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彼に初めて会ったのは、私が七歳の時だった。
貴族の正装をして私の前に跪く十六歳の少年を見てまず最初に、私は可哀想だと思った。
鈍色の頭髪が見えるばかりの彼は、こんな年下の少女に頭を下げて何を請おうと言うのだろう。私に権威など無く、有るのは血に縋って肥大した無意味な自尊心だけなのに。
「顔を上げなさい、ウェルフ・ワートルム」
「はい」
本当の私は何も持っていないのよ。
□□□
鳥の囀りが聞こえる。私は今、王城の庭に横たわっていた。
庭と言っても裏庭で、下働きの者達の通用口がある様な場所だ。いつもならば大騒ぎになるだろうが、今はパレードに出払ってしまって誰もいない。
もし誰かいたとしても王国の政治にあまり関係なく、表舞台に出る事の少ない私になど誰も気付かないだろう。でも、それは少し、寂しい事かもしれなかった。
陽射しが暖かい。今日という日を世界が祝福したかの様に空は晴れ上がっていた。
「だいたい、魔物を倒したわけじゃないのに大袈裟なんだよ。いや、暢気なのかな。この国から恐怖の根源が消え去ったわけではないのに、よくもああはしゃげたもんだね」
だからこそだろう。なんだ、まだ機嫌が悪いのか。昨日何かあったか。
アンタレスは珍しく、私の言葉に怒らずに心配そうに訊ねた。昨日の事があるかもしれない。
私は理由を言うつもりは無いので無言になる。彼は嘘を吐かれる事がとても嫌いなので、私は必然的に黙り込むしか無くなるのだ。
……言いたくないのなら別に良い。だが、無理はするなよ。
「うん」
無理をしないとはどういう事なのか、頷いたもののよく判らない。あまり塞ぎ込むな、という事かな。
現状、私は無理などしていなかったが、アンタレスが私の為に気を割いてくれるのが嬉しくて礼を言った。なんだか、今日の彼は優しい。
「アンタレス、私の事好き?」
優しさついでに甘えたくなって聞いてみる。この憂鬱をどうにかしたいのだ。アンタレスに好きだと言ってもらえると嬉しい。だって、彼は世界の誰より私の事を知っているから。
私の突拍子も無い質問に、アンタレスは慣れた風に答えた。
ああ。オマエは間違いなくオレが選んだ契約主だ。オマエ以上の者などありはしない。
言い切ったアンタレスに、私の機嫌は断然さっきよりも良くなる。アンタレスがいて良かった、と常々思っていた。彼のおかげで私は一人ぼっちじゃない。二人ぼっちだ。
「ねえ、いつごろまでここにいれば、誰か私に声を掛けてくれるかしら?侍女でも、近衛兵でも、下働きでも。誰なら見付けてくれるかな」
機嫌の良くなった私は、誰かに見咎められたら大人しく部屋に帰ろうとさえ思った。しかし、訊ねる私の声に応えは返ってこない。おかしく思って名前を呼ぼうとすると、草を踏む音が頭上で聞こえた。
私はひやりとしながら咄嗟に跳ね起きる。
見咎められても構いやしないとは思ったが、それは害意の無い人間に限っての事だ。背後から気配を消して近付いてくる人間など持っての他だった。
長いドレスの裾を翻して相手と向き合う。
「あ、貴方は……」
相手は、私が思いもよらない人物だった。
□□□
綺麗な青空、いつもより人の多い街並みに、どこからともなく舞落ちてくる花弁は魔法によってか。
勇者一行が、メリオポの北方を魔物の手のものから取り返したという話は、人々の口伝てに野を越え山を越え国民に伝わった。まだ北方のみとはいえ、立派な成果である。
魔物の進行を止めた北方の地では、また人々が昔の暮らしを取り戻し始めているという。今日という日は、そんな勇者一行の凱旋パレードだった。
