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婚約破棄したいので悪女のふりをしたら、護衛騎士が全部美談にしてしまいます

作者: 神崎昴
掲載日:2026/10/29

 悪女になることにした。王太子殿下に嫌われ、婚約を破棄していただくためである。

「それで、まず何をなさるのですか」

 専属護衛のセイン・ヴァルツは、私が掲げた手帳を見ても眉一つ動かさなかった。

「嫌な女になるのよ」

「具体的には?」

「今、考えているところ」

「承知しました」

 そこで納得しないでほしい。私は机に手帳を置いた。表紙には、昨夜、気合を入れて書いた文字がある。

『悪女作戦帳』

 婚礼まで、あと三十日。

 七年間続けてきた王太子妃教育の最後の一か月だった。


     ◇


 先日の茶会で、私はレオナール殿下にお願いをした。

「亡くなった母の誕生日に、半日だけ実家へ戻ってもよろしいでしょうか」

 殿下は予定表に目を落とした。

「その日は王太子妃教育がある。君なら、何を優先すべきか分かるだろう」

「母のお墓に、花を供えたいのです」

「花なら、使いを出せばいい」

 殿下は予定表の次の項目へ目を移した。私は、それ以上母の話をしなかった。

 茶会の終わりに、婚約を解消したいと申し上げた。殿下のお答えは、「婚礼前で不安になっているのだろう」だった。

「君なら立派に務められる。これまでの成績にも、何の問題もない」

 結婚したくないのだと重ねてお伝えすると、父ともよく相談するようにと言われた。

 父に相談すれば、出てきたのは婚約契約書だった。

「お前から解消を求めるなら、清算金を全額負担することになりかねん。金貨四十枚だ。家からは出さないぞ」

 最終同意の場で婚姻を拒めば、婚礼は止められる。ただし、契約の清算は別に必要だった。

「それでも嫌なら、自分の財産で払うことだ」

 部屋へ戻り、祖母から譲られた宝石箱を開けた。

 青い石の首飾りに触れる。祖母はこれをつけるたび、鏡越しに私を呼び、留め具を確かめさせてくれた。

 私は蓋を閉じた。

 引き出しには、三度書き直した婚約解消の申し入れ書がある。どれも最後の署名欄は空いたままだった。

 嫌だと言うだけでは、誰も聞いてくれない。押し通せば、父を怒らせ、祖母の形見を手放すことになる。

 そこで、手帳に書いたのだ。

『王太子殿下から、婚約を破棄していただく』

 あちらから断ってくだされば、父も私だけを責められない。清算も、一人で引き受けずに済むかもしれない。

 問題は、私が悪女のなり方を習っていないことだった。


     ◇


 最初の機会は、帰還兵の慰労式だった。私は儀典の実習として、会場の配置を任されていた。

「最前列の十六席を変更するわ」

 会場図を広げると、セインが机のそばへ来た。

「そちらは、有力貴族の方々の席では?」

「ええ。そこへ、脚を負傷した帰還兵八人と、付き添いのご家族八人を座らせるの。貴族の方々には別の席を用意するわ」

 先日の打ち合わせでは、杖をついた兵士が、案内係に妻の席を尋ねていた。家族席は会場の奥だと聞いて、妻のほうが心配そうな顔をしていたのを覚えている。

 セインが会場図を覗き込む。

「出入口に近く、ご家族とも隣り合える配置ですね」

「そんなことより、相談もなく慣例の席を取り上げられたら、貴族の方々は怒るでしょう?」

「警備上も問題はなさそうです。よく考えられていますね」

「褒めないで!」

 セインは困ったように眉を下げた。

 変更案は儀典長の承認を得た。貴族たちには通知だけを送り、個別の相談はしなかった。

「イリス様」

 会場図を片づけていると、セインが尋ねた。

「本当に、婚約を解消なさりたいのですか」

「ええ」

「承知しました」

「反対しないの?」

「婚約を決めるのは私ではありませんので。ただし、貴族の方々を怒らせる意図で変更なさることも報告いたします」

「それでいいわ。きちんと伝えてちょうだい」

「よい結果が生じた場合も報告いたしますが」

 私は笑って頷いた。十六人もの有力貴族を怒らせるのだ。少しくらい感謝されたところで、問題はないはずだった。


     ◇


「昨日の通知は読んだ。しかし、なぜ我々への相談もなく席を変えたのだね!」

 慰労式当日。侯爵閣下の声が、会場の入口に響き渡った。

 来た!

