第56章 殺さなかった剣
決闘当日の朝、宿の窓から差し込む光はやけに白く、目を覚ました瞬間から胸の奥に小さな重さを抱えているのを自覚していたが、それを言葉にする事はせず、いつも通り剣帯を締め、刃の状態を確かめ、ただ今日という日を淡々と迎える準備だけを整えていた。
◇
「来てくださって、ありがとうございます、あなたが来てくれただけで、少し落ち着けます」
決闘場へ向かう途中、若い貴族はそう言って私の隣を歩き、声は落ち着いているようでいて微かに震えており、彼の横顔を一瞥してから、歩幅を合わせるでも離すでもなく、そのまま前を見据えて返した。
「落ち着く必要はない、剣を振る時に必要なのは静けさじゃなく、迷わない事だ、昨日までやった事をそのまま出せばいい、それ以上も以下もない」
彼は一度だけ小さく息を吸い込み、深く頷き、その仕草に余計な言葉を足さず、これ以上言えば剣に余分な影が落ちると判断して口を閉じた。
◇
決闘場にはすでに多くの人が集まっており、両家の家臣や街の有力者らしき顔ぶれが視界に入り、ざわめきが空気を重くしていたが、若い貴族は一歩ずつ前に進み、その背中は稽古場で見せていた迷いを振り落としたように見えた。
「始め!この街古来の取り決めにより、決着は相手が絶命した時とする!」
合図と同時に剣が交わり、金属音が乾いた空に響き、観戦席から一瞬たりとも視線を逸らさず、彼の足運び、肩の動き、呼吸の間を追い続け、稽古で叩き込んだ事が形になっているのを感じて、無意識のうちに拳を握っていた。
相手の貴族は年長だけあって経験があり、力任せではなく間合いとタイミングで攻めてくるが、若い貴族は逃げずに踏み込み、受けるだけで終わらせず、剣を前に出し続けていた。
◇
やがて一瞬の隙を突いて、若い貴族の剣が相手の肩を打ち、相手は体勢を崩して地面に膝をつき、場内がどよめきに包まれたが、その次の瞬間、若い貴族の剣は相手の喉元で止まり、空気が張り詰めるのがはっきりと分かった。
「……終わりだ」
相手の貴族がそう呟いたが、若い貴族は剣を下ろさず、ほんの一拍、迷うような間を置いてから、ゆっくりと剣を引き、場内にざわめきが一気に広がり、思わず立ち上がりそうになる衝動を必死に抑えた。
「何をしている、止めを刺せ」
どこからか飛んだ声に、若い貴族の肩がわずかに揺れ、彼は剣を握り直したが、結局その刃は再び振り下ろされる事はなく、審判役の声が響き渡り、決闘は無効であると告げられた。
◇
決闘場を出た直後、若い貴族は私の前に立ち、言葉を探すように口を開いては閉じ、やがて堪えきれないように声を上げた。
「勝ったはずなのに、どうして、こんな事に」
「剣を止めたのは、お前だ」
短くそう返し、彼は唇を噛みしめて俯いたが、その姿に私は叱責も慰めもせず、ただ事実だけを置いた。
「殺さなかった事を、後悔しているのか」
彼は首を横に振り、しかしすぐに縦にも振れず、答えを出せないまま視線を彷徨わせ、その様子を見て私は深く息を吐いた。
「なら、その迷いごと抱えろ、今日の剣は、お前が選んだ結果だ」
そう言って背を向けた瞬間、街の方から怒号が聞こえ、空気が一段重くなるのを感じ、足を止めずに歩きながら、ここから先は自分の手を離れた場所で、別の火種が燃え始めている事をはっきりと理解していた。
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