「本当にあったかもしれない」部分
ひとまず前半部分投稿。
後半は、来週辺り投稿予定。
30年ほど前の話である。
その当時、大学というところは、かなりゆるい場所だった。
今でも夕方になると、近所に住んでいる方々が犬の散歩に訪れたり、どう見ても学生には見えない、かといって職員でもなさそうな人が学食で昼食を食べていたりと、いろんな面でゆるいのだが、当時は輪をかけてなにもかもがゆるかった。
構内どころか、そこにある建物ほとんど全てに、基本出入り自由。素知らぬ顔で入り込めば、講義を受けることもできた。ベンチで弁当を食べてもよかったし、わずかな金額で車を構内に乗り入れることも可能。24時間ずっと門が開きっぱなしだから、夜中に忍び込んでプールで遊んだりと、羽目を外すこともできたし、寝袋や布団などを持ち込んで、研究室や準備室に泊まり込むこともできた。中には、生活用具一切合切を持ち込み、下宿にほとんど帰らず、大学の空き部屋でこっそり生活している人までいたくらいだ。
こういった自由な雰囲気の中、学生は思い思いに自分のやりたいことに夢中で打ち込むことができ、それぞれの分野で世界的に名をなす人を輩出できたのではないかと思う。
が、あまりに自由だったその反動で、やりたいことを見つけられずに迷走し、新興宗教に没入したり、いつの間にか行方不明になったり、果ては、自殺してしまったりという事件も多かった。そして、そういう事件が起こるたびに、不穏な噂が流れ、噂が噂を呼び……その結果、「夜中に教養部の講義棟から文学部棟へ続く道を歩いていると、向こうから大勢の、半透明な学生達とすれ違う」「理学部棟の屋上は入れないはずなのに、いつ見ても人影がある」などといった話が、まことしやかに――というより、ほぼ事実そのものとして語られるようになる。
私が所属していた工学部応用生物学科でも、やはりそういった「出る」という噂があった。
夜中に実験で独り研究室に居残っていると、どこからともなく白いぼろぼろの浴衣を着た老婆の霊が現れる、というのである。
現れた霊は、しばらくなにもせず、夢中で実験にいそしむ学生の様子をうかがい……やがて、気配を感じた学生が存在に気づき、振り向くと、顔をくしゃくしゃにして凄みのある笑顔を見せ、不気味な笑い声を響かせた後で、ふっと消えてしまう。
「……それだけですか?」
「ああ、それだけだそうだ。ただ……」
「ただ?」
「老婆の霊と遭ってしまったものは、その後留年を繰り返して退学したり、自殺してしまったり、たいがいひどい目に遭うらしい。だから……君も、実験で徹夜する時は気をつけてな!」
この噂を最初に教えてくれた先輩は、そう言ってにやっと笑うと、ばしん、と僕の背中を思い切り叩き、がっはがっはと豪快な笑い声を立てた。
だから僕も、「なんだ、笑い飛ばせる程度の話なんだ」と真剣に受け取らず、よくある「学校の怪談」的なたわいない話として、数年間、すっかり忘れて過ごしていたのである。
「……さて、今度こそいいデータ出てくれよ……」
祈るような気持ちでインキュベーターの扉を閉めた私は、ふう、と肩で息をつき、ごりごりと首筋をもみほぐした。
なんとか学部を卒業して院生になった、2年目の晩秋である。
修士論文提出の時期が刻々と迫りつつあったのだが、なかなか思うような実験データが得られず、私は連日連夜、ひたすら実験に明け暮れていた。
ターゲットとなるタンパク質を発現する遺伝子を組み込んだ細菌を培養し、そこから得られた遺伝子片をベクターに組み込んだ後、マウスの体内に注射して……。当時の遺伝子工学実験は、繊細な手技と集中力を必要とする作業と、その合間合間の呆然とするほど長い待ち時間の連続だった。一度実験を始めたら最後、三日やそこら泊まり込みになるのは当たり前、実験生物の生活周期に合わせて生活しなければならないので、生活サイクルはむちゃくちゃ。四時間ぶっ続けで作業した後に二時間仮眠、そこから2時間作業で3時間寝て、30分仕上げを行った後に2時間動物の世話をし、2時間の仮眠の後、4時間作業、などというスケジュールが当たり前だった。
その日も、ふらふらしながらどうにか作業スケジュールをこなし……どうにか終了のめどがついたところで、私はどっかりと椅子に腰を下ろしたのだった。
……疲れた……これから1時間、空き時間か……。
仮眠でもしようかと思ったが、あいにくこの前の休憩時間で3時間ほどぐっすり眠ってしまったため、まるで眠気を感じない。
壁に掛けられた大きなデジタル時計に目をやると、そこには「AM1:26 11/14(金)」という文字列が、でかでかと表示されている。
日付、変わってたんだな……てか、もう金曜日か。こもり始めたのが火曜日からだから、もう4日目になるのか……時間があっという間に過ぎていくな……。
だらしなく、ぐったりと椅子に腰かけ、体の奥深くに巣くった疲れを吐き出すかのように、深く、長いため息を吐く。
そこで、やにわに、しゃんと体を起こした。
そうだ、今日は金曜日!2年生の実習がある日じゃん!器具の準備しとかなきゃ!