「配置変更は私の判断です」

「君は、その席がどれほど重要か理解しているのか」

「もちろんでございます」

「ならば、なぜだ!」

 ほかの貴族たちも振り向いた。若い儀典係が青ざめている。

「担当者は何をしていた。止めるべきだったのではないか」

 侯爵が係員を睨むと、セインが口を開いた。

「恐れながら、決定はイリス様がなさいました。こちらの係員に変更を覆す権限はございません」

「護衛騎士が口を挟むのか」

「事実関係を申し上げました。また、各家への個別説明が不足していたことも事実です」

 私は思わずセインを見た。護衛対象に不利なことまで、堂々と口にしている。

「侯爵閣下。説明不足の責任は私にございます。ご不満は、どうか私へお寄せください」

 侯爵は厳しい顔で頷いた。

「王太子妃候補として、軽率な判断だったと申し上げておこう」

 私は深く頭を下げた。心の中では拍手喝采だった。

 それです!

 その言葉を、ぜひ殿下にも!

 結局、席を変更された十六人全員が不満を示した。

 第一作戦は成功。

 少なくとも、そのときはそう思っていた。

 式典の後半、表彰を終えた帰還兵たちが前列へ戻ってきた。杖をついた男性が、隣に座った妻の手を取る。

 妻が彼の胸元の勲章を指さし、何かを囁いた。男性は照れくさそうに笑った。

 隣を見ると、セインも夫婦を見ていた。いつも厳格な彼の口元に、かすかな笑みが浮かんでいる。

 私は思わず二度見した。

「何かございましたか」

「いいえ」

 セインは不思議そうに首を傾げた。

 式典のあと、あの夫婦が私のところへ来た。

「今日はありがとうございました。妻と一緒に座れて、嬉しかったです」

「勲章を見せてもらえたのも嬉しかったですよ。三回も自慢されましたから」

 妻が笑うと、男性は「二回だろう」と言い返した。私もつられて笑ってしまった。

「せっかく王都へ来たんだ。帰りに何か食べていこうか」

「あなた、疲れていない?」

「座れる店なら、大丈夫だ」

「それなら、私が見つけたお店へ行きましょうよ」

 夫婦はもう一度礼を言い、並んで歩いていった。その背中を見送りながら、少し羨ましくなった。

「イリス様は、あのように笑われるのですね」

 隣から言われ、私はセインを見た。

「変だった?」

「いいえ。私も、つられてしまいました」

 彼の口元に、まだ笑みが残っている。

 殿下との茶会では、声を立てずに笑う癖がついていた。膝を揃え、背筋を伸ばし、話を遮らないように。

 今、私は自分がどんな顔をしていたのか、少し気になった。


     ◇


『第一作戦:失敗』

 儀典長からは帰還兵への配慮を褒められ、各家への説明不足を指摘された。セインの報告には、私が侯爵への説明を引き受けたことまで書かれていたという。

「あなた、私を褒めすぎじゃない?」

「見たことを報告しております」

「悪いところを、もっと見てちょうだい」

「努力いたします」

 真面目に答える彼の目元に、薄い隈があった。昨日も、私が退出したあとに別の警備へ入ったと聞いている。

「それより、今日は休んだら?」

「午後まで、私の当番ですので」

 翌日も、その次の日も、彼は朝から夕方まで立っていた。書類に目を落とすふりをしても、扉のそばの顔色が気になって仕方がない。

 王太子妃教育には、専属護衛の勤務表を読む授業はなかった。

 けれど、わがままを言うだけなら、私にもできる。近衛隊長へ面会を申し込み、私は顎を上げた。

「今後、私の護衛は一日二交代にしてちょうだい。一人に朝から晩までついてこられると、息が詰まるわ」

 隣でセインが私を見た。隊長は、開いた当番表に目を落とす。

「何か、不都合がございましたか」

「私のわがままです。お手数だけれど、調整していただける?」

 これなら、専属護衛を気まぐれで替えさせる令嬢である。しかもセインは休める。

