16.紅髪の魔将2
平手打ちにした掌は赤く腫れて、震えてしまっている。
香子の扇は、異世界から持ち込まれたもので、この世界で言えば二つとない一点もの。
それを踏まれたとなれば、その怒りはわからなくもない。
――が、頬を叩かれても動じない紅髪の魔将が、香子を睨み付けた。
エンディリシカの視線は金縛り。
その紅の瞳を見ただけで手の指一本すら動かすことが暫くの間出来ない。
動けないままにした所で、焼き討ちにしたり、剣でいたぶって殺すこともエンディリシカの得意技の一つ。
だが、ここは戦場ではなく、ガレリウドの私室。
女の不毛な……むしろ、一方的な戦いは部屋主のガレリウドによって諌められた。
「弁えよ、エンディリシカ。そなたが人間を嫌っているのは知っているが、香子を殺すことは許さぬ。その娘は我の――番にするつもりなのだからな」
その言葉に、エンディリシカの興味は身動きのとれない香子から、ガレリウドへと移った。
血の契約は絶対的な死からは防御してくれるが、そうではない魔法には防御干渉はしない。
人の身には余るほどの金縛りの呪は、ガレリウドが解呪を施しても魔術に耐性のない香子には暫く身体が麻痺したように動くことが出来ず、ガレリウドは香子を抱き上げて己のベッドに落ち着かせるようにして横たわらせた。
焦点は合っているのか、わからない。
恐怖というよりも、哀しみで漆黒の瞳は涙に濡れている。
休んでいるように言い含めて、頬に零れる涙を指先で拭い、慈しむように頭を撫でると天蓋のカーテンを閉めた。
エンディリシカは不服そうにガレリウドの振る舞いを見やると、潰れた扇を拾い上げた。
見たことのない造りで、薄い和紙には淡い紫の木……藤が描かれ、その横には墨字で和歌が書き綴られている。
和歌はエンディリシカには読み取れない文字で構成されているために、何と書かれているのかはわからない。
軍靴で踏まれた藤には穴が開いてしまっている。
脆い紙で出来ている装飾品というのは珍しいものだが、それが高価なものであるとも思えない。
開いたままの扇はひしゃげたままで、折りたためるようになっているが、折りたたんでみても不恰好になった。
「番と言ったか、ガレリウド。それは、あのジジィがあんたに、あの娘と番になれとでも言ったのかい?」
エンディリシカは、ガレリウドの愛妾の中でも三番目に迎えられた。
そのために、彼が他に次々と愛妾を迎えたことは知っている。
ジジィと称した、ガレヴァーン侯爵に宛がわれた娘が何人も居ることを見てきた。
だが、それらは全て魔族の娘であったし、ガレリウドは全く興味を示さなかった。
それを、今回は自ら番にするなどと、この戦いの権化は事もあろうかと惚気たのだ。
「侯爵閣下には確かに命を受けている。そなたが戦に出たいと願っても、我の軍は我が番を見つけて子を為さなければ出られないのだからな」
「その話は聞いたよ、あの陰険伯爵からね」
陰険伯爵というのは、レヴィンのことだ。
エンディリシカと同じくして魔術を得意とするが、その戦いぶりは敵味方関係なくという冷酷非道な面があり、味方は味方として扱うエンディリシカにとって、レヴィンの戦の指揮の仕方は不満だという。
ガレリウド自身も、快くは思っていない。
「別にアタシは戦が出来ればあんたが誰と懇ろになろうが関係ないが、人間っていうのは気が進まないね」
「そこまで嫌いになる理由を、我は知り得ていないのだが――」
「ふんっ。人間は信用ならないのさ。簡単に裏切る。あの娘とて、あんたが伯爵と知って利用しようとする女狐かもしれない」
そのような娘なら、既に愛妾の中でも虎視眈々と目を光らせている女が他にも居る。
と、ガレリウドは思ったが、今は口に出さないことにして、不恰好に閉じた扇を開けた。
描かれた穴の開いた藤は、香子が宮中で暮らしていた部屋の傍にある木と同じもの。
和歌は香子が名も知らない公達から送られた和歌だと、つい最近教えられたものだ。
香子は歳の離れた帝の側室として入内したものの、そこに政治的な意味合いはとても強く、帝に対しても心を開かなかった。
閨で身体を奪われて、娘を身籠ったとしても――娘を産んでも、帝に慕う気持ちがないままに崩御し、産んだ娘が伊勢斎宮となってからまた哀しみと憂いの日々を、藤壺で過ごしていた折に、そっと御簾の外にこの扇が和歌と共に置かれていたという。
不遇な中宮として失意の中に居た香子を、その扇の絵と和歌が心を和ませたという。
――恐らく、香子はその扇を贈ってくれた男を忘れられないのであろう。
ガレリウドは話を聞いて、ほんの少し嫉妬を覚えたものだ。
「ともかく、そなたが干渉することではない。香子にまた危害を加えるのであれば、我はそなたを領地から追い出し、戦には連れぬ」
エンディリシカは戦好きの娘。
そこまで言えば、人間嫌いのエンディリシカでも、好む戦いに出られないのは魔将として意味を為さない。
「……フン。わかったわかった。『今は』娘には手を出さないよ。だが、忠告はしておくよ――あんたが娘に裏切られて、万が一この地を奪われでもしたら、その時はあの娘を殺す。それで良いかい?」
「万一にもないと思うが……良かろう」
ガレリウドが言うと、エンディリシカは満足そうに身を引いた。
そして何事もなかったかのように、邪魔をしたな、とガレリウドの私室を出ていこうとするのだから、嵐のような魔将だ。
ただ、こうして言い含めるだけで去ってくれるエンディリシカの思い切りの良さや、サバサバした性格はガレリウドとしては気に入っている。
ぐちぐちといつまでも縋るような女の醜い気質は感じられない所が良いのだ。
「あぁ、そうだ――。忘れていたが、あの陰険伯爵から渡してくれと頼まれたんだった」
出口の扉にまで手をかけてから、エンディリシカが振り返った。
ほら、と投げてよこしたのは、手紙。
「当然、中身は知らないがね。直接渡してくれと頼まれたから、何か重要なものなんだろうけど。じゃ、アタシは確かに渡したからな」
今度こそ邪魔をした、とばかりにエンディリシカは部屋を出て行った。
後に、深く長い溜息をガレリウドがついたが、その嘆息は香子には聞こえただろうか。
天蓋のベッドを見やったが、物静かなものであった。