第18章 夜の声が届く距離
エリナの部屋の扉の前に立った。昼間に確認した床の軋み方と壁の位置を思い出しながら、扉一枚隔てた向こう側に人が眠るという状況を頭に入れ、剣を抜かずに済むならそれに越した事はないが、抜く事になったとしても迷わず動ける距離を測るつもりで、静かに息を整えていた。
「リュシアさん、本当に、ここでいいんですか」
部屋の中から聞こえてきたエリナの声は、昼間よりも少しだけ細くなっていて、夜という時間が人の感覚を余計な方向へ引っ張る事を経験として知っていたから、扉越しに声を返しながら、安心させるためにあえて淡々と話した。
「いいの、ここなら部屋全体が見えるし、窓も近い、何かあってもすぐ動ける」
「……はい」
短い返事の後、部屋の中が静まり、壁に背を預ける形で立ち位置を決め、視線だけを窓の方向へ向けた。夜の庭は月明かりが薄く差しているだけで、昼に見た時よりも距離感が掴みにくくなっているが、その分、不自然な動きは目に入りやすい。
しばらくの間、何も起きなかった。屋敷の中を巡る風の音と、どこかで鳴く夜鳥の声が混じり合い、時間だけがゆっくり進んでいく。その静けさが続いたままなら、それはそれで仕事としては楽だったが、楽観するほど経験が浅くない。
「……エリナ」
名前を呼ぶ声が、はっきりと聞こえた。部屋の中ではなく、確かに外から、窓の向こう側から届いてくる低く滑らかな声で、耳に直接触れるというより、頭の内側に染み込むような響き方をしていた。
エリナの息が詰まる音が扉越しに伝わり、即座に身体を起こして、窓の外へ視線を集中させながら、扉越しに短く声を投げた。
「返事しないで、聞こえても無視」
「……はい」
震えを抑えようとしているのが分かる返事だったが、約束は守られている。それだけで十分だった。
「エリナ、こっちへおいで」
声は甘さを増し、誘うように続く。庭の木陰がわずかに揺れたように見えたが、まだ姿は確認できない。剣の柄に手を掛け、魔力を巡らせながら、声の位置と距離を探る。
「怖がらなくていい、君は選ばれている」
その言葉を聞いた瞬間、一歩前に出て、窓枠に足を掛けながら、声の主へ向かってはっきりと口を開いた。
「残念だけど、その誘い文句は聞き飽きてる、夜中に女の子を呼び出すなら、もっとマシな言葉を用意しなさい」
私の声に、庭の空気が一瞬だけ張り詰めた。甘い声は止まり、代わりに低い笑い声が返ってくる。
「ほう、人の邪魔をする者がいるとは思わなかった」
「思わなくていい、ここから先は私の仕事」
そう言い放った瞬間、庭の影が濃くなり、木陰から人の形をした何かが姿を現した。人に似ているが、人ではないと直感できる違和感を纏った存在で、月明かりに照らされた赤い瞳がこちらを見上げている。
「彼女はまだ未熟だ、守り切れるかな」
「守る必要があるから、ここにいる、それだけよ」
そう答えながら、剣を抜き放ち、躊躇なく地を蹴った。距離は十分、迷う理由はない。
切っ先が闇を裂き、相手が後退するのを確認した瞬間、追撃の光魔法を叩き込み、声を上げる暇も与えずに動きを封じる。叩き割る、それ以外の選択肢は最初からなかった。
短い応酬の末、影は霧のように散り、庭には静けさだけが戻った。剣を下げ、呼吸を整えながら、窓の方を振り返る。
「もう大丈夫、終わったわ」
部屋の中から、安堵と混乱が混じった気配が伝わってくる。それを確認し、剣を鞘に戻してから、ゆっくりと扉の前へ戻った。
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