婚約破棄したいので悪女のふりをしたら、護衛騎士が全部美談にしてしまいます
悪女になることにした。王太子殿下に嫌われ、婚約を破棄していただくためである。
「それで、まず何をなさるのですか」
専属護衛のセイン・ヴァルツは、私が掲げた手帳を見ても眉一つ動かさなかった。
「嫌な女になるのよ」
「具体的には?」
「今、考えているところ」
「承知しました」
そこで納得しないでほしい。私は机に手帳を置いた。表紙には、昨夜、気合を入れて書いた文字がある。
『悪女作戦帳』
婚礼まで、あと三十日。
七年間続けてきた王太子妃教育の最後の一か月だった。
◇
先日の茶会で、私はレオナール殿下にお願いをした。
「亡くなった母の誕生日に、半日だけ実家へ戻ってもよろしいでしょうか」
殿下は予定表に目を落とした。
「その日は王太子妃教育がある。君なら、何を優先すべきか分かるだろう」
「母のお墓に、花を供えたいのです」
「花なら、使いを出せばいい」
殿下は予定表の次の項目へ目を移した。私は、それ以上母の話をしなかった。
茶会の終わりに、婚約を解消したいと申し上げた。殿下のお答えは、「婚礼前で不安になっているのだろう」だった。
「君なら立派に務められる。これまでの成績にも、何の問題もない」
結婚したくないのだと重ねてお伝えすると、父ともよく相談するようにと言われた。
父に相談すれば、出てきたのは婚約契約書だった。
「お前から解消を求めるなら、清算金を全額負担することになりかねん。金貨四十枚だ。家からは出さないぞ」
最終同意の場で婚姻を拒めば、婚礼は止められる。ただし、契約の清算は別に必要だった。
「それでも嫌なら、自分の財産で払うことだ」
部屋へ戻り、祖母から譲られた宝石箱を開けた。
青い石の首飾りに触れる。祖母はこれをつけるたび、鏡越しに私を呼び、留め具を確かめさせてくれた。
私は蓋を閉じた。
引き出しには、三度書き直した婚約解消の申し入れ書がある。どれも最後の署名欄は空いたままだった。
嫌だと言うだけでは、誰も聞いてくれない。押し通せば、父を怒らせ、祖母の形見を手放すことになる。
そこで、手帳に書いたのだ。
『王太子殿下から、婚約を破棄していただく』
あちらから断ってくだされば、父も私だけを責められない。清算も、一人で引き受けずに済むかもしれない。
問題は、私が悪女のなり方を習っていないことだった。
◇
最初の機会は、帰還兵の慰労式だった。私は儀典の実習として、会場の配置を任されていた。
「最前列の十六席を変更するわ」
会場図を広げると、セインが机のそばへ来た。
「そちらは、有力貴族の方々の席では?」
「ええ。そこへ、脚を負傷した帰還兵八人と、付き添いのご家族八人を座らせるの。貴族の方々には別の席を用意するわ」
先日の打ち合わせでは、杖をついた兵士が、案内係に妻の席を尋ねていた。家族席は会場の奥だと聞いて、妻のほうが心配そうな顔をしていたのを覚えている。
セインが会場図を覗き込む。
「出入口に近く、ご家族とも隣り合える配置ですね」
「そんなことより、相談もなく慣例の席を取り上げられたら、貴族の方々は怒るでしょう?」
「警備上も問題はなさそうです。よく考えられていますね」
「褒めないで!」
セインは困ったように眉を下げた。
変更案は儀典長の承認を得た。貴族たちには通知だけを送り、個別の相談はしなかった。
「イリス様」
会場図を片づけていると、セインが尋ねた。
「本当に、婚約を解消なさりたいのですか」
「ええ」
「承知しました」
「反対しないの?」
「婚約を決めるのは私ではありませんので。ただし、貴族の方々を怒らせる意図で変更なさることも報告いたします」
「それでいいわ。きちんと伝えてちょうだい」
「よい結果が生じた場合も報告いたしますが」
私は笑って頷いた。十六人もの有力貴族を怒らせるのだ。少しくらい感謝されたところで、問題はないはずだった。
◇
「昨日の通知は読んだ。しかし、なぜ我々への相談もなく席を変えたのだね!」
慰労式当日。侯爵閣下の声が、会場の入口に響き渡った。
来た!
