恋と使命の終わり
冬の終わり。
雪解けの音が、屋根の破れ目から滴っていた。
窓辺に差す午後の日脚が、昨日よりわずかに伸びている。
そのささやかな差が、凍てついた季節の終焉を静かに告げていた。
雨風に長年晒されてきた猟師小屋の、木の梁には煤がこびりついている。
その隅で、レティシアは古い暖炉に手をかざしていた。
薪の炎は細く、ゆらめき、頼りない。
トン、トン。
トン。
ノックはまず2回、次いで1回。
次いで戸口の軋む音がした。
振り向くまでもなく、レティシアは誰か来たかを知っていた。
「こんな場所まで、来たのね」
低く、諦めたような声だった。
扉の向こうに立つ男は、厚い外套の襟を払った。
アレクシス。なめした革鎧の胸には、騎士団の紋章が刻印されていた。
「探すのは、やめられなかった」
「叔父の命令?」
「いや。……俺の意思、だ」
アレクシスは床板のきしみを確かめるように、ゆっくりと中へ入った。
雪の粒が外套の肩から滑り落ちる。
暖炉の火が、彼の顔を赤く照らした。
「顔つきも、身体も、騎士らしくなったわね」
「あなたは変わらない……いや、少し痩せた」
「私の体を気遣うのは、やめなさい。
もう、キミのすることじゃない」
レティシアは淡々と椅子に腰を下ろした。
面影はあったが、その姿は、かつての華やかな令嬢からはほど遠い。
髪は肩で切りそろえられ、服もくすんだ色の麻布。
だが、その瞳だけは、昔と変わらぬ青白色だった。
「叔父は、まだ私を殺そうとしているの?」
「ああ」
アレクシスは答えた。
視線を外したまま、暖炉の炎を見つめる。
「あなたが生きている限り、爵位継承の正統性に影が差す。
命令は、『確実に葬れ』だ」
「そう」
レティシアは小さく笑った。
「それを伝えに来たの?」
「違う。
俺は、あなたに逃げてほしかった」
「また?」
「聞いてくれ。
国境の森を越えれば、もう閣下の手は届かない。そこに友が――」
「もういいの」
彼女の声が、炎の音を断ち切った。
外の風が、窓を鳴らす。
アレクシスは息を止めたまま、彼女を見た。
「私はもう逃げない。
逃げてまで、生きたいとも思わないの」
「そんな言葉、信じたくない」
「ここでの冬も3回目。
キミが知っている伯爵令嬢は、もういない」
レティシアは立ち上がり、棚の上から小瓶を取り上げた。
乾いた薬草を指先で砕き、香を焚くように火へ落とす。
ふわりと、青白い煙が立ちのぼる。
古屋の中が、この一瞬だけ、レティシアの瞳の色に染まった。
「……時々、考えていたの」
「何の、こと」
「乗合馬車で見つかった時。
どうして、あのとき私を止めなかったのか」
「――止めたかった」
「でも、止めなかった」
レティシアの口調は静かだった。
責めるでも、嘆くでもなく。
ただ、確かめるように。
「私たちは似ていたのよ。
使命のために、自分を捨てるところが」
「お嬢様……」
「だから好きだった」
その言葉に、アレクシスの肩が微かに震えた。
沈黙。
火の粉が弾け、二人の影を壁に揺らす。
「今は?」
「今はもう、何も感じない」
「嘘だ」
「本当よ」
レティシアは彼の目をまっすぐ見た。
その眼差しは澄んでいた。
波風立たない、水面のように。
「キミとの思い出は、まだ胸の中で暖かい。
嘘と偽りの日々だったけど、あの時の、あの気持ちだけは、確かに本物だった」
薪が弾け、一瞬、炎が燃え上がった。
「でも、それは過去の残響。
誉れある騎士アレクシスが、何を守っても、誰を殺しても、今の私には無縁なの。
私が好きだったキミは、もういない」
「……そんなふうに、終わらせるのですか」
「ええ。綺麗なまま、終わらせたいの」
アレクシスは一歩近づいた。
床板が鳴る。
長剣の間合いには近すぎる。
あと少しで、彼女の手に触れられるほどだった。
「それでも、俺は、お嬢様を救いたい」
「救う? 今さら?」
「たとえ使命を破っても、あなただけは」
「キミは、変わらず、優しいのね。
でも、優しさで人は救えないのよ」
レティシアはそっと彼の外套の襟を掴んだ。
歪んでいた形を整え、そして、ゆっくりと離す。
「ほら、もう済ませなさい」
「嫌だ」
「……アレクシス」
「俺は、僕は、お嬢様を殺せと言われてここに来ました。
でも、できるわけがありません」
「じゃあ、キミが死ぬの?」
「お嬢様が生きてくれるなら、本望です」
沈黙。
レティシアは瞳を伏せ、微笑んだ。
「昔のキミなら、そう言ったでしょうね」
「今も同じです」
「違うの。
キミは生きて。
キミが生きて、使命を果たすの。
ひょろひょろでおっかなびっくり。
気は優しくて一所懸命。
半人前だけど、騎士になろうと背伸びをする。
それが、私が好きだったキミ」
「そんなもの、いりません!」
アレクシスの叫びが、小屋を震わせた。
外の雪が、屋根から滑り落ちる音がした。
「僕は、お嬢様を守るために騎士になりました!
殺すために剣を握ったわけじゃ!」
「でも、その剣が私を殺すのよ」
「違います!」
「同じことよ」
レティシアは、暖炉の前に立った。
青い煙の中で、彼女の髪が揺れる。
「ねえ、アレクシス。
あなたは叔父に仕えることを選んだ。
私は自分らしくあることを選んだ。
どちらも間違いじゃない。
でも、同じ道には戻れないの」
「僕は、どうすればいいんですか」
「迷わず進みなさい。
使命として、私の死を受け入れるの」
「そんなこと、できるわけが」
レティシアはそっと彼の手を取り、剣の柄に導いた。
その手はぞっとするほど冷たかった。
「キミは優しいから、誰かが傷つかないと前に進めない人なの。
だから、私がその役を引き受ける」
「やめてください……!」
「お願い。これで終わりにして。
私の好きだった、アレク」
その瞬間、外の風が扉を押し開けた。
雪が吹き込み、炎が揺れる。
アレクシスの目に、涙がにじんだ。
「レティ……!」
「泣かないで。あなたが泣くと、過去が疼くの。
目の前の恋に夢中だった、小娘だった幼い私が」
「だったら、僕は、僕は、どうすれば」
「そのまま生きて。私の分まで」
彼女の声は、焔に溶けていった。
剣が閃いた。
音はなかった。
ただ、雪の白だけが世界を覆った。
* * *
翌朝、小屋は静まり返っていた。
暖炉の火は消え、窓から吹き込む風が灰を散らす。
アレクシスは床に膝をつき、レティシアの亡骸を抱いていた。
彼女の顔は穏やかで、まるで眠っているようだった。
「胸を張って、お嬢様の隣に立ちたかった。
ただそれだけ、だったのです」
アレクシスは、椅子を支えに、よろめきながら立ち上がった。
手入れを済ませた剣を、震える手で腰に佩いた。
灰色の空が、静かに泣いていた。