世話になっている博士課程2年の先輩が、後期から学部生の実習授業を担当しているのだが、私も助手的な立場で、その手伝いをしていたのである。
流しへと向かい、いくつも積み重なったシャーレの中身を丁寧にこそげ取っては、薬剤できれいに洗浄していく。
外は、鬱蒼と茂った木々が森のように校舎へ覆い被さっていることもあって、彼方にか細く街頭が瞬く以外は真っ暗。実験室内は、薄青い蛍光灯の光にあまねく照らされ、まるで深海にある教会の中にでもいるかのように、しんとして、寒々しい。
そんな中、無心に寒天培地をすくい、スポンジで念入りに薬剤をこすりつけていると、いつものことだが、気持ちが変に澄みわたり、人類が滅亡した後の世界にただ一人取り残され、ひたすら無意味な作業を繰り返しているような心地に陥っていく。
と、そんなおぼろげな夢想が、ふと途切れた。
真っ暗だったはずの目の前の窓が、一瞬、白くなったように感じたのである。
額に皺を寄せ、すい、と目線を上に上げる。
窓ガラスに映っているのは、幾列も連なる深緑色の硬質ゴムでコーティングされた大きな長机と、その横に設置された流し。その合間にただ一人立つ、ネルのボーダーシャツの上にくたびれた白衣を羽織り、台所用のゴム手袋をしてスポンジを握りしめた、さえない20代の男(つまり私だ)。そして、ところどころ染みやひび割れのあるうすねず色の壁、電気を消してあるせいでそこだけ黒々と見える廊下への出口だけである。
なんだ、飽き飽きするほど見慣れた、いつものクソ面白くもない光景じゃないか。やれやれ……と視線を再び流しへ向けようとしたところで、私はかっと目を見開き、凍りついた。
入り口の扉……開け放してたか?夏場ならともかく、この季節に開けっぱなしだと寒いから、いちいちきちんと閉めるようにしてたはずなのに……!
その時だ。
私の2列ほど後ろの机の陰から、すうっとなにかが浮かび上がってきた。
真っ白な髪の毛を振り乱した、皺だらけの顔。
顔の大きさと比べて妙に細く、深い皺が幾筋も走った首筋。そして、こちらもやはり、顔と同じほどの幅しかないように見える、古い浴衣が引っかかった肩。
古びて、ところどころすり切れ、ほつれた浴衣は、かろうじて肩を隠すかどうか、ぐらいまでだらしなくはだけられ、そのすき間から、骨の一本一本の形までもがはっきり分かるぐらい、がりがりにやせ細った首元から胸の辺りまでの体躯が見てとれる。
本当に驚いた時、人は、かえって大声は出せないものだ。
私も、その老婆が、机の陰から少しずつせり上がるように姿を現すのを、あえぎ声ともかすれごとともつかぬ息を吐き出しながら、ただじっと見ていることしかできなかった。
脳裏には、はるか以前に先輩に聞いたきりですっかり忘れていた言葉が、ぐるぐると回っている。
夜中に実験で独り研究室に居残っていると、どこからともなく白いぼろぼろの浴衣を着た老婆の霊が現れる……どこからともなく白いぼろぼろの浴衣を着た老婆の霊が……白いぼろぼろの浴衣を着た老婆の霊が、老婆の霊が、現れる現れる現れる現れる……
と、老婆はそれまで、目を見開き、うつろな感じでじっと前を見つめつつ、机に手をつき、ゆっくりと体をせり上げ続けていたのだが、ようやく立ち上がったのか、机の上の手はそのまま、やや前のめりに身を乗り出し、ゆっくりと左右に頭を振り始めた。
その視線が……身じろぎもせず、ガラス越しにじっとその姿を見つめていた私の視線とぶつかり……それでようやく、老婆は私の存在に気づいたのだろうか。
大きく目を見開いたまま、耳まで口が裂けるほどに、にったりとほほえんだのである。
思わずわたしは、振り向いていた。
すると、そこには老婆の姿は影も形もなく……となっていればよかったのだが、あいにく老婆は引き続き同じ姿勢でそこに存在し続けており、今度はまともに、視線がぶつかった。
「……は……あはあ……あはははあ……」
ほとんど歯のない、妙に紅い口腔を見せつけるかのように大口を開け、ねっとりとした喜びがあふれたかのようなか細い笑い声をこぼすと、老婆は、手で机を伝うようにして、異常なほど早く角を回り込み、こちらへと向かってくる。
「……!」
ろくに声も出せないまま、それまで律儀に手に持ったままだったシャーレを取り落とし、少しでも迫り来る脅威から身を離そうと、机の上にせり上がるようにしてつま先立ちになる。
伸ばした老婆の手がもう少しで体に触れる、というところで、不意にその動きがぴたりと停止した。
笑顔がいぶかしげな表情へと変わり、空気の臭いでも嗅ぐように上方へと傾けられた、次の瞬間。
老婆は、くるりときびすを返すと、ぴたぴたと湿った足音を立てつつ、ものすごい速さで研究室から出て行ったのだった。
どれほどの間、そのまま固まっていたのだろう。
機器のハム音しか聞こえないはずの研究室に、なにか異音が混じり……それが、自分の吐き出した荒い息づかいだったと気づいたあたりで、ようやく体の動かし方も思い出した。
伸びきっていた背中をぎくしゃくと丸め、うつむいて、さらに何度か、大きく息をつく。
なんだったんだ今のは、一体……。
窓の外は相変わらずの暗闇。研究室内は白々しい明かりが充満し、廊下は黒々とかしこまっている。
気のせいだったのか?それとも、妄想?このところ、よく眠れてないし、メンタルやられてしまったのか?