「配置変更は私の判断です」
「君は、その席がどれほど重要か理解しているのか」
「もちろんでございます」
「ならば、なぜだ!」
ほかの貴族たちも振り向いた。若い儀典係が青ざめている。
「担当者は何をしていた。止めるべきだったのではないか」
侯爵が係員を睨むと、セインが口を開いた。
「恐れながら、決定はイリス様がなさいました。こちらの係員に変更を覆す権限はございません」
「護衛騎士が口を挟むのか」
「事実関係を申し上げました。また、各家への個別説明が不足していたことも事実です」
私は思わずセインを見た。護衛対象に不利なことまで、堂々と口にしている。
「侯爵閣下。説明不足の責任は私にございます。ご不満は、どうか私へお寄せください」
侯爵は厳しい顔で頷いた。
「王太子妃候補として、軽率な判断だったと申し上げておこう」
私は深く頭を下げた。心の中では拍手喝采だった。
それです!
その言葉を、ぜひ殿下にも!
結局、席を変更された十六人全員が不満を示した。
第一作戦は成功。
少なくとも、そのときはそう思っていた。
式典の後半、表彰を終えた帰還兵たちが前列へ戻ってきた。杖をついた男性が、隣に座った妻の手を取る。
妻が彼の胸元の勲章を指さし、何かを囁いた。男性は照れくさそうに笑った。
隣を見ると、セインも夫婦を見ていた。いつも厳格な彼の口元に、かすかな笑みが浮かんでいる。
私は思わず二度見した。
「何かございましたか」
「いいえ」
セインは不思議そうに首を傾げた。
式典のあと、あの夫婦が私のところへ来た。
「今日はありがとうございました。妻と一緒に座れて、嬉しかったです」
「勲章を見せてもらえたのも嬉しかったですよ。三回も自慢されましたから」
妻が笑うと、男性は「二回だろう」と言い返した。私もつられて笑ってしまった。
「せっかく王都へ来たんだ。帰りに何か食べていこうか」
「あなた、疲れていない?」
「座れる店なら、大丈夫だ」
「それなら、私が見つけたお店へ行きましょうよ」
夫婦はもう一度礼を言い、並んで歩いていった。その背中を見送りながら、少し羨ましくなった。
「イリス様は、あのように笑われるのですね」
隣から言われ、私はセインを見た。
「変だった?」
「いいえ。私も、つられてしまいました」
彼の口元に、まだ笑みが残っている。
殿下との茶会では、声を立てずに笑う癖がついていた。膝を揃え、背筋を伸ばし、話を遮らないように。
今、私は自分がどんな顔をしていたのか、少し気になった。
◇
『第一作戦:失敗』
儀典長からは帰還兵への配慮を褒められ、各家への説明不足を指摘された。セインの報告には、私が侯爵への説明を引き受けたことまで書かれていたという。
「あなた、私を褒めすぎじゃない?」
「見たことを報告しております」
「悪いところを、もっと見てちょうだい」
「努力いたします」
真面目に答える彼の目元に、薄い隈があった。昨日も、私が退出したあとに別の警備へ入ったと聞いている。
「それより、今日は休んだら?」
「午後まで、私の当番ですので」
翌日も、その次の日も、彼は朝から夕方まで立っていた。書類に目を落とすふりをしても、扉のそばの顔色が気になって仕方がない。
王太子妃教育には、専属護衛の勤務表を読む授業はなかった。
けれど、わがままを言うだけなら、私にもできる。近衛隊長へ面会を申し込み、私は顎を上げた。
「今後、私の護衛は一日二交代にしてちょうだい。一人に朝から晩までついてこられると、息が詰まるわ」
隣でセインが私を見た。隊長は、開いた当番表に目を落とす。
「何か、不都合がございましたか」
「私のわがままです。お手数だけれど、調整していただける?」
これなら、専属護衛を気まぐれで替えさせる令嬢である。しかもセインは休める。