 隊長は少し考え、「当番を確認いたします」と答えた。詰所を出ると、セインが遠慮がちに尋ねた。

「私がおそばにいると、お気が休まりませんか」

「違うわ。あなた、ずっと疲れた顔をしているから」

 つい本当のことを言ってしまった。

「それで、休ませようとなさったのですか」

「ええ。私の評判も悪くなるし、一度に解決するでしょう?」

 セインは額に指を当てた。叱られるかと思ったけれど、小さく息が漏れただけだった。

「先に、私にも相談していただきたかったです」

「ごめんなさい。あなたは、どうしたかった?」

「隊長に、夜の警備との重複を調整していただこうかと。今朝、申し出るつもりでした」

 私は彼を見つめた。

「……少し、早かったのね」

「はい。少しだけ」

 その返事がおかしくて、笑ってしまった。セインも、困ったように笑っている。

 数日後、私の護衛は試験的に二交代になった。セインが隊長に勤務の重複を報告し、当番表を組み直してもらったのだという。

 ところが届いた礼状には、こうあった。

『護衛の疲労にお気づきくださったこと、感謝申し上げます』

「セイン」

「お気づきになったのは、事実ですので」

 私は手帳を開き、大きなバツをつけた。

『第二作戦:失敗』

 その日の午後、いつもより早く交代の騎士が来た。セインが退出しようとするのを、私は呼び止めた。

「お仕事が終わったら、お茶をご一緒しない?」

「私で、よろしいのですか」

「あなたを誘っているのよ」

 彼は一瞬だけ黙り、柔らかく頷いた。

「では、喜んで」


     ◇


 南庭園の茶席で、セインは剣帯を外して椅子に掛けた。

 私の後ろに立っているより、向かいに座るほうが落ち着かないらしい。リリアがお菓子の皿を置くと、ようやく肩から力が抜けた。

「甘いもの、お好きなの?」

「はい。蜂蜜も、焼き菓子も」

 彼はひと口食べ、目元を和らげた。あの慰労式で見た顔だ。

 私は紅茶に蜂蜜を落とした。ひと匙。少し迷って、もうひと匙。

「正式な茶会では、あまり入れないの。子供っぽいと思われることがあるから」

 セインは自分のカップにも、同じだけ入れた。

「私は、これくらいが好きです」

 私は笑って、蜂蜜壺を彼の近くへ寄せた。お茶を飲みながら、休みの日の話をした。

「王都の焼き菓子屋を、回ってみたいんです」

「どこから行くの?」

「まだ決めきれません。行きたい店が増えてしまって」

 彼は懐から小さな紙を取り出した。店の名前と、おすすめの菓子が細かく書いてある。

「ずいぶん調べたのね」

「はい。こちらの店は、昼前に売り切れるそうです」

 紙を指す顔が、警備の説明をするときと同じだった。

「では、真っ先に行かなければね」

「そうなのです。ですが、こちらも午前中でなければ――」

 言いかけて、彼が口を閉じた。

「失礼しました。お菓子の話ばかり」

「続きを聞かせて。二軒とも間に合う道順を考えましょうよ」

 セインは少し驚き、それから私のほうへ紙を向けた。茶器を下げる時間になっても、道順はまだ決まらなかった。

 次にお茶をご一緒した日、茶席に小さな蜂蜜壺が置かれていた。

「リリア、ありがとう」

「蜂蜜はヴァルツ卿がご用意くださいました」

 私は隣を見た。セインが少し照れくさそうに視線を逸らす。

「こちらは、焼き菓子にも合うそうです」

「ありがとう」

 セインは壺を手に取った。

「蜂蜜は、お入れになりますか」

「ええ」

 彼が差し出した壺から蜂蜜をすくう。目が合うと、セインが笑った。そのせいで、もうひと匙多くなった。


     ◇


 その日の帰り道、王宮の回廊で二人の貴族とすれ違った。

「アルベルン伯爵令嬢だ。護衛を半日で替えろと要求したという。気まぐれにも困ったものだ」

 私は何事もない顔で通り過ぎようとした。

 ところが、隣のセインが足を止めた。手袋をはめた右手が、強く握られている。

「セイン?」

 呼ぶと、彼は手を開いた。

