謎のサイクル
「おかえりなさい、私」
誰かの声が、確かに聞こえた。
しかし、部屋には誰もいない。
そこにいるのは、鏡に映る私自身。
だが、その顔は、以前とは少し違って見えた。
私の顔でありながら、どこか田中さんの面影が重なっている。
私は、恐怖にかられながらも、理性で状況を分析しようと試みた。
この部屋、このアパート、そしてあの不可解な日記。
すべてが、この現象の謎を解く鍵を握っているはずだ。
私は、壁際に積み上げられた日記の束に手を伸ばした。
日付が最も古い一冊を開くと、そこには、田中さんとはまったく違う、流麗な筆跡で、こう書かれていた。
「隣の男は、いつも夜中にピアノを弾いている。下手くそだが、どこか切ない音色だ」
私は、その記述に、見覚えがあった。
それは、私がこのアパートに引っ越してくる前の住人の日記ではないか?
私は、すべての日記を、日付の古い順に並べた。
そして、それぞれの筆跡を比較した。
すると、ある法則が見えてきた。
日記の筆跡は、いくつかの段階を経て、田中さんの筆跡へと変化している。
そして、田中さんの筆跡も、私自身の筆跡へと変わっていった。
これは、まるで、この部屋に住んだ人間が、次々と「隣の男」の人格を吸収していくかのような現象だった。
私は、管理人に電話をかけた。
「あの、以前、この部屋に住んでいた方について、何かご存知ですか?」
管理人は、少し戸惑いながらも、こう答えた。
「ああ、田中さんですね。あの人は、確か、前の住人の方と、ほとんど同じタイミングで引っ越してきました。前の住人の方も、確か、失踪したはずです。そして、その前の住人も……」
管理人の言葉に、私は背筋が凍るような思いがした。
この部屋に住んだ人間は、全員が「隣の男」の人格に侵食され、やがて、姿を消す。
そして、新しい「隣の男」が、この部屋に住み始める。
まるで、感染症のように、人格が伝染していくのだ。
私は、このアパートに隠された、恐ろしい真実を突き止めなければならない。
そうしなければ、私もまた、次の「隣の男」に、人格を乗っ取られてしまう。
私は、田中さんの日記を読み返した。
そこに書かれていたのは、ただの観察記録ではなかった。
そこには、田中さんが、私の人格を盗むために行っていた、おぞましい儀式のようなものが、詳細に記されていた。
例えば、「隣の男の部屋の匂いを嗅ぐ」と書かれたページには、私の部屋のドアに、小さな穴が開いていることが記されていた。
私は、自分の部屋のドアを見た。
すると、確かに、小さな、しかし不自然な穴が開いている。
田中さんは、私を観察するだけでなく、私という存在を、五感を通じて吸収しようとしていたのだ。
私は、このアパートに隠された謎を解くために、図書館へ向かった。
アパートの歴史、土地の因縁、過去の事件。
あらゆる情報を調べ尽くした。
そして、ある古い新聞記事を見つけた。
それは、このアパートが建つ前、ここに存在した、ある廃墟の屋敷で起きた、一家失踪事件の記事だった。
記事には、こう書かれていた。
「屋敷の主人は、隣に住む男に強い執着を抱き、彼の生活を詳細に記録していた。そして、ある日、一家は忽然と姿を消した。屋敷に残されていたのは、主人が書いた、隣の男の日記だけだった」
私は、すべてを理解した。
このアパートの土地には、他者の人格を吸収する、おぞましい力が宿っているのだ。
そして、その力は、日記という媒体を通して、人から人へと受け継がれていた。
私は、日記を燃やそうとした。
しかし、手が震えて、どうしても火をつけられない。
「やめて、私」
田中さんの声が聞こえた。
いや、私の声だ。
私の声で、田中さんが話している。
「私たちは、一つになったんだ。今度は、私たちが、次の『隣の男』を探す番だよ」
鏡に映る私は、微笑んでいた。
それは、田中さんの微笑みだった。
私は、日記を燃やすのを諦めた。
そして、筆記用具を手に取った。
次の「隣の男」を探すために。
不穏な空気が流れて来ましたね…