基本、凱旋というのは全てが終わった後にするものであろうが、このところ魔物のせいで何をするにも静かになっていた国民を盛り上げようと、国王が提案し勇者が同意したのである。
そんな凱旋パレードを一時間後に控えた勇者一行はというと、緊張に固まっているかと思いきや焦った様に周りをきょろきょろと見回していた。
「どうしよう、ウェルフ。テトがいつまで経っても戻って来ないわ」
「落ち着けマナミ。…いったい、あいつは何をしているんだっ」
「も、もしかしてどこかで迷っているんじゃないでしょうか……」
魔術師らしき少女の声で、マナミとウェルフは納得した顔をする。どうやら凱旋パレードを目前に控えているというのに、勇者一行の内一人がどこかへ行ってしまったらしかった。
「またか…。まあ、いざという時は仕方が無い。テト無しで凱旋を行おう」
どうもいなくなった人物は、よく単独行動を行って仲間を困らせている様だ。ウェルフの反応には少しの疲れが見える。
「それまでに帰って来れば良いんだけど…」
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気取る事の無い足取りで近付いてきたのは私と同い年くらいの、一人の青年だった。彼は、私など見えていない様に辺りを眺めてからやっと私に焦点を当てる。
静かな深い森を連想させる瞳にはつまらなそうな色が浮かんでいて、風で奔放になびく朱色の髪が、信じられないくらい鮮やかだ。私は思わず目を瞠った。
何より、彼の着るその衣。目を凝らしても何がどうなっているのか判らないぐらい細かな模様が編まれている。身軽そうなそれと、腰に携えた弓と矢を見て私は確信した。
そう、私は彼を見た事がある。それも、王の間の勇者謁見の際にだ。
彼は勇者と供に旅をしていて、今は凱旋パレードに参加している筈の弓使いの青年ではないか!
「テトラルド・リノリス様?」
「なに」
「…勇者一行の弓使いテトラルド様?」
「だから、なに」
まさかと思いながら何度も名前を呼ぶ私に、彼は訝しげな視線を送る。でも、そんな風に見られる謂われは無い。むしろ私がそうしたいぐらいだ。
「あの、私の勘違いで無ければ、今は凱旋パレードの最中だと思うのですが。違うかしら」
「違わない」
気負い無く肯定した彼に、私は自分が何か勘違いをしている気分になる。
「……パレードは、もう始まっていますわよね」
「そうだな」
あれあれ?と首を傾げる私をどう思ったのか、今度は彼から話し掛けてきた。
「なんで、俺の名前を知ってる?」
言葉はどことなくたどたどしい。それで私は、彼が森で旅暮らしをする一族の人間であると、マナミに聞いた事を思い出した。確か彼らは独自の言語を持っていたように思う。
「私、一度貴方とお会いしましたわ。貴方は覚えてらっしゃら無いかもしれませんが、王の謁見の間に私もいましたわ」
「王族か」
彼の眉がぴくり、と動いたのを私は見逃さなかった。外行きの笑顔を貼り付けて、穏やかに訊ねる。
「ええ、私達の事がお嫌い?」
言うと、彼は僅かに戸惑う素振りを見せた。
仕方がない。いくら勇者の仲間といえど所詮は人だ。王族の無知さか、傲慢さか、何が彼の気に障ったのかは知らないが、今の王家に疑問を持つ国民が多い事を私は知っていた。
けれど、だからと言って彼に彼らに魔物の討伐を辞退されてしまったら、それは心底困るのだ。アンタレスにはああ言っているものの、実際のところ魔物の進行具合は明らかで、綺麗事を言えば民の平穏に拘るし、あからさまな事を言えば、勇者を召喚した私の面目が丸つぶれだ。
ここは一つ、どうにかして彼の機嫌をとらなければ。
「良いのですよ。本当の事を言って下さって」
「違う。ただ、ここが嫌いなだけだ」
「ここ?」