「失礼いたしました」

 何も言わず、私の隣を歩き始める。

「私は怒っていないわ。そう思われたくて言ったのだもの」

「……はい」

 それきり、回廊を抜けるまで彼は黙っていた。

 数日後、今度は彼のほうからお茶へ誘ってくれた。

 ところが当日、急な警備の交代が入り、約束は流れてしまった。

 庭園には二人分の茶器が並んでいた。リリアが向かいのカップを片づけようとしたとき、私は思わず止めてしまった。

「もう少し、このままでいいわ」

 翌朝、セインは私を見つけるなり頭を下げた。

「昨日は申し訳ありません。私からお誘いしたのに」

「お仕事だったのでしょう? 仕方ないわ」

「ですが、残念でした。あの時間を、楽しみにしておりましたので」

 私は顔を上げた。

 セインは少し照れたように笑った。

「いつか、勤務とは関係のない日にお会いできたらと思っています」

「私も、そう思うわ」

 彼の耳が赤くなった。

 私も、同じ顔をしている気がした。


     ◇


 婚礼まで残り十五日となった日、王太子殿下の功績を称える祝賀式の案内が届いた。

 式では、殿下の隣に私のための特別席が用意されるという。

「この席は辞退するわ」

 名誉席なので、辞退しても規則違反にはならない。王太子殿下の隣に座る栄誉を、自ら拒否する。第三作戦としては申し分なかった。

 翌日、会場に用意された席を見たとき、私は足を止めた。深い紅色の布が張られた、美しい椅子。

 七年間、あそこに座る女性になるために努力してきた。

「イリス様」

 隣にいたセインが声をかけた。

「今回も、悪女作戦ですか」

「ええ。そのつもりだったのだけれど」

 私は椅子を見つめた。

「本当はね、あそこに座りたくないの」

 セインは黙っていた。

「殿下の隣に座れば、皆が私を未来の王太子妃として見るでしょう。私自身が結婚を望んでいなくても」

 私は彼を見た。

「私は、レオナール殿下と結婚したくないの」

 セインは真剣な顔で頷いた。

「承知しました」


     ◇


 翌日の祝賀式で、私は予定どおり特別席を辞退した。式の終了後、会場の出口で一人の貴族が儀典係に詰め寄っていた。

「殿下のお隣を拒むとは、王家への侮辱ではないか。誰があの令嬢にそんなことを許したのだ」

 私は声をかけようとした。

 けれど、その前にセインが一歩進み出た。

「席の辞退は、規則上認められております」

「規則の話ではない。殿下のお立場を考えれば、あまりにも軽率だろう」

「イリス様に、王家を侮辱する意図があったとは確認しておりません」

「では、何のために辞退したというのだ。相応の説明がなければ、この件は王家への侮辱として報告させてもらうぞ」

 セインの右手が、わずかに強張った。彼が口を開きかけたところで、私は袖を引いた。

「理由は申し上げられません。辞退は私の判断です。セイン、行きましょう」

「はい」

 会場を離れても、抗議の声はしばらく聞こえていた。回廊の角で、セインが足を緩める。

「イリス様。先ほどの件ですが」

「あなたには、昨日お話ししたとおりよ」

 彼は私を見た。何か言いかけ、その視線が私の手元へ下がる。気づけば、私は扇を両手で握りしめていた。力を抜くと、指の付け根が痛んだ。

「……お部屋まで、お送りいたします」

「ありがとう」

 歩き始めた彼は、いつもより半歩近くにいた。


     ◇


 翌朝、リリアが王宮の回覧状を持ってきた。

『アルベルン伯爵令嬢は王太子殿下の功績を際立たせるため、自ら名誉席を辞退。婚礼を前に、殿下を支える揺るぎない決意を示した』

 私は最後の一文を読み直した。

「誰が、こんな説明を?」

「近衛の報告をもとに、儀典担当者がまとめられたそうです」

 私はセインを呼んだ。

「昨日の席のこと、どう報告したの?」

 セインの視線が、私の手元の回覧状で止まった。

「殿下の功績を際立たせるために辞退されたと、報告しました」

