第71章 吹雪の境界線で、剣が止まった
雪が横殴りに叩きつけてきて、視界は白一色だった。空と地面の区別がつかず、足元の感覚だけが頼りになる。踏み出すたび、脛まで沈む。重ね着した外套の内側に冷気が染み込み、呼吸をするたび喉の奥が痛んだ。
境界標の柱が、ぼんやりと見えた。王国アルセリオの外縁。ここを越えれば、領地の気配が変わる。そう分かっていても、身体が言うことをきかない。魔力を巡らせようとしても、指先が痺れて集中が途切れる。
剣の柄に手を掛けた。倒れる前に、せめて姿勢だけは保とうとしたかった。だが、膝が笑い、雪面に触れた瞬間、力が抜けた。
――ここで終わるのか。
そんな言葉が浮かんだのが、妙に腹立たしかった。王城で婚約を失った時も、似たような言葉を向けられた気がする。終わりだ、役目を果たせなかった、と。だからこそ、こんな形で区切られるのは御免だった。
視界が揺れ、白が遠ざかる。
◇
次に目を開けたとき、天井があった。石造りの梁。規則正しく並んだ木目。吹雪の唸りは遠く、代わりに薪の爆ぜる音が耳に届く。鼻をくすぐるのは、肉と香草の匂いだった。
喉が焼けるように乾いている。起き上がろうとして、全身が重いことに気づく。毛布が何枚も掛けられていた。
着るものも、旅装束から普通の服に変えられている。
「目が覚めたか」
低い声。振り向くと、長身の男が立っていた。厚手の外套を脱ぎ、剣を壁に立て掛けている。鎧は実用一点張りで、装飾は少ない。辺境の人間だと一目で分かる。
「暖かい茶だ」
差し出された木杯を受け取る。指が震え、少しこぼした。それを見て、男は眉を動かすだけで何も言わない。
茶を飲み干すと、胸の奥がようやく落ち着いた。
「名を聞いてもいいか」
答えようとして、一瞬だけ迷う。名は、時に刃になる。
「リュシア・エーベルハルト」
姓まで含めて告げた。隠す理由はない。隠しても、いずれ分かる。
男は小さくうなずいた。
「辺境伯ハインリヒ・バウアー。この城の主だ」
肩書を聞いても、胸は騒がなかった。王城で聞き慣れた称号とは、重さが違う。
武勇に優れた国境を守る男。いつも冷静で人付き合いが悪く、氷の辺境伯と呼ばれている。身分が高い貴族にも態度を変えない。それが許されているほど、強い力を持っている。
「雪原で倒れていた。見つけなければ、そのまま凍っていただろう」
「……助けてもらったようだ」
「生きているなら、それでいい」
その言い方が、胸に引っかかった。評価も詮索もない。ただ事実だけを置かれた気がした。
毛布の端を握り、身体を起こす。痛みはあるが、動ける。
「無理はするな」
「大丈夫だ。すぐに発たないと」
短く返すと、ハインリヒは鼻で息を吐いた。
「動けるようだな。だが、外は吹雪だ。出発する前に、回復を優先しろ」
運ばれてきたのは、熱いシチューだった。具は大ぶりで、腹を満たすことを目的にしている。匙を動かすたび、身体の奥に熱が広がる。
「……うまい」
それだけ言うと、ハインリヒは少しだけ口角を上げた。
「噂の令嬢の言い方ではないな。腹が満ちれば、判断も戻る」
食べ終えた頃、身体の感覚が戻ってきた。雪の中で削れた魔力も、わずかに巡り始める。
「礼は、どうすればいい」
そう尋ねると、ハインリヒは即座に答えた。
「城の仕事をしていけ」
拍子抜けするほど、当然の調子だった。
「助けた礼だ。滞在費と思えばいい。拒むなら、今すぐ外に出ても構わん」
外の吹雪を思い出し、即答した。
「今は、やるしかないようだ」
「よし、では城の家事をしろ。それが仕事だ」
それだけで話は終わった。
立ち上がり、剣の位置を確かめる。そこにあると分かるだけで、気持ちが落ち着く。
婚約を失ってから、誰かに指示されるのは久しぶりだった。だが、それが不快ではない。役に立てと言われる方が、よほど分かりやすい。
雪に倒れた剣は、まだ折れていない。
そう確かめながら、城の中へと歩き出した。
◇
リュシアが城に運び込まれたのを見ていた一団があった。
マリアンヌの刺客達だ。
「手を出しづらい場所に入ったな。とりあえず戻ってマリアンヌ様に報告するぞ」
一団は、王都へ足早に去っていった。
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