「隣の男¿」
最後のページに書かれていた、震えるような文字。
それは、田中さんのものでも、ましてや私の筆跡でもなかった。
「もう、隣の男ではない。私は、隣の男になった。」
その一文が意味するものを、私は理解できずにいた。
全身の血が逆流するような感覚。
しかし、恐怖よりも先に、底知れない好奇心が湧き上がってくる。
私は、もう一度日記を最初から読み返した。
一冊一冊、丁寧に。
そして、ある事実に気づいた。
日記に書かれた「隣の男」の行動が、私の記憶と乖離し始める、ちょうどそのタイミングで、筆跡が変化し始めている。
「6月11日。隣の男が、ベランダで植木鉢を割った。」
までは、田中さんの筆跡。
「6月12日。隣の男が、会社で大きなミスをして、上司にひどく叱責されているのを目撃した。」
からは、私の筆跡とそっくりな文字。
つまり、田中さんは、日記を書きながら、徐々に私に「変身」していったのではないか?
私は、田中さんの部屋を思い出そうとした。
ドアを開けた時に見た、あの整理整頓された部屋。
しかし、私の記憶にある部屋は、なぜか、いつも散らかっている私の部屋と、混ざり合ってしまっていた。
その夜、私は眠れなかった。
天井を見つめていると、不意に、隣の部屋から物音が聞こえた。
コップに氷を入れる音。
そして、スプーンでかき混ぜる音。それは、私が毎晩寝る前に、グラス一杯の水を飲む時に出す音と、まったく同じだった。
「まさか……」
私は飛び起きて、隣の部屋との境にある壁に耳を押し付けた。
音は止まっていた。
しかし、私の心臓の鼓動だけが、煩いほどに響いていた。
その翌朝、私は玄関のドアを開けた。
すると、隣のドアの郵便受けに、一枚のチラシが挟まれていた。
そこには、「消えた隣人」の捜索願が印刷されていた。
写真の男は、田中さん。
しかし、その顔は、私の顔に、なぜか、だんだん似てきているように見えた。
私は、自分の顔を鏡で見た。
そこに映っていたのは、田中さんではなかった。
しかし、私の瞳は、まるで田中さんの瞳のように、どこか虚ろで、深く沈んでいるように見えた。
私は、日記の最後のページに書かれていた言葉の意味を、ようやく理解した。
田中さんは、私を観察し、私になりたかった。
そして、いつの間にか、私と彼の人格が、入れ替わってしまったのだ。
私は、恐怖にかられ、部屋を飛び出した。
エレベーターに乗り、一階へ向かう。
しかし、エレベーターの扉が開いた先は、一階ではなかった。
見慣れない場所。
だが、どこか見覚えのある場所。
それは、田中さんの部屋だった。
「おかえりなさい、私」
誰かの声が聞こえた。
しかし、部屋には誰もいない。
私は、部屋の壁際に積み上げられた日記の束を見た。
その中の一冊の表紙には、「2025年10月31日」と記されていた。そして、日記の最終ページには、震えるような文字でこう書かれていた。
「もう、隣の男ではない。私は、隣の男になった」
私は、自分の日記を書き始める。
そして、いつか、この部屋の隣に住む、次の「隣の男」を観察し始めるのだ。