「私が、そう言った?」

「いいえ」

 私は回覧状を彼の前に置いた。

「先日、結婚したくないと話したでしょう。それなのに、ここには殿下を支える決意を示したと書いてあるわ」

「王家への侮辱として扱われるのを、防ぎたかったのです。儀典係から理由を尋ねられ、殿下への配慮によるものだと答えました」

「私に確かめてくれればよかったのに」

 彼の手が、体の脇で握られた。

「回廊で、伺うつもりでした。ですが、おつらそうに見えて……私が非難を収めればよいと」

 机の上の回覧状へ、目を落とす。そこには、私の名前で、私が望んでいないことが書かれていた。

「あなたは、蜂蜜を入れるかどうかも私に聞いてくれたわね」

 セインが私を見た。

「あんな小さなことは、私に選ばせてくれたのに。どうして、人生で一番大切なことは、あなたが決めてしまうの?」

 彼の顔から、血の気が引いた。

「私は、あなたになら分かってもらえたと思っていたの」

 窓のほうを向いた。

「申し訳ありません」

 少しして、深く頭を下げる気配がした。

「今日は、もう下がってちょうだい」

 扉が閉まるまで、振り返らなかった。


     ◇


 翌朝、セインは私の護衛から外れていた。本人が辞退を願い出たらしい。昼前には、回覧状の訂正版と、セインの署名が入った報告書の訂正が届いた。

『辞退の動機は本人に確認しておらず、報告者の判断により記載した。婚姻意思を示すものとして扱うことはできない』

 近衛隊長による確認も添えられていた。私が彼に打ち明けた内容は、どこにも載っていない。

 訂正文を封筒に戻した。南庭園へ行くと、いつもの茶席は空いていた。リリアがお茶を運んでくれる。蜂蜜壺は、以前と同じ場所に置かれていた。

「今日は、こちらのお菓子でよろしいですか」

 リリアが皿を置いた。

 初めて見る焼き菓子だった。表面に薄く蜜が塗られている。

「これ、セインが好きそう――」

 言いかけて、口を閉じた。リリアは何も尋ねなかった。私は焼き菓子を一つ取った。

 甘くて、少しだけ、生姜の味がした。彼は、こういう菓子も好きなのだろうか。私はカップを持ち直した。

 リリアが二つ目の茶器を片づける。

 今日は、止めなかった。


     ◇


 その日の午後、婚礼前の声明文が届いた。

『私は王太子殿下との婚姻を心から喜び、婚礼の日を待ち望んでおります』

 私はその一文に線を引いた。

「こちらは削除してちょうだい」

 儀典係が困った顔をした。

「では、『婚姻を光栄に思っております』ではいかがでしょう」

「それも違うわ。私は結婚を望んでいないの」

 係員のペンが止まった。

「ですが、これまでの声明にも、同様の文言がございます」

 机の端に置かれた控えを見る。昨年の祝賀会。その前の年の、婚約記念式。どちらにも私の署名があった。

 差し出されたとき、違うと思った。それでも、決まり文句だからと自分を納得させた。

「……ええ。前のものには、署名したわ」

 私は声明文を係員へ返した。

「今回は、できません」

 係員が退出したあと、引き出しを開けた。書きかけの申し入れ書を取り出し、机に並べる。

 どの紙にも、何度も言葉を変えて書いてあった。最後の署名欄は、空いたままだった。

 私は一枚ずつ重ね、脇へ寄せた。


     ◇


 夕方、宝石商に祖母の装身具を見てもらった。青い石の首飾り。揃いの耳飾り。金の腕輪。

 宝石商は一つずつ確かめ、金額を書きつけた。

「こちらでしたら、合わせて金貨四十枚でお引き取りできます」

「分かりました」

「お預かりいたしましょうか」

 私は首飾りを見た。

「今日は、まだ」

 宝石商が帰ったあと、青い石を柔らかな布で包んだ。耳飾りと腕輪も、同じ箱へ収める。

 琥珀の髪飾りだけは、手元に残した。翌朝つけられるように、鏡の前へ置いた。

 その夜、悪女作戦帳の最初のページを開いた。

