5.ヒロインと零雨の王太子④
目を開ければ、木の板の天井が広がっていた。ほのかに鼻を突く香りは、消毒液のもの。クリアはベッドに横たわっていた。
「……ここは」
「あら、気が付いたのね。ここは医務室よ」
おっとりと優しい返事をくれたのは、王立学園・医務室の名物おばあちゃん先生、ミス・メープルである。優しく世話焼き、お節介なのがたまに傷であるが、人生の先輩として信頼も厚く、全寮制の王立学園生徒の心の支えキャラである。
「頭に異常がなくて何よりね。鼻血も止まって良かったわ」
「鼻血!?」
「クリア嬢と言ったわね、貴女の制服は大丈夫なんだけど……貴女を抱きかかえて来たあの方のシャツには血がついてしまっていたわ。血液はお湯で洗うと固まってしまうから、水で洗うように伝えてね。ああでも、彼のワイシャツならプロ中のプロが洗うはずだから心配ないわね」
「レイニー殿下の護衛の方ですよね。ご助言ありがとうございます。戻り次第、必ず」
「ううん、貴女をここへ運んで来たのは、レイニー殿下自身よ」
「……れ?」
クリアは目を見開き、間の抜けた声を出す。そして回り始めた頭で、事態の異常さに気づく。
「なっ、何故レイニー殿下が?? 先程、『わたしを抱きかかえて来た』と仰りませんでしたか?」
「ええ、言ったわよ? 護衛騎士の方は、私を職員室に呼びに来たの。ちょうど会議中だったから。慌てて来てみれば、貴女を抱えたレイニー殿下がいて」
「うわっ……」
クリアは絶句する。
(ストーリーにはない気絶をした挙句、レイニーのワイシャツを鼻血で汚してしまった!?)
さあっと血の気が引いていく。
「クリア嬢、顔色が青くなってきたわ!? 貧血かしら、もう少し横になっていたほうが」
「いえ……大丈夫です。ちょっと別件で気が動転しているだけで」
クリアは眉間に握った手を当てる。これって夢だよねと思い込みたいが、勿論夢ではない。
見かねたメープルは水分補給に白湯のカップを渡してくれた。
「あと貴女ね、これは老婆心から言うんだけど……」
ふと眉を下げたメープルにクリアは首を傾げる。
「ごめんなさいね。あまりに呼吸が苦しそうだったから、コルセットの紐を緩ませてもらったの。その時に見えてしまって……
コルセットと身体との隙間を『物入れ』にしてはダメ」
ゴフッ、と白湯を噴き出しそうになるクリア。
ヒロイン・クリアと現実のクリアの間には「天然キャラ」以外にもう一つ、決定的な違いがあった。
ヒロイン・クリアはグラマラスとまで行かなくても、女性らしいスタイルをしていた。しかし、現実のクリアは良く言えば「華奢」。
入学前、王立学園の制服を試着をした際、アニメのクリアと何かが違う……と違和感を覚えた。
原因を考え抜いて、辿り着いた答えが身体の凹凸の差だった。
これはクリアの予想でしかないが、前世を思い出したことで身体にストレスがかかり、また、世界の終わりを防ぐべく準備にカロリーや睡眠時間を取られた結果だと思っている。
クリア自身は、今の自分のスタイルに不都合を感じず、なんら不満はない。
しかし、レイニーから見たらどうだ。「たで食う虫も好き好き」というから人の好みは千差万別だろうが、レイニーの好みはヒロイン・クリアである。
そしてクリアはあくまでもレイニーに好かれなければならない。
悩んだクリアだったが、最終的には「逆転の発想」に至った。
ヒロインサイズのコルセットを着用することで、実物のバストとコルセットの間に空間ができる。そこへ「必要な小道具」をしまっておけるのでは? と。
コルセットをつけている間は、服の上からならヒロイン・クリアと同じスタイルになる。
「必要な小道具」とは具体的に、ハサミなどだ。
あの出会いシーンの前髪カットの時、どこからともなく出したハサミは、このコルセットの隙間から取り出したものだ。
カバンも持ってないのに必要な小道具が登場してくるのは、アニメ映画「君の世界の名前は」あるある、なのである。
(まさかそれを見られるなんて。でも、ミス・メープルに理由を説明出来ないし……)
「若いうちから正しいサイズのコルセットをつけることは大切よ。私みたいに体型が崩れて来てからじゃあ、遅いんだから」
力説するメープルに、クリアはおずおずと言う。
「あの、先生、わたしのこの見栄を張ったコルセット(ということにしておこう)のことは、どうか内密に……」
「それはもちろんよ。生徒のプライバシーは拷問されたって誰にも言いません。例え、神様や王様に脅されてもね」
言い切ったミス・メープルは信頼できるキャラクターだ。クリアはとりあえず、ほっと息を吐く。
ラストシーンまでにクリアがレイニーと深い関係になることはないから、レイニーにバレようがない。
無事エンディングを迎えて世界を救えたなら、以降クリアがレイニーと一緒にいる理由もない。
しかし。
「あ」
医務室から出ようと扉を開いたメープルの短いセリフに、クリアは顔を上げる。メープルの直ぐ目の前には。
見間違えるわけがない、美しい銀髪に透き通る水色の瞳。
間違いなく室内の会話が聞こえていた距離に、アニメでも見たことがないくらい気まずそうなレイニーがいた。