隊長は少し考え、「当番を確認いたします」と答えた。詰所を出ると、セインが遠慮がちに尋ねた。
「私がおそばにいると、お気が休まりませんか」
「違うわ。あなた、ずっと疲れた顔をしているから」
つい本当のことを言ってしまった。
「それで、休ませようとなさったのですか」
「ええ。私の評判も悪くなるし、一度に解決するでしょう?」
セインは額に指を当てた。叱られるかと思ったけれど、小さく息が漏れただけだった。
「先に、私にも相談していただきたかったです」
「ごめんなさい。あなたは、どうしたかった?」
「隊長に、夜の警備との重複を調整していただこうかと。今朝、申し出るつもりでした」
私は彼を見つめた。
「……少し、早かったのね」
「はい。少しだけ」
その返事がおかしくて、笑ってしまった。セインも、困ったように笑っている。
数日後、私の護衛は試験的に二交代になった。セインが隊長に勤務の重複を報告し、当番表を組み直してもらったのだという。
ところが届いた礼状には、こうあった。
『護衛の疲労にお気づきくださったこと、感謝申し上げます』
「セイン」
「お気づきになったのは、事実ですので」
私は手帳を開き、大きなバツをつけた。
『第二作戦:失敗』
その日の午後、いつもより早く交代の騎士が来た。セインが退出しようとするのを、私は呼び止めた。
「お仕事が終わったら、お茶をご一緒しない?」
「私で、よろしいのですか」
「あなたを誘っているのよ」
彼は一瞬だけ黙り、柔らかく頷いた。
「では、喜んで」
◇
南庭園の茶席で、セインは剣帯を外して椅子に掛けた。
私の後ろに立っているより、向かいに座るほうが落ち着かないらしい。リリアがお菓子の皿を置くと、ようやく肩から力が抜けた。
「甘いもの、お好きなの?」
「はい。蜂蜜も、焼き菓子も」
彼はひと口食べ、目元を和らげた。あの慰労式で見た顔だ。
私は紅茶に蜂蜜を落とした。ひと匙。少し迷って、もうひと匙。
「正式な茶会では、あまり入れないの。子供っぽいと思われることがあるから」
セインは自分のカップにも、同じだけ入れた。
「私は、これくらいが好きです」
私は笑って、蜂蜜壺を彼の近くへ寄せた。お茶を飲みながら、休みの日の話をした。
「王都の焼き菓子屋を、回ってみたいんです」
「どこから行くの?」
「まだ決めきれません。行きたい店が増えてしまって」
彼は懐から小さな紙を取り出した。店の名前と、おすすめの菓子が細かく書いてある。
「ずいぶん調べたのね」
「はい。こちらの店は、昼前に売り切れるそうです」
紙を指す顔が、警備の説明をするときと同じだった。
「では、真っ先に行かなければね」
「そうなのです。ですが、こちらも午前中でなければ――」
言いかけて、彼が口を閉じた。
「失礼しました。お菓子の話ばかり」
「続きを聞かせて。二軒とも間に合う道順を考えましょうよ」
セインは少し驚き、それから私のほうへ紙を向けた。茶器を下げる時間になっても、道順はまだ決まらなかった。
次にお茶をご一緒した日、茶席に小さな蜂蜜壺が置かれていた。
「リリア、ありがとう」
「蜂蜜はヴァルツ卿がご用意くださいました」
私は隣を見た。セインが少し照れくさそうに視線を逸らす。
「こちらは、焼き菓子にも合うそうです」
「ありがとう」
セインは壺を手に取った。
「蜂蜜は、お入れになりますか」
「ええ」
彼が差し出した壺から蜂蜜をすくう。目が合うと、セインが笑った。そのせいで、もうひと匙多くなった。
◇
その日の帰り道、王宮の回廊で二人の貴族とすれ違った。
「アルベルン伯爵令嬢だ。護衛を半日で替えろと要求したという。気まぐれにも困ったものだ」
私は何事もない顔で通り過ぎようとした。
ところが、隣のセインが足を止めた。手袋をはめた右手が、強く握られている。