『王太子殿下から、婚約を破棄していただく』

 その文字に、一本の線を引く。婚約契約書を取り出し、宝石商の書きつけと並べた。

 金貨四十枚。もう一度確かめてから、明日持っていく鞄に契約書を入れた。


     ◇


 私は祖母の琥珀の髪飾りをつけて、王宮へ向かった。会議室には、レオナール殿下と父、儀典長、法務担当者が集まっていた。

 婚礼まで残り十日。

「イリス。声明文についての意見は聞いている」

 殿下は落ち着いた声で言った。

「だが、私は今も君が最も優れた王太子妃候補だと考えている。立派に務められるはずだ」

「はい。務めるための勉強は、七年間続けてまいりました」

 私は殿下を見た。

「ですが、結婚は望んでおりません」

 殿下の眉が寄った。

「以前もそう言っていたね。だが、婚約は両家の合意で結ばれたものだ。君一人の希望で、簡単に覆せる話ではない」

「承知しております」

 私は法務担当者に向き直った。

「婚姻に同意しない場合、契約の清算に進む。その理解で間違いありませんか」

「はい。その場合、婚礼は中止となります」

 父が顔をしかめた。

「イリス。金貨四十枚だぞ」

「分かっています。私の財産で、支払う準備をしました」

 父の視線が、私の髪飾りへ動いた。私は目の前の書類を見た。七年間、求められた署名は欠かさなかった。

 儀典の確認書も、予算の承認書も。今日の書類にも、私の名前が印字されている。

 その下には『同意する』と『同意しない』の二つの欄があった。ペンを取る。

『同意しない』

 印をつけ、自分の名前を署名欄に書いた。

「私の答えは、いいえです」

 会議室が静まり返った。殿下は書類を見つめていた。

「……費用を全額負担することになっても、考え直すつもりはないのか」

「ございません」

 父が何か言いかけた。

 けれど、殿下が片手を上げた。長い沈黙のあと、殿下は法務担当者へ顔を向ける。

「この書面を受理してくれ」

「かしこまりました」

 殿下は私を見た。

「私は、君が考え直すものだと思っていた」

 私は答えなかった。

 殿下は書類を閉じた。

「双方合意による婚約解消の書類を用意してくれ。清算金四十枚は、合意解消の場合の契約どおり、両家で折半とする」

 私は深く頭を下げた。

「ありがとうございます」

 父は険しい顔のままだったが、用意された書類に署名した。殿下も、続いて署名された。

 こうして、七年間続いた婚約が終わった。

 会議室を出ると、廊下には明るい日差しが差し込んでいた。

 私は琥珀の髪飾りに触れた。


     ◇


 翌日、宝石商に青い石の首飾りを渡した。

 金貨二十枚。

 耳飾りと腕輪は、持ち帰った。受け取った金貨の袋は、思ったより重かった。屋敷へ戻り、宝石箱に装身具を戻す。

 首飾りを収めていた、長い仕切りだけが空いた。私はそこの布を指でならしてから、蓋を閉じた。


     ◇


 婚約解消から七日後、私はセインへ手紙を書いた。

『お話ししたいことがあります。ご都合がよろしければ、お茶をご一緒しませんか』

 読み返して、ペンを持ち直す。

『先日、生姜入りの焼き菓子をいただきました。あなたがお好きか、聞きたくなりました』

 封をするまでに、ずいぶん時間がかかった。

 翌日、返事が届いた。

『ぜひ、お会いしたく存じます』

 その下に、少し小さな字で続いていた。

『生姜入りのものも好きです。どちらのお菓子でしょうか』

 私は便箋を持ったまま、笑ってしまった。


     ◇


 約束の日、王都の小さな喫茶店へ向かった。セインは、すでに窓際の席に座っていた。

 近衛の制服ではない。落ち着いた色の上着に白いシャツ。剣も身につけていなかった。

 私に気づくと立ち上がり、少し緊張した顔で微笑む。

「こんにちは、イリス様」

「こんにちは」

 向かいに座る。テーブルの向こうに彼がいる。それだけで、何から話せばいいのか分からなくなった。

