「怖いかもしれない話」部分
後半部分投稿。
それだけで済んでいたのならば、単なる笑い話で終わったのだが……残念ながら、そうはならなかった。
老婆と邂逅した、その次の日。実験を一段落させ、実習準備をなんとか終えて、さあしばらくの間仮眠しようと思っていた時だ。
普段なら、車が大学の周囲を巡る道をせわしなく行き交う音や、登校してくる学生の話し声がやや耳障りなぐらいなのに、この日は、朝っぱらからパトカーや救急車のサイレンがいくつも重なって聞こえてくるばかりか、大勢の怒鳴り声や叫び声、足音や、切迫した感じで電話する声などがごうごうと学内に響き渡り、とてもじゃないが寝られない。
夜通し実験と作業で疲れ切っているのに睡眠の邪魔をされ、気分は最悪。仕方がないから朝食でも食べに行こうかと、無理矢理体を起こし、廊下をふらふら歩いていると、普段の5割増しの勢いで階段を上がってきた学部生の後輩が、声をかけてきた。
「あ、先輩!聞きました?」
「え?聞くって、なにを?」
「なにをじゃないですよ!事件です!学内で殺人があったんですって!」
「……殺人?」
「はい!」
表情は深刻そのものだが、声の調子は、合コンかデートの最中か、っていうぐらいに弾ませ、後輩は、知っている情報を早口でしゃべりはじめる。
いわく、部活の朝練で朝一番にやってきた学生が、道に点々と血痕が続いているのを発見した。
血痕をたどっていくと、道沿いの林の中に倒れている人を発見した。
助けようと駆けよったが、うつ伏せになっていた体を抱き起こしてみると、胸から腹の辺り一面にべっとりと血がついており、全く息をしていなかった。
そこで、慌てて警察に電話した……。
しゃべればしゃべるほどヒートアップし、後輩は無意識にどんどん声を高めていく。それとは対照的に、私は最初から最後まで、ふんふんと相づちを打つだけで、それほどの興味も示さずに聞いていた。
実際、大学内での事件は、それほど珍しいことではない。
一人暮らしで心を病んだ学生が起こす自殺騒ぎは、未遂既遂ひっくるめて年に数回は耳にするし、研究室やサークル内の狭くて濃い人間関係に神経をすり減らしたりたかぶらせたりで、刃傷沙汰が起こることもある。実験を失敗しての爆発事故もあったし、酔っ払って学内を車で暴走し、数名に重傷を負わせた事件も、数年前に起こっている。
大学生活がまだ短い後輩にとっては、ものすごいスクープなのかもしれないが、長く学内にとぐろを巻いている私にとっては、日常茶飯事、とまではいかなくても、それなりに耳にすることがある出来事、なのである。
恋愛のもつれとか、その辺が原因かな。殺しちゃうところまでいくのは、まあ珍しいけど。それにしても眠い……。
思わず大あくびしそうになったのだが、そんな私の注意を、次の後輩の言葉が、一瞬で引きつけた。
「それにしても、びっくりですよね。連続殺人だなんて。せっかく大学まで逃げ出したのに、被害者さんもついてないですよね」
……連続殺人だと?逃げてきた?
「え?逃げてきたって……」
「ですから、被害者さんですよ。まだよく分かってないんですけど、犯人、大学の裏の特養入居者たちを片端から殺していってたらしいですよ。で、一人、80歳ぐらいのおばあさんが、異常に気づいて大学まで逃げ出したらしくって……」
「そ、その方、白い着物を着てなかったか?その、浴衣みたいな……」
「あ、なんだ、やっぱりもう知ってたんですね。ええ、なんか、薄汚れた白い浴衣を着て、裸足だったらしい……先輩、どうしたんですか?」
私の愕然とした表情に気がついたのか、後輩はいぶかしげな表情で、おそるおそるそう尋ねてくる。
(被害者は……あのおばあさん?それじゃ、犯人は……)
冷静に考えれば、確かに違和感はあった。
あの男……スズキさんは、やけに丈の長い白衣を着込んでいた。
だが、テレビなどで何度か見かけただけだから、自信を持って断言できるわけじゃないけど、老人ホームに勤める介護士さんは、大体みんな、白衣ではなく、エプロンとか、動きやすい、半袖のポロシャツのような制服を着ているものではないのか?
