37.零雨②
「早い時間にすまない」
朝露が残る王城の庭園で、レイニーはハンカチをテーブルへ出しながら言った。
「クリア嬢から預かっていたハンカチからは『媚薬』が検出された」
レイニーの言葉にクリアは背筋を伸ばす。側には護衛騎士ルーサーも立っているが、人払いがされており辺りには人気がない。
「ーーそれでつまり、クリア嬢はグロリア・リコリス嬢が何者かに媚薬を盛られていたかもしれないことに気づいて、彼女を助けるために星見台修道院へ行った、と」
上目で聞くレイニーにクリアはおもむろに頷いた。
あの夜、給仕から渡されたグラスの中身をハンカチに染み込ませ、コルセットの中へ閉まっていたのだ。それをレイニーへ渡して鑑定してもらったのである。
「グロリア嬢も給仕がグラスに不審なものを入れるのを見たと証言していました。それにわたしは、舞踏会開始前に、アーデン侯爵らが休憩室付近で不審な動きをしていたところを見ています。彼らが休憩室にいたことは、サンブリング夫妻も目撃していますから、必要あれば証人になれるかと」
「だとしても、おかしいな」
レイニーは手袋をした指を口元に当てながら言った。
「星見台修道院への紹介状の件が噛み合わない。今のクリアの話からすると、君がアーデン侯爵らの計画に気づいたのは舞踏会当日ということになる。君がグロリア嬢を助けるために、私に紹介状を依頼したのはひと月も前だ」
(鋭い! ……いや、わたしの話が節穴だらけなのか)
クリアは必死に頭を回転させる。
「……アーデン侯爵がグロリア嬢にご執心なのは社交界中の周知の話でしたから。わたしが知っていてもおかしくないよね?」
「そうであれば、クリア嬢は自分を二回も貶めようとした令嬢を身体を張って守ろうとしたことになるな」
「二回?」
(マナー講習室の件と女子寮の件? ーー何故レイニーが知っていて)
レイニーはクリアの問いには答えず、少しだけ考えてから口を開いた。
「クリア嬢には今日午後のキングスベリー公爵夫人の茶会に参加してもらいたい。アーデン侯爵には現在話を聞きに行っている最中だ。しかし、状況証拠しかない今、しかも相手が彼のような高位貴族なら、それだけで罪に問うのは難しいだろう。彼らは舞踏ホールでグロリア嬢が最後にクリア嬢といたことを知っているはずだからーー」
この場合の「彼ら」とはどこまでを指しているか。レイニーの脳裏には、きっとマリス・リコリス侯爵も浮かんでいるはずだ。
レイニーはクリアを覗き込む。
「王城側がクリア嬢を匿えば、クリア嬢がグロリア嬢失踪について一枚噛んでいることを知らせることになってしまう。いつも通り、何事もなく過ごしているアピールが一番だと思う。丁度今日の昼、王城でキングスベリー夫人の茶会が開かれる予定なんだ」
「なるほど」
キングスベリー公爵夫人とは、健康記念舞踏会一日目でファーストダンスを披露した、レイニーの親戚筋にあたる。
(キングスベリー公爵夫人のお茶会は、アニメでは)
ドクンと波打つ。
「あ、あの」
「うん?」
レイニーはいつも通りの涼しい表情で顔を上げた。しかし、その水色の瞳には出会った頃の険しさはない。
「レイニー殿下のこの後のご予定は」
「ブランチを諸国の来賓と取り、キングスベリー公爵が主宰する狩猟を見学してから、多少雑務をする。それから、夜の舞踏会に備えるつもりだ」
(悪あがきに最終確認しても間違いない。ついに、この時が来てしまった)
ーー「ヒロイン・クリアがレイニーに告白する」タイミングが。
「クリア嬢?」
黙り込んだクリアに、レイニーが気遣わし気に名前を呼んだ。
(落ち着け、落ち着くのよ)
突如、胃が迫り上がってくるような緊張感が走る。
アニメのヒロインの「役割」を演じるだけ、何も恥ずかしいことはない。怖いことなんて一つもない。
朝、唱えたことと同じことを繰り返す。
(大丈夫、大丈夫、だいじょうぶ……)
ぶつぶつ呟いているクリアに、レイニーはいかにもさりげなく言った。
「昨日、クリア嬢が出会ったシスター・アリアは私の母だ」
「!」
「詳しい事情は口外できないが、長患いというのは世間体だ。実際は母上自らの強い意思で、星見台修道院に入会した。父上はそれを認めた」
「父上は私より母上への『愛』を選んだ」
クリアは小さく息をのんだ。レイニーは気づかないフリをしたまま、さらりと続ける。
「そういう生き方をする人もいるのだと噛み砕いて、今はもう納得している。だが、王族としての責任を放棄したことだけはどうしても認めない。私には父を止めることも、母を引き止めることも出来なかった。だからせめて、私がもし選択を迫られることがあるのなら、何よりも王国を取ると決めている」