「セイン?」
呼ぶと、彼は手を開いた。
「失礼いたしました」
何も言わず、私の隣を歩き始める。
「私は怒っていないわ。そう思われたくて言ったのだもの」
「……はい」
それきり、回廊を抜けるまで彼は黙っていた。
数日後、今度は彼のほうからお茶へ誘ってくれた。
ところが当日、急な警備の交代が入り、約束は流れてしまった。
庭園には二人分の茶器が並んでいた。リリアが向かいのカップを片づけようとしたとき、私は思わず止めてしまった。
「もう少し、このままでいいわ」
翌朝、セインは私を見つけるなり頭を下げた。
「昨日は申し訳ありません。私からお誘いしたのに」
「お仕事だったのでしょう? 仕方ないわ」
「ですが、残念でした。あの時間を、楽しみにしておりましたので」
私は顔を上げた。
セインは少し照れたように笑った。
「いつか、勤務とは関係のない日にお会いできたらと思っています」
「私も、そう思うわ」
彼の耳が赤くなった。
私も、同じ顔をしている気がした。
◇
婚礼まで残り十五日となった日、王太子殿下の功績を称える祝賀式の案内が届いた。
式では、殿下の隣に私のための特別席が用意されるという。
「この席は辞退するわ」
名誉席なので、辞退しても規則違反にはならない。王太子殿下の隣に座る栄誉を、自ら拒否する。第三作戦としては申し分なかった。
翌日、会場に用意された席を見たとき、私は足を止めた。深い紅色の布が張られた、美しい椅子。
七年間、あそこに座る女性になるために努力してきた。
「イリス様」
隣にいたセインが声をかけた。
「今回も、悪女作戦ですか」
「ええ。そのつもりだったのだけれど」
私は椅子を見つめた。
「本当はね、あそこに座りたくないの」
セインは黙っていた。
「殿下の隣に座れば、皆が私を未来の王太子妃として見るでしょう。私自身が結婚を望んでいなくても」
私は彼を見た。
「私は、レオナール殿下と結婚したくないの」
セインは真剣な顔で頷いた。
「承知しました」
◇
翌日の祝賀式で、私は予定どおり特別席を辞退した。式の終了後、会場の出口で一人の貴族が儀典係に詰め寄っていた。
「殿下のお隣を拒むとは、王家への侮辱ではないか。誰があの令嬢にそんなことを許したのだ」
私は声をかけようとした。
けれど、その前にセインが一歩進み出た。
「席の辞退は、規則上認められております」
「規則の話ではない。殿下のお立場を考えれば、あまりにも軽率だろう」
「イリス様に、王家を侮辱する意図があったとは確認しておりません」
「では、何のために辞退したというのだ。相応の説明がなければ、この件は王家への侮辱として報告させてもらうぞ」
セインの右手が、わずかに強張った。彼が口を開きかけたところで、私は袖を引いた。
「理由は申し上げられません。辞退は私の判断です。セイン、行きましょう」
「はい」
会場を離れても、抗議の声はしばらく聞こえていた。回廊の角で、セインが足を緩める。
「イリス様。先ほどの件ですが」
「あなたには、昨日お話ししたとおりよ」
彼は私を見た。何か言いかけ、その視線が私の手元へ下がる。気づけば、私は扇を両手で握りしめていた。力を抜くと、指の付け根が痛んだ。
「……お部屋まで、お送りいたします」
「ありがとう」
歩き始めた彼は、いつもより半歩近くにいた。
◇
翌朝、リリアが王宮の回覧状を持ってきた。
『アルベルン伯爵令嬢は王太子殿下の功績を際立たせるため、自ら名誉席を辞退。婚礼を前に、殿下を支える揺るぎない決意を示した』
私は最後の一文を読み直した。
「誰が、こんな説明を?」
「近衛の報告をもとに、儀典担当者がまとめられたそうです」
私はセインを呼んだ。
「昨日の席のこと、どう報告したの?」
セインの視線が、私の手元の回覧状で止まった。
