。
戦をしているガレリウドの姿を見たことがないとはいえ、筋肉質の身体の至る所には戦傷があり、万年雪のように崩れない仏頂面である。
畏れられることの方が多い外見だとガレリウド自身でも理解しているが、香子がガレリウドの顔を見て怖がったことは記憶にない。
むしろ、面と向かって顔を見ただけで恥ずかしがってしまうのは香子だ。
「ガレリウドさま。……血の契約とは、何なのでしょうか」
「そうであったな。血の契約とは、血を分け与えた者を眷属として配下に置く呪法だ」
「眷属……?」
「そなたの世界で言えば親族のようなものだが。血の契約は主従の証、酷なことだが……そなたは我の傍から生涯離れぬことが出来なくなる。その代わり、我以外の魔族から危害を加えられることはない庇護の証でもある。万能ではないが、血の契約をしていなければ、そなたはエンディリシカに命を奪われていた」
「理解するのに難しいお話でございますが……わたくしは、また助けて頂いたのですね」
魔法だの、呪詛だのといったことは香子は疎い。
魔力の持たない人間なのだから仕方がないことだが、それを噛み砕いて説明するというのはガレリウドにとっても難しいことだ。
魔族の生態についても、人間と根本から生の意義が異なり、死の定義も異なる。
「助けたと言えば聞こえは良いが、そなたを縛る鎖でもある。我が『命令』とすれば、そなたは心で嫌がっていても従わねばならなくなるのだ」
「――……大丈夫です。ガレリウドさまは、わたくしの嫌がる命令などしませぬ」
「なっ……! なんだ、その宣言は?」
「違うのですか? わたくしの嫌がるようなことを、ガレリウドさまは今までしておられないのですし。それに……そのお顔は、とても困っておられるようですから」
仏頂面の微細な表情を読み取った香子に言い当てられ、ガレリウドは押し黙った。
多かれ少なかれ人間という身で魔族の世界で生きるとなると、血の契約は必要になる。
一部の魔族は人間を眷属にし、奴隷のように使わせている者も居るという。
そのような扱いにはしたくなかったが、形の上では眷属としなければ、香子にはエンディリシカ以外の魔族にも今後人間を毛嫌いする者から、殺される危険性は大いにある。
「コホン。そう、だな……そなたの嫌がるというより、極力命令などは出さぬ。弊害があるとすれば、我の傍から離れられぬこと。血の契約をした者は、定期的に契約主の体液を摂取せねば狂気に犯されて、異形となって死ぬ」
「定期的……? 体液というのは、その……ガレリウドさまの、また血を頂かなくてはならぬのですか?」
血を見て狼狽していた様子であったから、香子が苦手そうだというのは理解できた。
「血液でなくとも、唾液でも汗でも涙でも――精液でも。そなたに分け与えることで、気を静めるのだ。そなたにとっては、不遇なことであるかもしれぬが……」
口付けをすることが一番手っ取り早いといえば手っ取り早いが、何しろ顔を間近に合わせるだけでも恥ずかしがって背けてしまう香子に、それを強いるというのは難しそうである。
いずれは妻にして、子を為してなどと願ったが、それすらいつの日になるか怪しい。
その前に正式に愛妾として娶らなければ、イグネルフの小言が炸裂しそうで、問題は山積みだ。
「ガレリウドさまの、……血を頂くというのは。これ以上ガレリウドさまの身体に傷をつけるわけにはいきませぬ」
「傷つかぬ方法は口付けか、性交しかないぞ」
「はい……。わ、わたくしとて……既婚の身でしたから、その――口付けは、したことがあります。お慕いしているガレリウドさまが相手なのですからっ、あのっ……それで良いのなら――」
しどろもどろになりながら、ガレリウドの胸に抱かれたまま赤面している。
その様子があまりにも可笑しく、そして可愛らしく映ったガレリウドは、ほんの少し表情を柔らかくすると赤面した香子の顎を持ち上げた。
びくっと肩から震えて、伏し目がちになる漆黒の瞳は今にも泣きだしそうである。
確かに既婚者ではあるのかもしれないが、この初々しさは恥じらいを持ち合わせた文化の賜物だろうか。
香子の言葉に、ガレリウドの中で押し留めていた想いの箍が外れた。
「その言葉、後悔するでないぞ――」
ガレリウドは宣言すると、香子が口を開く前にその唇を己の唇で塞いだ。
しっとりと濡れた唇は柔らかく、香子が目を閉じたのを見やると顎を掴む手は頬へと移り、愛おしそうに撫で上げながら、耳を撫で首筋へと降りて再び頬に舞い戻る。
その間にも舌で割り開かせた唇の隙間から、香子の口腔を舌が蹂躙して征服する。
ガレリウドの衣服の袖を掴んだ香子の手指の力が抜け落ちてシーツに落ちていく。
唾液を与える行為とすれば既に十分であったが、香子の思考を真っ白に染めかねないほど、長く執拗に重ね合わせた口付けが、息継ぎに苦しそうになった様子を見兼ねて離れては、息が整ったところで何度も繰り返す。
香子の身体に残る麻痺は消え去っていたが、ガレリウドが与える口付けの悦でベッドの上から動けそうになく、天蓋のカーテンは部屋主であるガレリウドによって再び閉ざされた。