むくむくと膨れ上がる不安を大きく頭を振って追い出し、取り落とした拍子に床で無残に砕けてしまったシャーレの破片を、一つ一つ拾いにかかる。
あらかた拾い終わり、残りは掃き集めようと立ち上がったところで、私は、入り口にたたずむ白い人影に気がついた。
またか!?
思わず息をのんだのだが……今度の人影は、ずいぶんと背が高く、やや薄汚れた白衣の前をきっちり閉じているのが印象的な、私とそれほど年も違わなさそうな若い男だった。
「ああ、やっぱり人がいた。よかった、他の部屋は全部真っ暗で、誰もいなさそうだったから、すごく心細くて……」
相手もほっとしたかのように、ややためらうような仕草をみせた後、一歩こちらに足を踏み入れてくる。私も、すぐ我に返り――先ほどの経験に比べると、ショックの度合いが段違いに低く、自分を取り戻すのにもさして苦労しなかったのだ――軽くうなずくと、
「あ、ええ。えと、それで?」
発言からして学生ではなさそうだし、あなたは何者なのか。なぜこんな夜中に、こんなところまで、なにが目的でやってきたのか……さまざまな問いを「それで?」の一言に込めて、投げかける。
相手はその言葉につっかえたかのように立ち止まると、それまでの硬い表情を崩し、
「あの、ここに浴衣姿のおばあさん、きませんでしたか?」
困り果てている顔になった。
「ええ、ええ。きましたよ、さっき」
「ああ、やっぱり!こちらに入り込んでいたんですね!」
「あの人は……」
「あ、入居者っていうか、患者なんですよ。この大学の裏手にある、特別養護老人ホームの。あ、僕は、そこの職員で、スズキといいます」
「ああ!じゃあ、オバケとかそういうんじゃ……」
思わずそう口にすると、スズキさんは、ふふっと苦笑を漏らした。
「ああ、確かにヤマシタさん……ていうのがあの患者の名前なんですが、白い浴衣に白髪を振り乱して、すごくオバケっていうか、幽霊っぽい感じですものね。でも、違いますよ」
そこでいったん言葉を切ると、スズキさんはにやりと笑い、「まだ生きてますよ、しっかりと」といたずらっぽくつけ加えた。
つられて私も笑顔になったところで、
「ただ、もうかなりボケの方が進んでしまってましてね。ちょっと気を抜くと、こうして夜中だろうがなんだろうが抜け出して、あちこち徘徊して、とんでもないところに入り込んだりして。本当に困りますよ。オバケの方がなんぼかマシ、ってくらいです」
スズキさんは、笑顔のまま、肩をすくめ……それからまた、真顔になった。
「それで、あの、ヤマシタさん、どちらに行ったか、分かりますか?」
「え、ああ……あの、あなたの立ってる入り口から出て行かれました」
「え?おかしいな、それじゃあ、途中で鉢合わせしてるはずなのに」
「ああ、この校舎、北と南の両端に階段と入り口があるんで、ひょっとしたら……」
「ああ、なるほど。じゃあ、反対の方から出て行ったのかもしれませんね。分かりました。ありがとうございます」
スズキさんはぺこりと頭を下げると、すぐにきびすを返し、出て行こうとした。
が、その前に顔だけこちらに向けると、
「あ、そうだ、一つお願いが……」
と言い出す。
そこから、二、三、言葉を交わすと、ようやく満足したのか、今度こそ、振り向きもせず、急ぎ足で廊下を遠ざかっていった。
廊下を歩き、階段を駆け下りて……足音が聞こえなくなるまで耳を澄ましていた私は、音がすっかり消え去ったところでふっと肩を落とし、力のない微笑を浮かべた。
オバケか……。やれやれ、科学の徒の端くれだってのに、我ながらみっともなさすぎだな……。
ため息と共に情けなさと疲れも吐き出し、ぶるぶるっと顔を左右に振ると、両手で頬を叩き、気合いを入れる。
さあ、実験に戻らなきゃ!明日の実習の準備もしなきゃだし……いけね、もうこんな時間だ!朝までになんとか終わらせないと……!
時計に目をやり、頭をカチッと切り替えると、人間社会の出来事は全て頭から追い出し、私は、中断していた作業に再び没頭したのだった……。