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第60章 抑え込まれていた剣

 アルセリオの北寄りの森道を一人で進んでいたが、その足が不意に止まったのは、空気が重く沈み、土と獣と血の匂いが混じった嫌な気配が、前方からはっきりと伝わってきたからだった。


「……ああ、面倒なのがいるわね」


 独りごちた声は低く、自然と剣の柄に指がかかるが、それを誰に咎められることも、令嬢らしく振る舞えなどと諭されることも、もう私にはないのだと思うと、胸の奥で何かが軽く弾けるような感覚があった。



 木々の間を抜けた先の開けた場所で、それは待っていたかのように姿を現した。


「うわ……聞いてた話より、ずっとでかいじゃない」


 思わず声が漏れたのも無理はなく、そこにいたのは、これまで討伐してきたどの個体よりも明らかに巨体で、皮膚は岩のように硬く、鈍く光る目を持つトロールで、呼吸のたびに地面がわずかに震えるのが分かるほどだった。


「まあいいわ、逃げる気は最初からないし」


 そう言って一歩踏み出した瞬間、トロールが唸り声を上げ、太い腕を振り上げたが、その動きは大きい分だけ単純で、地を蹴り、剣を抜きながら横に跳び、空中で魔力を練り上げた。


「遅い!」


 剣に纏わせた魔力をそのまま斬撃に乗せ、腕を狙って振り抜くと、鈍い音と共に刃は弾かれ、皮膚の表面に浅い傷を残すだけに終わったが、それでも効いていないわけではないらしく、トロールは怒りを露わにして吠えた。


「……ああ、そうだ、もう“大人しく立つだけの令嬢”じゃないのよ」


 その言葉は、誰に聞かせるでもなく、自分自身に言い聞かせるように吐き出されたもので、かつて舞踏会の広間で、剣を握るな、前に出るな、黙って微笑んでいろと言われ続けた日々が、一瞬だけ脳裏をよぎったが、今はそれを振り払うように足を踏み込み、正面から距離を詰めた。



「来るなら来い、叩き潰す方が早い」


 挑発するように言い放った途端、トロールは両腕を振り回し、地面を叩き割る勢いで突進してきたが、真正面から受けるつもりはなく、足運びで間合いをずらしながら、魔法を連続で叩き込んでいく。


 火球が肩口に炸裂し、雷が足元を貫き、氷が動きを一瞬だけ鈍らせるが、それでも倒れないそのしぶとさに、舌打ちしながらも、胸の奥で奇妙な高揚を感じていた。


「いいじゃない、これくらいの方が燃えるわ」


 剣と魔法を同時に使う動きは、婚約中には何度も止められてきたが、今は誰の目も気にせず、身体が覚えている通りに動けることが、ただただ楽しかった。


 しかし、楽しいだけで終わらないのが現実で、トロールの一撃がかすめただけで、肋に鈍い痛みが走り、呼吸が一瞬詰まる。


「っ……!」


 地面を転がりながら体勢を立て直し、剣を支えに立ち上がった時には、息が荒くなっているのが自分でも分かった。


「さすがに、強いわね……」


 それでも退く選択肢はなく、ここで逃げれば、次にこの道を通る誰かが犠牲になるのは目に見えていたし、何より、今、自分の力で立っているのだという実感を、ここで手放したくなかった。



 最後は、全魔力を一気に剣に流し込み、正面から突っ込んだ。


「終わりよ!」


 渾身の一撃は、今度こそトロールの胸を貫き、巨体は数歩よろめいた後、地響きを立てて崩れ落ちた。


 勝った、と頭では理解した瞬間、力が抜け、膝をついた。


「……はあ、はあ……さすがに、無茶したか」


 視界が少し揺れ、全身に疲労がのしかかるが、それでも剣を手放さなかったのは、長年の癖のようなものだろう。


 しばらくその場で呼吸を整え、立ち上がった私は、森の外れに見える小さな村の屋根を確認し、そちらへ向かうことにした。


「休める場所があるだけ、運は悪くないわね」


 そう呟きながら歩き出した足取りは重かったが、胸の奥には、確かな充足感があった。



 こうして、強大なトロールを倒し、負傷と疲労を抱えたまま、近くの村へと向かったのであり、この時点では、この一件が思いもよらない形で広がっていくなど、考えもしなかった。

よろしければ何点でも構いませんので評価いただけると嬉しいです。

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