7.追い風1センチメートル②
「……え?」
クリアはぽかんと口を開く。レイニーの変わらない表情からは感情が読めない。
レイニーは戸惑うクリアを確かめるように一瞥し、目を逸らしてから話を進めた。
「刃物を胸まわりに置くことに賛成しない。知り合いの騎士が幼いころ、懐に短剣を隠し持った状態で階段を踏み外し、自分の身体に刺さって重傷を負った」
「ああ! それで」
ようやくレイニーのセリフの意図がわかった。セクハラじゃなかった……! とこっそり心の中で詫びておく。
「その騎士の方は大丈夫だったんですか?」
「今は私付きになっている」
廊下に立っているであろう護衛騎士がペコリと頭を下げた気配がした。
ちなみに、未婚の男女が二人きりで部屋に閉じこもることはマナー違反のため、医務室の扉は少し開いたままにしている。
(そういえば)
クリアはこれまでのレイニーの発言を思い出す。「君の世界の名前は」のアニメを知っているクリアは、クールキャラのレイニーの心内が優しいことは知っている。
現実でも、出会いシーンで馬乗りするクリアへの第一声は「怪我がなくて何より」だった。テニスボールからレイニーを庇ったときも、まずはクリアを心配するような発言をしてくれた。
コルセットの話を立ち聞きしたのも、クリアの傷を気にかけていたからこそで。
ーーズクン。
(……? なんだろう、胸の奥がむず痒いような、痛いような)
レイニーは自分のカバンからノートと一枚のプリントを取り出した。
「君が医務室で眠っていた授業分の、ノートと課題プリントだ。この科目は王立学園でもダントツに厳しいと聞く。そのプリントは自習用だと言われているが、進捗具合を確認するために提出を求められることもあるらしい。私の理解の範囲でわかりやすく書いたつもりだから、必要あれば参考に」
「! あ、ありがとうございます!!」
クリアは勢いよく顔を上げた。
口から飛び出したセリフは、世界を救うための計算でもなんでもなく、100パーセント純粋な「感謝」だった。
サンブリング男爵家の養女になった理由の一つ、クリアの成績優秀さは、勿論努力の賜物でもあったのだが……クリアは生来学びが大好きだった。
「!?」
クリアは目をこれでもかと見開く。
「れ、『零雨の王太子』が(口角だけだけど)微笑んだ……」
レイニーはまるで何事もなかったかのように表情を戻し、淡々と言った。
「私だって微笑むことくらいある。あまりにクリア嬢が嬉しそうだったから」
感情を表さないとされるレイニーだが、「描かれた画」を動かすアニメと違い、実物は立体であり静止する間もなく生きている。
もしかしたらアニメでは表現しきれなかった一瞬にだけ、見せる表情があったのかもしれない。
(あるいは、レイニーの顔面が眩し過ぎて、誰一人として感情の機微を拾えるほど直視できていなかったのかもしれないわ)
クリアは元々人の美醜に関心がなく、しかもアニメで見慣れているから別枠だ。
意外な発見をしつつ、クリアはまだ出来ていなかったことを思い出した。
もらった軟骨への御礼と、もう一つ。
「あの、本当にありがとうございました、色々と……。このいただいたお薬は大切に使いますね。それから、乗り掛かった船です、上着のボタンを最後まで縫わせてくださいませんか? まさかここまでテニスボールは飛んで来ないでしょうから」
「確かに」
(また口角だけ一瞬上がった)
つい先程感じた胸の痛みは「罪悪感」からか、とも思う。
クリアはレイニーを恋に落とそうと、打算で彼に好意的にしている。それに対して、レイニーには男爵令嬢のクリアを懐柔する必要などないから、あくまでレイニー自身の意思でクリアに接してくれている。
(何にせよ、ストーリーが破綻するという最悪の事態からは脱したわ。「親密度アップエピソード①」は完遂できなかったけど……二人の関係はエピソード前より進んでいる)
要所要所ではヒロイン・クリアになりきれていた? これは僅かだけど、クリアに追い風が吹いていると見ていい?
医務室の窓の外ではすっかり風が止み、美しいグラデーションの夕焼けが広がっていた。
クリアはボタンを縫う手に力を入れ、再び気合を入れた。
✳︎✳︎✳︎
クリアと別れた医務室からの帰り道、レイニーは背後に話しかけた。アスファルトの地面に影が長く伸び、周囲に学生はいない。
「ルーサー、先刻は助かったよ」
「いえ、呼びに行ったミス・メープルが速やかに来てくれて良かったです」
返事をしたのは、護衛騎士のルーサーである。ルーサーは特徴のない薄顔で線を引いたような細い目をしているが、目付きが悪いわけではない。むしろ常に笑顔に見えるような人好きする顔をしている。
護衛騎士ではあるが、実際の彼がやっている仕事は「王太子専属で動く諜報員」が近い。
クリアに説明したとおり、ルーサーはレイニーが幼い頃から側にいる。そのことはルーサーの誇りでもある。
「しかし、クリア嬢が昨日殿下に馬乗りになり、刃物を取り出した時は驚きましたよ。殿下がハンドサインを出して止めてくださらなければ、自分は彼女を拘束していたでしょう」
「あの令嬢からは殺気が感じられなかった。フェンスからの落ち方も明らかに不自然だったが、訓練された諜報員の動きなどとは異なっていたからな。それなのに」
レイニーは思い出すように微かに目を細める。
「……妙な緊張感があった。まるで、命でも懸かっているような」
「でもだからって、クリア嬢を観察するためにテニスボールを避けなかったのはどうかと思いますよ? 可哀想に」
「あの展開はさすがに想定を超えていた。悪かったと思っているよ」
「クリア嬢がいわゆる『天然ちゃん』という可能性だって、自分はまだ捨てていません。あ、ちなみに『天然』の性格を偽装することを『養殖』というらしいですよ」
ルーサーは苦笑いした。そして続ける。
「それにしても珍しいですね、レイニー殿下がご令嬢にこんなに興味を持つなんて。まさか、恋しちゃったんだとか……!?」
「意地の悪いことを言うな。この間の剣術稽古で手酷く打ち込んだから、その腹いせか」
こんな軽口をレイニーとやり合える人物は、この国に数えるほどしかいない。レイニーはそれでも表情を変えなかったが、やがてゆっくりと言った。
「クリア嬢の目的はなんだろう? 私が狙われるのだとしたら、あの『メモリア』絡みか? ないとは思うが、彼女がもしそれに関わるようだったらーー」
「そんな! まさか」
「私はどうするんだろうな」
その言い方が、一切の感情を殺したような……いや、感情が死んでしまったような言い方で。ぞくりとしたルーサーは思わずレイニーの横顔を見る。
あたりは丁度日没を迎え、レイニーがどんな表情をしたかは、よく見えなかった。
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