第60章 抑え込まれていた剣
アルセリオの北寄りの森道を一人で進んでいたが、その足が不意に止まったのは、空気が重く沈み、土と獣と血の匂いが混じった嫌な気配が、前方からはっきりと伝わってきたからだった。
「……ああ、面倒なのがいるわね」
独りごちた声は低く、自然と剣の柄に指がかかるが、それを誰に咎められることも、令嬢らしく振る舞えなどと諭されることも、もう私にはないのだと思うと、胸の奥で何かが軽く弾けるような感覚があった。
◇
木々の間を抜けた先の開けた場所で、それは待っていたかのように姿を現した。
「うわ……聞いてた話より、ずっとでかいじゃない」
思わず声が漏れたのも無理はなく、そこにいたのは、これまで討伐してきたどの個体よりも明らかに巨体で、皮膚は岩のように硬く、鈍く光る目を持つトロールで、呼吸のたびに地面がわずかに震えるのが分かるほどだった。
「まあいいわ、逃げる気は最初からないし」
そう言って一歩踏み出した瞬間、トロールが唸り声を上げ、太い腕を振り上げたが、その動きは大きい分だけ単純で、地を蹴り、剣を抜きながら横に跳び、空中で魔力を練り上げた。
「遅い!」
剣に纏わせた魔力をそのまま斬撃に乗せ、腕を狙って振り抜くと、鈍い音と共に刃は弾かれ、皮膚の表面に浅い傷を残すだけに終わったが、それでも効いていないわけではないらしく、トロールは怒りを露わにして吠えた。
「……ああ、そうだ、もう“大人しく立つだけの令嬢”じゃないのよ」
その言葉は、誰に聞かせるでもなく、自分自身に言い聞かせるように吐き出されたもので、かつて舞踏会の広間で、剣を握るな、前に出るな、黙って微笑んでいろと言われ続けた日々が、一瞬だけ脳裏をよぎったが、今はそれを振り払うように足を踏み込み、正面から距離を詰めた。
◇
「来るなら来い、叩き潰す方が早い」
挑発するように言い放った途端、トロールは両腕を振り回し、地面を叩き割る勢いで突進してきたが、真正面から受けるつもりはなく、足運びで間合いをずらしながら、魔法を連続で叩き込んでいく。
火球が肩口に炸裂し、雷が足元を貫き、氷が動きを一瞬だけ鈍らせるが、それでも倒れないそのしぶとさに、舌打ちしながらも、胸の奥で奇妙な高揚を感じていた。
「いいじゃない、これくらいの方が燃えるわ」
剣と魔法を同時に使う動きは、婚約中には何度も止められてきたが、今は誰の目も気にせず、身体が覚えている通りに動けることが、ただただ楽しかった。
しかし、楽しいだけで終わらないのが現実で、トロールの一撃がかすめただけで、肋に鈍い痛みが走り、呼吸が一瞬詰まる。
「っ……!」
地面を転がりながら体勢を立て直し、剣を支えに立ち上がった時には、息が荒くなっているのが自分でも分かった。
「さすがに、強いわね……」
それでも退く選択肢はなく、ここで逃げれば、次にこの道を通る誰かが犠牲になるのは目に見えていたし、何より、今、自分の力で立っているのだという実感を、ここで手放したくなかった。
◇
最後は、全魔力を一気に剣に流し込み、正面から突っ込んだ。
「終わりよ!」
渾身の一撃は、今度こそトロールの胸を貫き、巨体は数歩よろめいた後、地響きを立てて崩れ落ちた。
勝った、と頭では理解した瞬間、力が抜け、膝をついた。
「……はあ、はあ……さすがに、無茶したか」
視界が少し揺れ、全身に疲労がのしかかるが、それでも剣を手放さなかったのは、長年の癖のようなものだろう。
しばらくその場で呼吸を整え、立ち上がった私は、森の外れに見える小さな村の屋根を確認し、そちらへ向かうことにした。
「休める場所があるだけ、運は悪くないわね」
そう呟きながら歩き出した足取りは重かったが、胸の奥には、確かな充足感があった。
◇
こうして、強大なトロールを倒し、負傷と疲労を抱えたまま、近くの村へと向かったのであり、この時点では、この一件が思いもよらない形で広がっていくなど、考えもしなかった。
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