「殿下の功績を際立たせるために辞退されたと、報告しました」
「私が、そう言った?」
「いいえ」
私は回覧状を彼の前に置いた。
「先日、結婚したくないと話したでしょう。それなのに、ここには殿下を支える決意を示したと書いてあるわ」
「王家への侮辱として扱われるのを、防ぎたかったのです。儀典係から理由を尋ねられ、殿下への配慮によるものだと答えました」
「私に確かめてくれればよかったのに」
彼の手が、体の脇で握られた。
「回廊で、伺うつもりでした。ですが、おつらそうに見えて……私が非難を収めればよいと」
机の上の回覧状へ、目を落とす。そこには、私の名前で、私が望んでいないことが書かれていた。
「あなたは、蜂蜜を入れるかどうかも私に聞いてくれたわね」
セインが私を見た。
「あんな小さなことは、私に選ばせてくれたのに。どうして、人生で一番大切なことは、あなたが決めてしまうの?」
彼の顔から、血の気が引いた。
「私は、あなたになら分かってもらえたと思っていたの」
窓のほうを向いた。
「申し訳ありません」
少しして、深く頭を下げる気配がした。
「今日は、もう下がってちょうだい」
扉が閉まるまで、振り返らなかった。
◇
翌朝、セインは私の護衛から外れていた。本人が辞退を願い出たらしい。昼前には、回覧状の訂正版と、セインの署名が入った報告書の訂正が届いた。
『辞退の動機は本人に確認しておらず、報告者の判断により記載した。婚姻意思を示すものとして扱うことはできない』
近衛隊長による確認も添えられていた。私が彼に打ち明けた内容は、どこにも載っていない。
訂正文を封筒に戻した。南庭園へ行くと、いつもの茶席は空いていた。リリアがお茶を運んでくれる。蜂蜜壺は、以前と同じ場所に置かれていた。
「今日は、こちらのお菓子でよろしいですか」
リリアが皿を置いた。
初めて見る焼き菓子だった。表面に薄く蜜が塗られている。
「これ、セインが好きそう――」
言いかけて、口を閉じた。リリアは何も尋ねなかった。私は焼き菓子を一つ取った。
甘くて、少しだけ、生姜の味がした。彼は、こういう菓子も好きなのだろうか。私はカップを持ち直した。
リリアが二つ目の茶器を片づける。
今日は、止めなかった。
◇
その日の午後、婚礼前の声明文が届いた。
『私は王太子殿下との婚姻を心から喜び、婚礼の日を待ち望んでおります』
私はその一文に線を引いた。
「こちらは削除してちょうだい」
儀典係が困った顔をした。
「では、『婚姻を光栄に思っております』ではいかがでしょう」
「それも違うわ。私は結婚を望んでいないの」
係員のペンが止まった。
「ですが、これまでの声明にも、同様の文言がございます」
机の端に置かれた控えを見る。昨年の祝賀会。その前の年の、婚約記念式。どちらにも私の署名があった。
差し出されたとき、違うと思った。それでも、決まり文句だからと自分を納得させた。
「……ええ。前のものには、署名したわ」
私は声明文を係員へ返した。
「今回は、できません」
係員が退出したあと、引き出しを開けた。書きかけの申し入れ書を取り出し、机に並べる。
どの紙にも、何度も言葉を変えて書いてあった。最後の署名欄は、空いたままだった。
私は一枚ずつ重ね、脇へ寄せた。
◇
夕方、宝石商に祖母の装身具を見てもらった。青い石の首飾り。揃いの耳飾り。金の腕輪。
宝石商は一つずつ確かめ、金額を書きつけた。
「こちらでしたら、合わせて金貨四十枚でお引き取りできます」
「分かりました」
「お預かりいたしましょうか」
私は首飾りを見た。
「今日は、まだ」
宝石商が帰ったあと、青い石を柔らかな布で包んだ。耳飾りと腕輪も、同じ箱へ収める。
琥珀の髪飾りだけは、手元に残した。翌朝つけられるように、鏡の前へ置いた。
