第54章 立ち寄っただけの街で
私はリュシア・エーベルハルト、伯爵家に生まれた身でありながら今は一人の冒険者として各地を歩き回り、剣と魔法を携えて魔物を叩き伏せる生活を選んでいる女だが、その日も特別な目的があったわけではなく、単に街道の先で魔物の出没が増えていると聞いたから立ち寄っただけで、長居するつもりなど毛頭なかった。
◇
「ようこそ、アルセリオ西境、ラグナ街の冒険者ギルドへ、登録の確認と簡単な用件をお願いできますか」
木製のカウンター越しに声を掛けてきた受付の女性は、忙しそうに書類を整理しながらも私の剣と外套を一目で見て取り、旅慣れた冒険者だと判断したらしく、余計な詮索をせずに要件だけを尋ねてきたので、私はそれが気に入って肩の力を抜きながら名と等級を告げ、この街で受けられる依頼があれば教えてほしいとだけ答えた。
「魔物退治なら周辺の森と旧街道にいくつか出ていますが、今はそれよりも少し厄介な案件が多くてですね、街の空気も落ち着かないんです」
受付の女性は声を潜めるでもなく淡々と言ったが、その言い方が逆に妙な緊張を含んでいて、私は思わず眉をひそめ、魔物より厄介なものがこの街にあるのかと問い返すと、彼女は一瞬だけ視線を泳がせてから、別に隠す話でもないとばかりに続けた。
「二人の貴族様が、領地の境を巡って決闘をする事になっていまして、その余波で街の人間まで落ち着かなくなっているんですよ、冒険者同士の喧嘩なら止め方も分かるんですが、あちらは血筋も家も絡む話ですから」
私はその言葉を聞いた瞬間、喉の奥に小さな苦みが広がるのを感じたが、表情には出さずに軽く肩をすくめ、また面倒な場所に足を踏み入れてしまったものだと内心で舌打ちしつつも、だからといって今さら街を出る理由にもならず、話の流れで詳しく聞かせてほしいと促した。
「決闘をするのは若い領主様と年長の領主様で、どちらも引く気はなく、正式な場で白黒をつけるそうです、ただ若い方が剣に自信がなくて、指導役を探しているという話がありまして」
そこまで聞いたところで、私は自分の足が一歩前に出ている事に気付き、内心でしまったと思いながらも、剣の指導という言葉が耳に残って離れず、王都で絹のドレスを着て微笑むだけの日々を思い出すより先に、汗と鉄の匂いがする稽古場の光景が頭に浮かんでしまった。
「その指導役ってのは、もう決まっているのか」
問いは自然に口を突いて出てしまい、受付の女性は驚いたように目を瞬かせた後、まだ正式には決まっていないと答え、危険も大きいから引き受け手が少ないのだと付け加えたが、その説明を聞き終わる前に、私は無意識のうちに腰の剣の柄に手を置いていた。
「別に、長居するつもりはないんだが、剣を教えるだけなら出来なくはない、決闘そのものに口を出す気も、深入りする気もない、それでもいいなら話を聞くくらいは構わない」
自分でも驚くほど淡々とした声だったが、受付の女性は一瞬だけ安堵したように微笑み、すぐに奥の控室へ声を掛けに行き、私はカウンターの前で腕を組みながら、なぜ自分がこんな申し出をしたのかを考えないようにしていた。
◇
しばらくして現れた若い貴族は、年の頃は二十歳前後だろうか、整った顔立ちに貴族らしい礼儀正しさを備えていたが、視線の奥に迷いと緊張がはっきりと見え、剣を握る者特有の鋭さよりも、人の顔色をうかがう癖の方が先に立っているように思えた。
「あなたが、剣の指導役を検討してくださる冒険者の方ですか、私は――」
「名乗りは後でいい、ここでは立場も肩書も関係ない、剣を振るつもりがあるかどうか、それだけ教えてくれ」
私がそう遮ると、彼は一瞬戸惑ったように口を閉ざしたが、やがて小さく息を吸い込み、覚悟を決めたように真っ直ぐこちらを見て頷き、私はその反応を見て、少なくとも逃げ出すつもりはないらしいと判断した。
「分かった、条件を確認しよう、私はあくまで剣の振り方を教えるだけだ、勝てとも負けろとも言わないし、結果に責任も持たない、それでもいいなら、依頼として受ける」
若い貴族は少し考えた後、深く頭を下げ、その姿に私はかつて抑え込まれていた自分自身を重ねる事はなかったが、それでも胸の奥で何かが小さく動いたのを感じ、ここまで来たら中途半端には出来ないと腹を括った。
◇
その日のうちに簡単な打ち合わせを終え、私は街外れの宿に戻る事にしたが、通りを歩く人々の視線には明らかな緊張があり、決闘という言葉が街全体に影を落としているのが肌で分かり、私は旅人としての距離感を保ちながらも、この街で剣を抜く事になる可能性を否定出来ず、宿の扉をくぐる前に夜空を見上げて静かに息を吐いた。
「本当に、立ち寄っただけのつもりだったんだけどな」
誰に聞かせるでもない独り言を零しながら、私は剣を外して椅子に腰掛け、明日から始まる稽古の事だけを考える事にして、この街で過ごす最初の夜を迎えた。
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