第29章 泣いているものを見捨てない
森に入った時点で嫌な予感はしていたのだが、予感というものは当たる時ほど音を立てて主張するものらしく、剣の柄に指を掛けたまま、木々の隙間から聞こえてくる高くかすれた泣き声に足を止め、「そこにいるのは誰だ、野生の獣なら距離を取れ、怪我をしているなら隠れる必要はない、私が敵なら最初から踏み込んでいる」と森に向かって声を投げた。
返事はすぐに返ってこなかったが、泣き声だけは止まらず、息を吸うたびに喉がひくりと鳴る音が混じっていたので、鎧の音を抑えながら一歩ずつ近づき、根元が抉れた大木の陰に小さな影を見つけた瞬間、「なるほど、泣き声の正体はお前か」と息を吐いた。
そこにいたのは子どもと言っていいサイズのドラゴンで、翼は折りたたまれたまま震え、鱗はまだ艶が浅く、爪も角も頼りなげで、それでも黄金色の瞳だけは必死にこちらを睨み返してきたので、剣を抜かずにしゃがみ込み、「大丈夫だ、私は狩人でも猟師でもない、そして今すぐお前をどうこうするつもりもない」と落ち着いた声で告げる。
「……ほんとうに?」
小さなドラゴンは涙で濡れた顔を上げ、疑うように首を傾げながらそう問い返してきたが、その問いの中に敵意よりも恐怖が滲んでいたため、即座にうなずき、「本当だ、少なくとも今この森で泣いている存在を見つけて、無視して通り過ぎるほど器用じゃない」と言い切った。
「ぼく、おかあさんとはぐれた、さっきまで一緒だったのに、風が変わって、匂いが消えて、それで……」
言葉の途中でまた泣きそうになる小ドラゴンに、片膝をついたまま距離を詰め、「泣くなとは言わないが声を抑えろ、この森は静かすぎる、目立てば厄介な連中を呼ぶ」と忠告しつつ、彼の体に手を伸ばして怪我がないか確かめた。
「触ってもいいの?」
「いいかどうか聞く余裕があるなら、致命的な怪我はないな、安心しろ、血も折れもない、少なくとも今すぐどうにかなる状態じゃない」
私の手の感触に少し落ち着いたのか、小ドラゴンは翼をすぼめながら、「おかあさん、強いのに、ぼくが遅れたから、置いていかれたんじゃないかって……」と不安をこぼし、思わず鼻で笑い、「置いていかれるなら最初から連れていかない、母親ってのはそういう生き物だ、少なくとも私の知る限りではな」と即答する。
「じゃあ、探してくれる?」
まっすぐに向けられた期待の視線に、一瞬だけ空を仰いだが、次の瞬間には立ち上がり、「ああ、探す、ただし条件がある、私の言うことを聞け、勝手に飛ぶな、勝手に鳴くな、危険だと判断したらすぐ離れる」と指を折って告げた。
「うん、ぜんぶ聞く」
あまりにも即答だったので、思わず苦笑し、「即答できるなら大丈夫だな、行くぞ、匂いが消えた方向はどっちだ」と問いかけると、小ドラゴンは鼻をひくつかせ、「あっち、でもちょっと苦い匂いがする」と森の奥を指した。
地面を一瞥し、踏み荒らされた跡と折れた枝を確認しながら、「苦い匂いってのは大抵、人間だ、良くない兆候だが、避けて通れる距離じゃない」と判断を口にし、小ドラゴンの頭に軽く手を置いて歩き出す。
◇
森を進む間、小ドラゴンは不安を紛らわせるように何度も話しかけてきたが、そのたびに短く返しながらも歩調を緩めず、「止まるな、迷えば匂いが薄れる、今は動く方が正しい」と告げ続けた。
「ねえ、きみはドラゴンを怖くないの?」
唐突な問いに、前を向いたまま「怖くないわけじゃないが、怖いから動けないほどじゃない、それに今お前を怖がっても得るものがない」と答え、小ドラゴンはしばらく考えた末、「変なひと」と小さく笑った。
やがて、空気がわずかに重くなり、遠くから人の声が混じり始めたのを感じた瞬間、私は小ドラゴンを制止し、「ここから先は静かにしろ、声が聞こえたら私の後ろに回れ」と低く告げ、森の奥に目を凝らす。
小ドラゴンは息を殺しながらうなずき、私は剣に指を掛けたまま、一歩、また一歩と音を殺して進み、胸の奥で嫌な確信が形を成していくのを否定できずにいた。
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