いや、ひょっとしたら、スズキさんは医者で、だから白衣を着込んでいたのかもしれない。
だが……普通、老人ホームに医者は常駐していないと聞く。それに、医者の白衣は清潔第一でパリッと白く、ほとんど汚れなどついていないイメージだ。スズキさんが着ていたような、あちこちに染みがついた、全体に薄汚れた感のある白衣は、医者というより……。
ふと、私の脳裏に鮮やかな光景が浮かび上がった。
ボケて、ベッドで眠っている時間が多く、体が弱っている上、裸足だというのに、命の危険を肌で感じているせいか、思ってもみないほど素早く逃げる標的。
全速力で後を追うが、なかなか追いつけず、あと少し、というところで捕り逃がし……標的は、するりと建物の中に入っていく。
そのまま後に続いて追いかけようとしたところで、ふと立ち止まる。
玄関の扉が開いている、ということは、誰かが居残っている可能性が高い、ということだ。
この姿を目撃されれば、見とがめられ、場合によっては通報されてしまうかもしれない。
それは、まずい。
幸い、1階に並ぶ部屋の電気は、全て消えている。その扉を一つ一つ確かめ、鍵が開いているところから、中に入り込む。
あった。ロッカーだ。
急いで中をあさり、やや大きいがなんとか着れなくもない白衣を身につけ、きっちりボタンを閉める。
そのまま、何食わぬ顔で2階へと上がり、ただ一つ明かりのついている部屋へと向かう……。
……そうだ。きっと、そういうことだったんだ。そして、なぜ、白衣をはおるだけでなく、きっちりボタンを留めていたかといえば……。
凶器を、白衣で隠したかったから。
そして、それまで犯してきた罪の返り血で、シャツが真っ赤に染まっていたから。
扉付近にずっと留まり、私に近づこうとしなかったのも、濃厚な血の臭いを嗅ぎつけられ、疑念を持たれたくなかったからに、違いない。
もし、あの時「おかしさ」に気づいていたら……それを少しでも顔に出していたら……彼――スズキさんの穏やかな顔は、一体どのように変化していたのだろう……。
「……その、犯人はもう捕まったの?」
「いえ、まだみたいですよ。警官が大勢、ものすごい怖い顔で、大学内を歩き回ってますし」
「……そうか……」
逃げて、うまく隠れたとしても、スズキさんは、きっともう一度、戻ってくる。
目撃者を……私を、始末するために。
そう思った途端、いきなりがくがくと脚が震えだした。
「ごめん……その、ちょっと用事を思い出した」
唐突に話を打ち切り、ふらふらと歩き出した私の反応に驚いたのか、
「先輩?大丈夫ですか?」
背後から、後輩が声をかけてくる。
大丈夫じゃない。大丈夫なわけがない。とにかく、ここから離れて……隠れないと。
私は後輩の方を振り向きもせずに手を振っただけで、次第に足を速め……闇雲に走り始めたのだった。
「……そんなことがあったんですね。そりゃあ、怖いわ……」
矢崎が、感慨無量、と言わんばかりに、ゆっくり首を左右に振った。
「まあ、当時は確かに、おそろしかったね。あとをつけられないよう、必死で自転車をこいで、万が一尾行されてても大丈夫なように、わざわざあちこちでたらめに走ってね。家に帰り着いた後は、雨戸もなにもかも閉めきって……ずっと部屋で布団をかぶり、びくびくしてたよ」
思っていた以上に長い昔話になってしまい、すっかり喉が渇いていた私は、そこで、思い出したようにグラスに残っていた酒を口に含んだ。
氷がすっかり溶け、薄く、生ぬるくなった水割りが、気の抜けたような頼りない味わいだけを舌に残し、ゆっくり喉を滑り降りていく。
ふう、と一息ついたところで、それまでしきりに一人うなずいていた矢崎が、思い出したように口を開いた。
「それで、どうなったんです、犯人は?」
「捕まったよ。2週間後に」
「そうですか。で、やっぱり犯人って、教室長が会ったっていう……」
「ああ。スズキさんだったよ」
「そうですか……よかったですね、すごく安心したんじゃないですか?」
「ああ、まあね」
にこにこしている矢崎に力ない笑顔を返すと、私は肩をすくめた。
「ただ、その事件のせいで、研究室がトラウマになってしまってね。昼間はまだ我慢できるけど、夜はどうしても中にいられなくなった。それで、修論のデータが出せず、院も、中退せざるを得なくなって……こうなってしまったわけさ」
都内にいくつか教室を持つ、中堅どころの小中学生向け学習塾。その教室の一つの責任者、というのが、今の私の肩書きだ。
「そうですか。それは、残念ていうか、もったいなかったですね。就職も、もう決まってたんでしょう?」
