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高望みだったわ、嫌ね。と言って強張った笑顔を向ける菖蒲さんを見て、あたしは奴に復讐を誓ったのだ。
小林輝次郎、許すまじ!
そろそろ生徒も登校してくる時間帯だ。あの日の記憶を呼び起こし、決意を確固たるものにした後にあたしはトイレの個室を出る。
さあてと、正義の味方の間抜け面を見に行こうじゃありませんか。
と、あたしの意気揚々とした足取りを阻むものがいた。あった?
「少女よ、おまえ中々良いものを持っちょるのう」
こけー。
赤い鶏冠が雄々しい、白い羽毛の肢体を持つ鶏が、その小さな身体を大きく見せる為なのかなんなのか羽を広げて声を発した。
声を発した?
「うぎゃーー!?」
あまりの驚きに、一歩を踏み出そうとしていた足を迷わず鶏に向かって振り下ろす。そう、だって鶏が喋ったのだ!こんな事になった事が無いのでどうしたら良いのか全く判らない。
「ぬふぉっ!?」
振り下ろされたあたしの足を、間一髪で避けた鶏は奇声を上げながら横へと転がった。あたしはその隙を見逃さず、鶏がいなくなった事で開いたスペースから廊下へと走りだす。逃走だ。
あたしが中学時代に尊敬していた先輩は「逃げるんじゃねえ、相手がどんなでけえガタイしてても正面から突っ込みな」と言っていたが先輩、あたしには無理っす。つーかガタイ云々の話じゃないでしょ!
なんなんだあの鶏は!鳥インフルエンザでああなるの?
ぐるぐると混乱したまま教室までやってくる。ドアを開こうとした直前にはっとなった。
そうだ。喋る鶏も大層大変な話だが、今はそんな場合じゃない。小林輝次郎の反応を見なければいけない。勿論、あたしがやった事だとばれない様に。
気を引き締めてドアを開く。そうだ、復讐だ。菖蒲さんの為にだなんて言うつもりはない。あくまでも傷付いた菖蒲さんを見て、傷付いたあたし自身の為の復讐だ。
ドアを開いた。
□□□
「今日どうしたの?元気無いね」
考えに耽っていた意識が彼女の声で浮上する。顔を上げると、目の前で菖蒲さんが心配そうな顔をしていた。
いけないいけない。今は彼女と昼食中だった。菖蒲さんに心配を掛けてしまう。
「なんでもないっすよー。ただ、ちょっと上手くいかない事が有って…」
「あら、そうなの?私で何か出来る事が有ったら言ってね」
微笑む菖蒲さんマジ天使。この人をふるだなんて、小林輝次郎はきっと正気じゃないな。
上手くいかない事。ああ、そうなのだ、結果から言うとあたしのいじめは失敗に終わった。
あたしが教室に入った時、奴の机に菊の花は無かったのだ。
奴自身が片付けたのか、それとも奴を慕うクラスの誰か?クラスメイトはいつも通りだったので、話が広がっていないところを見るとあたしの次に来た奴が処分なりなんなりしたんだろうと思われる。
くそ、敵は小林輝次郎だけじゃなかったって事か。
力任せに弁当のタコさんウィンナーを箸で串刺しにすると、菖蒲さんがびっくりした顔でこちらを見つめる。
「本当に大丈夫?」
「ぜ、全然平気っすよ!ただタコさんウィンナーが好き過ぎて、だからちょっと力んじゃったっていうか!」
あたしの必死の弁解をおかしく思っただろうに、くすくす笑いながら頷くだけに止めておく菖蒲さんは、ますますすげー良く出来た人だと思う。
「タコさんウィンナーが好きなんだ?」
「はい!ていうか、肉全般が好きっす」
「じゃあ、これ」
そう言って自分の弁当から箸でハンバーグを摘んで、あたしの前まで持ってくる。
「え、菖蒲さん?」
「仕方がないから、元気の無い君に私のハンバーグを差しあげよう」
「え、マジで!」
「うん、まじ」
おおお、菖蒲さんちのハンバーグ。
あたしは伺う様に菖蒲さんを盗み見た。微笑む彼女は急かす様に箸をこちらにずいと押す。
「い、頂きます」
「召し上がれ」
ハンバーグの味は、菖蒲さんには悪いが感動で判らなかった。
□□□
至福の昼休みが終わり、五限目の授業の真っ最中。ところで、昼食後の授業が眠くなるのは必然だとあたしは思うのだ。なのに、何故五限目というものは存在するのだろう。皆寝てしまうのに。
教科書を朗読する先生の声を聞いている生徒は一体何人いるのだろう?因みにあたしの隣の列は全滅している。ビンゴだ。
生徒があからさまに居眠りしているのに、先生は何も注意しない。その分、無言で授業点が削られていくのがこの先生の恐いところだぜ。
あたしの列もあたしでリーチかと思いきや、後ろの小林輝次郎がいた。ノートになにやら書いているらしいが、あたしにはこの先生の話のどこに、メモする必要があるのか判らない。だって、今彼は奥さんとの出会いがいかにドラマチックだったかを熱弁している。
トーンの変わらない声音が眠りを誘うなあ。中学校の修学旅行で行ったお寺で聞いたお経を思い出した。
眠い。
「ねえ、ごめん」
ぼー、としていたところに声を掛けられて、あたしは声の方に振り返った。
あれ?あたしの後ろって、あれ?
「消しゴムを落としてしまったんだ。取ってもらえる?」
困り顔の小林輝次郎が手を合わせてあたしに頼み込んできた。