 注文を取りに来た店員へ、セインが顔を向けた。

「私は紅茶を。イリス様は?」

「私も、同じものを」

 店員が去ると、セインが両手を膝の上に置いた。

「祝賀式の報告について、改めて謝らせてください。あなたを守ろうとして、あなたの意思をないがしろにしました」

「訂正の書類、読んだわ」

 彼は頷いた。言い訳も、許してほしいという言葉も続かなかった。

「あのときは悲しかった。これからは、困っていても、まず私に話してほしい」

「約束します」

 紅茶が運ばれてくる。セインは蜂蜜壺を私のほうへ寄せ、そのまま手を引いた。私はひと匙すくい、カップへ落とした。

「手紙に書いたお菓子ね。厨房で作っているから、お店では買えないの」

「そうでしたか」

「だから今度、持ってくるわ」

 言ってから、顔を上げた。彼は驚いたように私を見ていた。

「また、お会いしてもよろしいのですか」

「ええ。あなたと食べたくて、手紙を書いたのよ」

 セインの指が、カップの脇で止まった。少しの間、店の奥で食器の触れ合う音だけがしていた。

「イリス様。私は、あなたが好きです」

 いつもの落ち着いた顔ではなかった。返事を待つ間にも、彼の耳が赤くなっていく。

 私もカップに伸ばしかけた手を、膝へ戻した。

「私も、あなたが好きよ」

 セインが目を見開いた。

 それから俯き、口元を押さえた。

「困りました」

「何が?」

「嬉しくて、何を申し上げようとしていたか、分からなくなりました」

 私まで笑ってしまった。彼は顔を上げ、今度はつられたように笑った。

「お付き合いしていただけますか」

「はい。喜んで」


     ◇


 喫茶店を出ると、王都の通りには午後の日差しが差していた。セインが隣に並ぶ。

 肩が触れそうになって、離れる。さっきまで向かい合って話せていたのに、歩き出すと妙に照れくさかった。

「あの道順、考えてきました」

 セインが懐から紙を取り出した。庭園で見せてもらったものに、細い矢印が書き加えてある。

「焼き菓子屋の?」

「はい。ただ、こちらの店はもう売り切れでしょうから、今日は一軒だけでも」

「では、残りは次のお休みにしましょう」

 彼は紙を見て、それから私を見た。

「ちょうど、来週は丸一日空いております」

「その一日を、私にくれる?」

「喜んで」

 彼の手が、二人の間でためらうように上がった。

 私は、その手を取った。セインがこちらを見る。

「案内してちょうだい」

「はい」

 握り返してくれた手は、思っていたより温かかった。通りを渡り、小さな庭園の脇を歩く。

 彼の歩調は、いつもより少し遅い。私も急がなかった。

「ところで、来週は何軒回るの?」

「三軒です。候補を絞りましたので」

「それで三軒なの?」

「四軒目は、次の機会にしようかと」

 私は足を止め、笑ってしまった。セインも立ち止まる。笑い終えて顔を上げると、彼と目が合った。

 つないだ手を、そっと引かれる。

「口づけても、よろしいですか」

「ええ」

 私は彼に近づいた。唇が触れたのは、ほんの短い時間だった。離れたあとも、彼はすぐそばにいた。

 さっき告白してくれたときより、赤い顔をしている。

「……焼き菓子屋へ、行くのでしょう?」

「はい」

 返事をしたのに、セインは動かなかった。

 私も、つないだ手を離さなかった。


     ◇


 その夜、伯爵邸へ戻った私は、悪女作戦帳を開いた。机には、帰りにセインと買った蜂蜜の焼き菓子が一つ残っている。

 私は最後のページに、新しい作戦を書き込んだ。

『作戦:近衛騎士一名の休日を、丸一日奪う』

『実行日:次の休暇』

『本人の同意:取得済み』

『結果:休日の予約に成功』

 今度こそ、完璧な悪女作戦だった。


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