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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

恋と使命の終わり

作者: 今日は強めのお薬出しておきますね
掲載日:2025/10/30

冬の終わり。

雪解けの音が、屋根の破れ目から滴っていた。


窓辺に差す午後の日脚が、昨日よりわずかに伸びている。

そのささやかな差が、凍てついた季節の終焉を静かに告げていた。


雨風に長年晒されてきた猟師小屋の、木の梁には煤がこびりついている。


その隅で、レティシアは古い暖炉に手をかざしていた。

薪の炎は細く、ゆらめき、頼りない。



トン、トン。

トン。


ノックはまず2回、次いで1回。

次いで戸口の軋む音がした。

振り向くまでもなく、レティシアは誰か来たかを知っていた。



「こんな場所まで、来たのね」


低く、諦めたような声だった。

扉の向こうに立つ男は、厚い外套の襟を払った。

アレクシス。なめした革鎧の胸には、騎士団の紋章が刻印されていた。


「探すのは、やめられなかった」

「叔父の命令?」

「いや。……俺の意思、だ」


アレクシスは床板のきしみを確かめるように、ゆっくりと中へ入った。


雪の粒が外套の肩から滑り落ちる。

暖炉の火が、彼の顔を赤く照らした。



「顔つきも、身体も、騎士らしくなったわね」

「あなたは変わらない……いや、少し痩せた」

「私の体を気遣うのは、やめなさい。

もう、キミのすることじゃない」


レティシアは淡々と椅子に腰を下ろした。

面影はあったが、その姿は、かつての華やかな令嬢からはほど遠い。

髪は肩で切りそろえられ、服もくすんだ色の麻布。

だが、その瞳だけは、昔と変わらぬ青白色だった。



「叔父は、まだ私を殺そうとしているの?」

「ああ」


アレクシスは答えた。

視線を外したまま、暖炉の炎を見つめる。


「あなたが生きている限り、爵位継承の正統性に影が差す。

命令は、『確実に葬れ』だ」


「そう」


レティシアは小さく笑った。


「それを伝えに来たの?」

「違う。

俺は、あなたに逃げてほしかった」

「また?」

「聞いてくれ。

国境の森を越えれば、もう閣下の手は届かない。そこに友が――」


「もういいの」


彼女の声が、炎の音を断ち切った。

外の風が、窓を鳴らす。

アレクシスは息を止めたまま、彼女を見た。



「私はもう逃げない。

逃げてまで、生きたいとも思わないの」

「そんな言葉、信じたくない」

「ここでの冬も3回目。

キミが知っている伯爵令嬢は、もういない」


レティシアは立ち上がり、棚の上から小瓶を取り上げた。

乾いた薬草を指先で砕き、香を焚くように火へ落とす。


ふわりと、青白い煙が立ちのぼる。

古屋の中が、この一瞬だけ、レティシアの瞳の色に染まった。



「……時々、考えていたの」

「何の、こと」

「乗合馬車で見つかった時。

どうして、あのとき私を止めなかったのか」

「――止めたかった」

「でも、止めなかった」


レティシアの口調は静かだった。

責めるでも、嘆くでもなく。

ただ、確かめるように。


「私たちは似ていたのよ。

使命のために、自分を捨てるところが」

「お嬢様……」

「だから好きだった」


その言葉に、アレクシスの肩が微かに震えた。

沈黙。

火の粉が弾け、二人の影を壁に揺らす。


「今は?」

「今はもう、何も感じない」

「嘘だ」

「本当よ」


レティシアは彼の目をまっすぐ見た。

その眼差しは澄んでいた。

波風立たない、水面のように。



「キミとの思い出は、まだ胸の中で暖かい。

嘘と偽りの日々だったけど、あの時の、あの気持ちだけは、確かに本物だった」


薪が弾け、一瞬、炎が燃え上がった。


「でも、それは過去の残響。

誉れある騎士アレクシスが、何を守っても、誰を殺しても、今の私には無縁なの。

私が好きだったキミは、もういない」



「……そんなふうに、終わらせるのですか」

「ええ。綺麗なまま、終わらせたいの」



アレクシスは一歩近づいた。

床板が鳴る。

長剣の間合いには近すぎる。

あと少しで、彼女の手に触れられるほどだった。



「それでも、俺は、お嬢様を救いたい」

「救う? 今さら?」

「たとえ使命を破っても、あなただけは」

「キミは、変わらず、優しいのね。

でも、優しさで人は救えないのよ」


レティシアはそっと彼の外套の襟を掴んだ。

歪んでいた形を整え、そして、ゆっくりと離す。


「ほら、もう済ませなさい」

「嫌だ」

「……アレクシス」

「俺は、僕は、お嬢様を殺せと言われてここに来ました。

でも、できるわけがありません」

「じゃあ、キミが死ぬの?」

「お嬢様が生きてくれるなら、本望です」



沈黙。

レティシアは瞳を伏せ、微笑んだ。


「昔のキミなら、そう言ったでしょうね」

「今も同じです」


「違うの。

キミは生きて。

キミが生きて、使命を果たすの。

ひょろひょろでおっかなびっくり。

気は優しくて一所懸命。

半人前だけど、騎士になろうと背伸びをする。

それが、私が好きだったキミ」


「そんなもの、いりません!」


アレクシスの叫びが、小屋を震わせた。

外の雪が、屋根から滑り落ちる音がした。


「僕は、お嬢様を守るために騎士になりました!

殺すために剣を握ったわけじゃ!」

「でも、その剣が私を殺すのよ」

「違います!」

「同じことよ」


レティシアは、暖炉の前に立った。

青い煙の中で、彼女の髪が揺れる。


「ねえ、アレクシス。

あなたは叔父に仕えることを選んだ。

私は自分らしくあることを選んだ。

どちらも間違いじゃない。

でも、同じ道には戻れないの」


「僕は、どうすればいいんですか」

「迷わず進みなさい。

使命として、私の死を受け入れるの」

「そんなこと、できるわけが」



レティシアはそっと彼の手を取り、剣の柄に導いた。

その手はぞっとするほど冷たかった。



「キミは優しいから、誰かが傷つかないと前に進めない人なの。

だから、私がその役を引き受ける」

「やめてください……!」

「お願い。これで終わりにして。

私の好きだった、アレク」



その瞬間、外の風が扉を押し開けた。

雪が吹き込み、炎が揺れる。

アレクシスの目に、涙がにじんだ。



「レティ……!」

「泣かないで。あなたが泣くと、過去が疼くの。

目の前の恋に夢中だった、小娘だった幼い私が」

「だったら、僕は、僕は、どうすれば」


「そのまま生きて。私の分まで」



彼女の声は、焔に溶けていった。

剣が閃いた。

音はなかった。

ただ、雪の白だけが世界を覆った。




 * * *




翌朝、小屋は静まり返っていた。

暖炉の火は消え、窓から吹き込む風が灰を散らす。



アレクシスは床に膝をつき、レティシアの亡骸を抱いていた。

彼女の顔は穏やかで、まるで眠っているようだった。


「胸を張って、お嬢様の隣に立ちたかった。

ただそれだけ、だったのです」


アレクシスは、椅子を支えに、よろめきながら立ち上がった。

手入れを済ませた剣を、震える手で腰に佩いた。


灰色の空が、静かに泣いていた。


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