その夜、悪女作戦帳の最初のページを開いた。
『王太子殿下から、婚約を破棄していただく』
その文字に、一本の線を引く。婚約契約書を取り出し、宝石商の書きつけと並べた。
金貨四十枚。もう一度確かめてから、明日持っていく鞄に契約書を入れた。
◇
私は祖母の琥珀の髪飾りをつけて、王宮へ向かった。会議室には、レオナール殿下と父、儀典長、法務担当者が集まっていた。
婚礼まで残り十日。
「イリス。声明文についての意見は聞いている」
殿下は落ち着いた声で言った。
「だが、私は今も君が最も優れた王太子妃候補だと考えている。立派に務められるはずだ」
「はい。務めるための勉強は、七年間続けてまいりました」
私は殿下を見た。
「ですが、結婚は望んでおりません」
殿下の眉が寄った。
「以前もそう言っていたね。だが、婚約は両家の合意で結ばれたものだ。君一人の希望で、簡単に覆せる話ではない」
「承知しております」
私は法務担当者に向き直った。
「婚姻に同意しない場合、契約の清算に進む。その理解で間違いありませんか」
「はい。その場合、婚礼は中止となります」
父が顔をしかめた。
「イリス。金貨四十枚だぞ」
「分かっています。私の財産で、支払う準備をしました」
父の視線が、私の髪飾りへ動いた。私は目の前の書類を見た。七年間、求められた署名は欠かさなかった。
儀典の確認書も、予算の承認書も。今日の書類にも、私の名前が印字されている。
その下には『同意する』と『同意しない』の二つの欄があった。ペンを取る。
『同意しない』
印をつけ、自分の名前を署名欄に書いた。
「私の答えは、いいえです」
会議室が静まり返った。殿下は書類を見つめていた。
「……費用を全額負担することになっても、考え直すつもりはないのか」
「ございません」
父が何か言いかけた。
けれど、殿下が片手を上げた。長い沈黙のあと、殿下は法務担当者へ顔を向ける。
「この書面を受理してくれ」
「かしこまりました」
殿下は私を見た。
「私は、君が考え直すものだと思っていた」
私は答えなかった。
殿下は書類を閉じた。
「双方合意による婚約解消の書類を用意してくれ。清算金四十枚は、合意解消の場合の契約どおり、両家で折半とする」
私は深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
父は険しい顔のままだったが、用意された書類に署名した。殿下も、続いて署名された。
こうして、七年間続いた婚約が終わった。
会議室を出ると、廊下には明るい日差しが差し込んでいた。
私は琥珀の髪飾りに触れた。
◇
翌日、宝石商に青い石の首飾りを渡した。
金貨二十枚。
耳飾りと腕輪は、持ち帰った。受け取った金貨の袋は、思ったより重かった。屋敷へ戻り、宝石箱に装身具を戻す。
首飾りを収めていた、長い仕切りだけが空いた。私はそこの布を指でならしてから、蓋を閉じた。
◇
婚約解消から七日後、私はセインへ手紙を書いた。
『お話ししたいことがあります。ご都合がよろしければ、お茶をご一緒しませんか』
読み返して、ペンを持ち直す。
『先日、生姜入りの焼き菓子をいただきました。あなたがお好きか、聞きたくなりました』
封をするまでに、ずいぶん時間がかかった。
翌日、返事が届いた。
『ぜひ、お会いしたく存じます』
その下に、少し小さな字で続いていた。
『生姜入りのものも好きです。どちらのお菓子でしょうか』
私は便箋を持ったまま、笑ってしまった。
◇
約束の日、王都の小さな喫茶店へ向かった。セインは、すでに窓際の席に座っていた。
近衛の制服ではない。落ち着いた色の上着に白いシャツ。剣も身につけていなかった。
私に気づくと立ち上がり、少し緊張した顔で微笑む。
