第1章 その婚約破棄、今ここで言う?
今、王宮第二回廊に面した控室で、王太子セルヴェール殿下の向かいに座っている。
柔らかな絨毯、壁際に並ぶ金縁の椅子、外から聞こえる楽団の調整音。
本来なら夜会の開始を待つための、当たり障りのない時間を過ごすための場所だ。
ただし、ここに呼び出された理由が「大切な話がある」という前置き付きである時点で、穏やかに終わるわけがないことくらい、最初から分かっていた。
「まず最初に断っておくけれど、これは感情的な話ではない。王国全体の将来を考えた結果であり、君個人を否定するものではないという点は理解してほしい」
椅子に深く腰掛けたセルヴェール殿下は、まるで評議会の席で発言するかのような調子でそう切り出し、その瞬間、ああ来たな、と内心で肩をすくめた。
この言い方をする時、彼は必ず自分にとって都合のいい結論をすでに決めていて、相手の反応は手続きの一部でしかない。
「その前置き、いつも便利ですよね。聞く側がどんな顔をしようが、そちらはもう決定事項だと言い切れるんですから」
私がそう返すと、殿下はわずかに眉を動かし、すぐに穏やかな笑みを作って続きを並べる。
「君は聡明だ。だから話が早いと思っている。王太子妃という立場には、剣術や戦闘魔法よりも、外交的な柔軟さや、場を和ませる資質が求められる。君が努力してきたことは理解しているが、それが役割と噛み合っていない」
「噛み合っていないのは、私の努力じゃなくて、その役割自体でしょう。剣を捨てるとも、魔法を忘れるとも約束した覚えはありませんし、それを止めろと言われるたびに、必要なものを削れと言われている感覚しかありませんでした」
語尾を強めると、殿下は手のひらを上に向け、宥めるような仕草を挟んでくる。
「だからこそ、だ。無理をさせ続けるよりも、ここで関係を整理した方が、お互いのためになる。君には君に合った場所があるし、王太子妃という立場には、別の資質を持つ女性が必要だと判断した」
「判断、ですか。その言葉で片付けるには、ずいぶん長い時間を一緒に過ごしましたね。訓練場で汗を流している私を見て、あれほど露骨に顔をしかめておいて、今さら理解していると言われても困ります」
私の言葉に、殿下は苦笑を浮かべ、まるで聞き分けの悪い部下を相手にするような視線を向けてきた。
「感情的になる必要はない。君の価値を否定しているわけではない。ただ、王太子妃としてふさわしいかどうかという一点で考えた場合、答えが違ったというだけだ」
「便利ですね、その切り分け。じゃあ確認しますけど、私が剣を振らず、魔法を抑え、にこやかに相槌を打つだけの存在になっていたら、今の話は出ませんでしたか?」
殿下は一瞬だけ言葉を選ぶ間を置き、それから否定も肯定もせずに、別の言い回しを重ねた。
「仮定の話をしても意味がない。現実として、君はそうではなかった。それだけだ」
その瞬間、ようやく理解した。
これは相談ではなく、宣告であり、ここに私の意思が介在する余地はない。
◇
扉が開き、控室に軽やかな足取りが加わる。
淡い色のドレスを揺らしながら入ってきたのは、マリアンヌ・ロゼ。
少し前から噂になっていた、殿下の新しい想い人だ。
「あら、もうお話は始まっていましたのね。私、邪魔をしてしまったかしら」
そう言いながら、彼女は私と殿下を交互に見て、状況を理解したと分かる笑顔を浮かべる。
「いいえ、ちょうど要点に入ったところです。マリアンヌ、こちらはリュシア。もう察しているとは思うが、正式に話をする必要がある」
「ええ、存じています。とても大切なお話ですよね。ですから、私もここにいるべきだと思いましたの」
その言葉に、思わず笑ってしまった。
「ずいぶん堂々としていますね。奪った側がこうして場に出てくるのは、勇気が要ると思っていました」
「奪った、だなんて。そういう言い方は悲しいですわ。ただ、選ばれただけですもの。殿下が必要とされるものに、私が応えられた。それだけのお話ですわ」
「必要とされるもの、ですか。具体的に何を差し出したのか、ぜひ教えてほしいですね。剣を捨てる覚悟ですか、それとも自分を削る覚悟ですか」
マリアンヌは一瞬だけ目を見開き、すぐに胸に手を当てて首を振る。
「殿下のお隣に立つことを光栄だと思っていますし、そのために努力する覚悟はありますわ。ただ、無理をして自分を偽るつもりはありませんの」
「それを無理だと感じない時点で、ずいぶん違う世界に生きていますね。自分の力を抑え込むことを当然だと言われ続ける場所で、これ以上息をするつもりはありません」
殿下が口を挟む。
「リュシア、言葉を選べ。君がどんな態度を取ろうと、決定は変わらない」
「ええ、分かっています。だからこそ、はっきり言っておきます。この婚約破棄を受け入れます。ですが、それはあなた方に譲歩した結果ではありません。私自身が、この場所に価値を見いだせなくなったからです」
その場の空気が、微妙にざわつく。
外の楽団の音が、さっきよりも近く感じられた。
◇
「強がっているように聞こえるのは、私だけかしら」
マリアンヌがそう言うと、椅子から立ち上がり、彼女を正面から見据える。
「そう聞こえるなら、それで構いません。少なくとも、自分で選んで立ち上がっていますから」
「本当に、殿下の隣という立場を捨てて後悔なさらない?」
「ええ。剣を握り、魔法を放ち、自分の足で前に出られる場所があるなら、そちらを選びます」
殿下は深く息を吸い、最後にまとめるように言った。
「では、正式に伝える。リュシア・エーベルハルトとの婚約は、ここで解消とする。今後、互いに干渉しない」
「望むところです。私も、あなた方の選択に口を出すつもりはありません」
そう言って一礼し、扉へ向かう。
背後から何か言葉が続いた気配はあったが、振り返る必要はなかった。
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