矢崎は、あの頃の私と同じ年頃――20代半ばの、若い専任講師だ。成績優秀で教え方もうまく、面倒見もいい彼は、上層部からの評判も上々で、入社してまだ2年だというのに、早くも私の下で、副教室長を務めている。
ただ、その若さと優秀さからだろうか、やや無神経で、人の気持ちに鈍感なところがあり、普通ならたらうような質問であっても、遠慮なくずけずけと口にするところがあるのだ。
私は笑顔を苦笑へと変化させ、ソファーにゆったりともたれかかった。
「決まってたけど……もったいない、っていうのはなかったね。研究職での内定だったんで、入社しても、ずっと研究室に詰めなきゃならなかっただろうし。きっと、耐えられずにすぐ辞めてたんじゃないかな」
「そっか。そうかもですよね。とすると……教室長も、呪いにかかっちゃったんですね」
「呪い?」
「ほら、言ってたじゃないですか。老婆の霊と遭ってしまったものは、その後留年を繰り返して退学したり、自殺してしまったり、たいがいひどい目に遭う、って研究室の先輩から教えられたって」
「ああ……」
「教室長は別になにも悪いことはしてないのに、老婆に出会ったってだけで、院の卒業もできなかったし、大手メーカーへの就職だって、諦めなきゃならなかった。思いっきり人生狂わされてるじゃないですか。まさに呪いそのものですよ」
「いや、もともと私の能力が足りなかっただけだよ」
「またそんな、けんそんしなくたって」
「いやいや。今こうしていられるのだって、私にしたら、十分幸運だって思ってるよ。社会に出てから20年間、なんとか食うに困らないで過ごしてこられたし、それなりの立場にもなったし、部下にも恵まれてるしね」
「いやだな、持ち上げないでくださいよ」
矢崎は鼻に皺を寄せながらも、まんざらでもなさそうな笑い声を上げる。
話が一段落したところで、矢崎が、おもむろに立ち上がった。
「すいません、ちょっとタバコ吸ってきます」
勝手知ったる他人の家、という感じでカーテンを開け、アルミサッシをくぐると、矢崎は暗闇の向こうに姿を消した。
一人取り残された部屋の中で、私はふと、ガラス窓を見つめる。
呪いか。そんなんじゃない。そんな非科学的なもの、存在するはずがないんだから。あれは、呪いなんかじゃなくて、罪悪感だ。
……あの頃、自分は腹を立てていた。
ネチネチとイヤミばかり口にする教授。
面倒な作業を丸投げして、報酬はピンハネする先輩。
なにも知らないくせに口ばかり達者な後輩。
バイト先のバカ上司。
学問に無理解な両親や親戚。
そして、同級生達が次々に成果を出していく中、いつまで経ってもデータすらろくに揃えられない自分。
そうだ。私は、この世の中のありとあらゆることに対して、腹を立てていたのだ。
そしてあの日、その怒りは、残り少ない時間をつまらない騒動で無駄に消費させ、その上、科学の徒を以て任じるこの私に、ほんの一瞬とはいえ、幽霊という非科学的な存在を信じさせそうになった、あのはた迷惑な老婆に、焦点を向けた。
だから……老婆が姿を消す前のほんの一瞬、この上ない恐怖に怯える表情を浮かべたにも関わらず、なにも尋ねず、引き留めようともせず、そのまま、立ち去るに任せた。
(ババア、脅かしやがって!とっとと消えやがれ!)
スズキと名乗る青年に不審を抱いても、あえて気づかないふりをした。
(なんかこいつ、引っかかる。けど、まあいいや。こいつがあの迷惑なババアをどうにかしてくれるってんなら、任せりゃいい。面倒が一つ減って、せいせいする)
そして、彼が立ち去ろうとした間際、5年半の大学生活から得た経験のもと、この時間開いているのはどこの建物か、隠れやすいのはどこの茂みか、どこで耳を澄ませば逃げる足音が、息づかいがもっともよく耳に入るか、などといった情報を、懇切丁寧に教えてやったのである。
その結果、老婆は見つかり、殺された。
自分が事情を尋ね、かくまっていれば……いや、そこまでしなくても、なにも知らないふりをして犯人をやり過ごしていれば、余計な情報を与えさえしなければ、老婆は、助かったのかもしれない。
あの老婆が死んだのは、自分の責任だ。
その罪悪感が凝り固まって、自分のトラウマとなった。それだけのことだ。幽霊なんていない。ただの妄想に過ぎない。それは分かっている。分かっているとも……。
ベランダの窓に映る、私自身の顔。
その顔のすぐ後ろに、もう一つ、他の誰かが映り込んでいる。
白髪を振り乱し、皺だらけの顔。20年以上、自分にとりついて離れない、あの老婆の顔だ。
窓越しに私が見つめていることに気づくと、老婆は、ほとんど歯のない口を大きく開けて、にたりと笑う。
笑っているのに険しいままの目で、じっと私を見つめ返してくる。
そのまま私たちは、いつまでもいつまでも、じっと見つめ合い続ける。