「こんにちは、イリス様」
「こんにちは」
向かいに座る。テーブルの向こうに彼がいる。それだけで、何から話せばいいのか分からなくなった。
注文を取りに来た店員へ、セインが顔を向けた。
「私は紅茶を。イリス様は?」
「私も、同じものを」
店員が去ると、セインが両手を膝の上に置いた。
「祝賀式の報告について、改めて謝らせてください。あなたを守ろうとして、あなたの意思をないがしろにしました」
「訂正の書類、読んだわ」
彼は頷いた。言い訳も、許してほしいという言葉も続かなかった。
「あのときは悲しかった。これからは、困っていても、まず私に話してほしい」
「約束します」
紅茶が運ばれてくる。セインは蜂蜜壺を私のほうへ寄せ、そのまま手を引いた。私はひと匙すくい、カップへ落とした。
「手紙に書いたお菓子ね。厨房で作っているから、お店では買えないの」
「そうでしたか」
「だから今度、持ってくるわ」
言ってから、顔を上げた。彼は驚いたように私を見ていた。
「また、お会いしてもよろしいのですか」
「ええ。あなたと食べたくて、手紙を書いたのよ」
セインの指が、カップの脇で止まった。少しの間、店の奥で食器の触れ合う音だけがしていた。
「イリス様。私は、あなたが好きです」
いつもの落ち着いた顔ではなかった。返事を待つ間にも、彼の耳が赤くなっていく。
私もカップに伸ばしかけた手を、膝へ戻した。
「私も、あなたが好きよ」
セインが目を見開いた。
それから俯き、口元を押さえた。
「困りました」
「何が?」
「嬉しくて、何を申し上げようとしていたか、分からなくなりました」
私まで笑ってしまった。彼は顔を上げ、今度はつられたように笑った。
「お付き合いしていただけますか」
「はい。喜んで」
◇
喫茶店を出ると、王都の通りには午後の日差しが差していた。セインが隣に並ぶ。
肩が触れそうになって、離れる。さっきまで向かい合って話せていたのに、歩き出すと妙に照れくさかった。
「あの道順、考えてきました」
セインが懐から紙を取り出した。庭園で見せてもらったものに、細い矢印が書き加えてある。
「焼き菓子屋の?」
「はい。ただ、こちらの店はもう売り切れでしょうから、今日は一軒だけでも」
「では、残りは次のお休みにしましょう」
彼は紙を見て、それから私を見た。
「ちょうど、来週は丸一日空いております」
「その一日を、私にくれる?」
「喜んで」
彼の手が、二人の間でためらうように上がった。
私は、その手を取った。セインがこちらを見る。
「案内してちょうだい」
「はい」
握り返してくれた手は、思っていたより温かかった。通りを渡り、小さな庭園の脇を歩く。
彼の歩調は、いつもより少し遅い。私も急がなかった。
「ところで、来週は何軒回るの?」
「三軒です。候補を絞りましたので」
「それで三軒なの?」
「四軒目は、次の機会にしようかと」
私は足を止め、笑ってしまった。セインも立ち止まる。笑い終えて顔を上げると、彼と目が合った。
つないだ手を、そっと引かれる。
「口づけても、よろしいですか」
「ええ」
私は彼に近づいた。唇が触れたのは、ほんの短い時間だった。離れたあとも、彼はすぐそばにいた。
さっき告白してくれたときより、赤い顔をしている。
「……焼き菓子屋へ、行くのでしょう?」
「はい」
返事をしたのに、セインは動かなかった。
私も、つないだ手を離さなかった。
◇
その夜、伯爵邸へ戻った私は、悪女作戦帳を開いた。机には、帰りにセインと買った蜂蜜の焼き菓子が一つ残っている。
私は最後のページに、新しい作戦を書き込んだ。
『作戦:近衛騎士一名の休日を、丸一日奪う』
『実行日:次の休暇』
『本人の同意:取得済み』
『結果:休日の予約に成功』
今度こそ、完璧な悪女作戦だった。