アニメでもレイニーが自分の両親について語るシーンがあった。
だけど、今この瞬間の、目の前のレイニーがアニメの強制力に言わされているとは思わなかった。レイニーは現実に生きていて、確かにクリアと同じ時間を過ごして来たからこそ、彼の人柄を理解できる。
だからこれは、レイニーが本当に感じていることなのだろう。何故だか、改めてそう思った。
「レイニー殿下、わたしは」
(今まで、わたしはエピソードを積み上げて来た。イレギュラーなこともあったけど……その努力と実績を思い出すのよ)
それなのに、今さらレイニーを直視出来ないとはどういうことか。
(レイニーに好きと言うだけ。たった二文字。いや、「です」を入れたら四文字……)
ぐるぐると思考が回る。
入学式。レイニーはいきなり空から振って来たクリアのことすら心配してくれた。テニスボールヘディングは失敗したけれど、レイニーは軟膏をくれて、課題とノートを貸してくれて、一瞬笑顔(?)を見せてくれて。
上げ底コルセットの秘密も一緒に抱えてくれた。
一緒に歌って、パスタスナックを食べて。
クリアが手作りしたフレグランスを褒めてくれたのは、努力が報われた気がして、格別嬉しかった。
マヌケに体育用具倉庫に閉じ込められて、笑って、一緒に満月を見た。
ドリズリーのために暗闇の中ボタンを探してくれて、クリアの話を聞いてくれて。
夜這い星を隣で見た。
レイニーはヒロイン・クリアだけではなく、現実のクリアといてくれた。その目で見てくれた。
昨夜のダンスは本当に、一生の思い出だ。
「……だから、わたしは」
(違う、アニメのセリフはそうじゃない)
エピソードには関係ない、迫り上がる気持ちを押し込んだ。
幽体離脱したもう一人の自分が、客観的に自分を見下ろしていると思い込んだ。
「それでも、わたしは」
目に涙の膜が張っている自覚があった。
どうして、ただ決められたセリフを言うだけなのに、こんなに苦しい。
(言いたくないセリフじゃないのにーーいや、だからこそ?)
クリアはとんでもない自分の心理に気づき、目を見開く。だが、それどころではない。
心を燃やせ、じゃなくて。
(心を、殺せ)
「わたしはレイニー殿下が好きです」
クリアは一息に、だがハッキリと声に出して言った。驚愕に目を丸くするレイニーが見えた。
少し離れた場所にいたルーサーは見たことのない主人の表情を前にして、ぱかりと口が開いている。
レイニーはほんの一瞬、堪えるように歪めた顔を逸らした。しかし、直ぐにクリアに向き直り、言葉を返した。
「そうだな。私もクリア嬢が好きだよ」
「……え?」
あまりに平然と答えるレイニーにクリアは固まる。
「それから、ラズベリージャムのサンドウィッチも好きだ。作り立てだとより嬉しい」
「…………そうですね?」
「侍女に、クリア嬢に午後の茶会について説明するよう指示している。キングスベリー夫人にもクリア嬢が参加することは話している」
「あ、はい」
ナチュラルすぎる会話をするレイニーに、返事するしかないクリア。
次の言葉を探す間もなく侍女が迎えに来て、レイニーは移動を促した。
(? !? どういう状況……? 告白が本気と取られなかったってこと?)
混乱しながら立ち上がったクリアの頬にポツリと一滴、水が当たった。
見上げれば、元々からの曇天はさらに濃色を増し、雨が降り始めていた。
(ーーいや、違う)
クリアは血の気が引いていく自分に気づく。
(……そうじゃない。あれは意図的に流された)
侍女と建物にたどり着いた頃には、雨はごく細い糸状になり、静かに地面を染めていた。
初夏とはいえ、寒々しさを感じさせる零雨だった。
傘を持った従者がレイニーたちを迎えにいく準備をしており、クリアは呆然とその様子を見ていた。
朝の天気からすれば、雨が降ることに違和感はなかった。逆に、アニメのエピソードで「雲の切れ目から光が差す」という天候の変化のほうが、不自然だ。
(今はアニメの天気とは異なる「雨」。つまり、告白エピソードの再現は……失敗した。しかも)
「きゃああ、クリア嬢!?」
侍女に構わず、しゃがみ込む。
終わりというのはいつも唐突にやってくる。
伏線があるのは物語だけ。
(レイニーはわたしを好きではなかった)
クリアには言い切れる。
何故なら、クリアは知っていたから。アニメ終盤に明かされる、レイニーの、この国の王太子の秘密を。
アニメ映画「君の世界の名前は」でレイニーが「恋する力」によって地球に落下する隕石を流星群に変えられた理由。
レイニー・カルセドニー王太子は、その感情の動きによって空模様を変えてしまえるのだから。
3/5 誤字報告ありがとうございます! 助かります。




